4
 
 
「え、えっ、えっ、なんですか、これは」
「みりゃ判るだろ。着ぐるみだよ」
 は……はい?
 川沿い――商店街の外れに設けられた仮設テント。分厚いビニルで覆われていて、外からは完全に遮断されている。 
 そこに、今日のイベントで使う道具やら記念品やらが押し込められているようだった。
 ここに成美を連れてきた沢村の意図を察した成美は、蒼白になって後ずさった。
「ちょっ、無理――、や、やです」
「しっ、静かにしろよ。隣のテントじゃミス灰谷市が控えてるんだから」
「で、でも」
「氷室さんが、そのお相手。今頃いいムードでコーヒーでも飲んでるんじゃない?」
「…………」
 その言葉で成美は黙り込み、沢村は鼻歌を歌いながら、巨大なダンボールの中から水色の物体を引っ張り出した。
「これ、知ってるだろ? しずくちゃん。来年開催される水と森の博覧会のイメキャラな。できたばっかだから、そんなに使い回されてないし、匂いとかも全然ないから」
「そ、それになんで、私が入らなきゃいけないんですか」
「近づきたいんだろ。氷室さんに」
 沢村はにやっと笑った。
「そんな見え見えの変装したって、あの頭のいい人にはすぐにバレるよ。それに、俺が見ても眉をひそめたくなるほど不自然だったし」
「そ、……そうだったんですか?」
 それほどでもなかったような――少なくとも、宮田さんは完全に誤魔化せてたみたいだし。
「その点、この着ぐるみなら、もう安全。なんたって頭からつま先まで隠れるんだから。足も上げ底になってて、身長もごまかせるし」
「う……うん」
「しかも立ち位置は、氷室課長の真後ろだからね。まさに、ベストポジションってやつ?」
「え、ほんとに?」
 と、だんだん沢村の言葉に頷きを返している成美である。
「もともと三ツ浦君が入るはずだったんだけど、あいつ、急に休むって電話いれてきてさ。年の順で俺が入らなきゃいけないところだった。助かったよ」
 助かるもなにも、私、まだ入るって決めてもないんだけど。
「何突っ立ってんの? 俺が着替え、手伝ってやろうか」
「いっ、いいです。冗談じゃない」
 成美は大慌てで、両手を振って後ずさる。
 そこで初めて、とんでもないやっかいごとに首を突っ込んでしまった自分を知った。
 この閉ざされた薄暗い空間に、よりにもよって沢村みたいな危険な男と二人きり。
 隣に氷室がいるとあっては、迂闊な声も出せないし――
「なんだよ。今さら怖くなってきた?」
 そんな成美を、追い詰めた鼠を見やる猫みたいな眼で見て、沢村は笑った。
「俺が脱がせてやろうか」
「ばっ、な、何いってんですか」
「声、でかいぜ。バレたら困るの、あんただろ」
 沢村の影が近づいてくる。
 恐ろしさのあまり成美はもう、声もでない。
 ど……どうしよう。
 まさか、このまま、沢村さんに、女としての屈辱を味合わされてしまうのでは。
 思わず眼をつぶった途端、こんっと、額が弾かれた。
「ばーか」
 呆れたように、沢村は言った。
「氷室さんがイライラすんのも頷ける。お前、隙ありすぎ。どこまで間が抜けてんだよ」
 は……はい?
「じゃ、さっさと着替えてきな」
 沢村はあっさり言うと踵を返し、そのまま外に出て行った。
 あとには成美と、水色の着ぐるみ人形だけが取り残される。
「あれ、沢村さん、まだ着替えなくていいんですか」
 外から宮田の声が聞こえた。
「ああ、知り合いの女の子がやってくれるって言うからさ。俺も他の仕事あるし、その子に頼むことにした。いいだろ?」
「いいとは思いますけど、今さらバイト料とかつかないですよ」
「いいっていいって、俺の親しい友だちだからさ」
「あ、もしかして恋人的な?」
「そんなとこ。他の連中には内緒、な」
 その会話を、中の成美は呆然としながら聞いている。
 ど、どうすればいいの、私。
 なんだかもう、後には引けない空気なんですけど――
 
 
             5
 
 
「どうぞ、こちら記念品です」
「本日は道の日です。どうか皆さん、道路のことをよく知ってください」
 ――暑い……。
 成美は、ふらふらになりながら、前を行く氷室のそんな声を聞いていた。
 商店街のパレードは、午後一時丁度にスタートした。
 簡単なセレモニーと、ミス灰谷市の挨拶があって、墨田局長とミス灰谷市が先頭。
 氷室と準ミス二人がその後に続き、あとは水と森の博覧会のキャラクター人形がそれに続いた。
 しずくちゃんの中には成美が、もりぞう君の中には、どうやら宮田が入らされているらしい。
 その背後には、ボランティアで集まった市職員や地元商工会の人たちが続いている。
 日曜の商店街で、このパレードはそこそこ注目を集めていて、こと、子供に人気なのがしずくちゃんともりぞう君の人形だった。
 あちこちで叩かれる写メのフラッシュ。わーっと寄って来る子供たち。じっと見られると、おどけなくてはいけないような、そんな義務感にかられてしまう。
 両手を広げて、スキップを踏んでいると、ぶっと背後の沢村が吹き出すのが判った。
「のりのりじゃん」
 だ…………誰のせいだと思ってるのよ!
 確かに出来たばかりの人形らしく、匂いはそんなにこもっていない。が、暑い。とにかく熱い。炎天下、空気穴は眼と口のところだけ。これじゃ、辿りつく前に熱中症で倒れてしまいそうだ。
 しかもこのしずくちゃん、名前に似合わずスマートなもりぞう君と違って、腹部がばかでかいのだ。水滴をイメージして作られたのだから仕方ないのだろうが、とんでもなく、それが重い。
 ――し……死ぬ。
 商店街ってこんなに長かったっけ。いったいいつまで、この地獄の行進が続くのよーーっっ
 氷室のことなんか、もう構っている暇すらない。時折仕掛けられる子供のアタックにも要注意だ。このアンバランスな重みは、一度倒れてしまえば、二度と自力で起きられないことを意味している。
「ねぇねぇ、管理課の課長さん、マジでかっこよくない?」
「まだ20代なんですって。国の官僚さん、エリートよ」
 そんな囁きが、不意に成美の耳に飛びこんできた。
 いや、氷室さんは20代じゃないぞ。一体誰が、そんな不遜なひそひそ話を。
「誘ってみた?」
「だめ。今夜はスタッフで打ち上げがあるんだって。ほら前の子たちと」
 前の子たち――とは、おそらくだが、ミス灰谷市たちのことを言っているようだった。
「あいつら、完全に落としに行ってるね」
「大した美人でもないくせに。所詮頭の弱いプーじゃん」
 成美はようやく、その刺々しい声の正体に気がついた。
 地元企業から参加したボランティアたちだ。その正体は若いOL。
「どうする?」
「あれやっちゃおうか」
「マジで?」
 あれ?
 成美の耳は、もう象なみに大きくなっている。集まる子供たちの頭をなでたり握手をしたりしながら、意識だけは、背後の会話に釘付け状態だ。
「総務のリカが、それでサイトウ課長を落としたって」
「でもどうやって?」
「簡単よ。偶然ぶつかったふりして、とりあえず手元のちらしを落としちゃえば。それ拾ってる間に、ふらーって。こんだけ暑いんだもん。誰か倒れても不思議ないでしょ」
「姑息〜、でもやりたーい」
 ――はぁ??
 な、なになに今の、その会話。
 まったくもって聞き捨てならない。私の氷室さんを、そんな卑怯な手で毒牙にかけようというなんて。
 自由にならない身体を動かして、成美はそろそろと背後を見た。
 そして、うっと呻いていた。
 と、とんでもない美人じゃん。
 顔立ちの端麗さは、先頭に立つミスや準ミスに負けていない。少し年はいっているようだが、それだけに貫録溢れる美女たちである。
 ――ちょ、ちよっ、ちょ、マジまずい。
 こんな紅蜘蛛みたいな人たちに、氷室さんが罠に掛けられてしまったら。
「じゃ、いこうか」
「うん、丁度人通りも絶えてるしね」
 ど、どうすればいいの、私。
 ここで下手に騒いで正体がばれてしまったら、元も子もない。
 変装しただけでもどうかと思うのに、沢村の口車にのって着ぐるみの中にまで入っていたと知れれば、氷室は絶対に不機嫌になるだろう。その後の仕打ちを思うと――
 む、無理。
 ここは氷室さんを信じて、じっと我慢していたほうが……。
 女たちが、成美の横を通り過ぎていく。
 その前には氷室が、少し疲れているのか、ややうつむき加減に歩いている。
 ――え、なんだろう。氷室さん、元気がない……。
 彼の唇から零れる溜息を、幻聴みたいに聞いた時、殆ど衝動的に成美の脚は動いていた。
 両手と頭を左右に振りながら(精一杯踊っているつもり)、氷室の背後に立ち塞がる。
「えっ、なに、この着ぐるみ」
「邪魔、どきなさいよ」
 どきなさいよと言われても、ここでどいたら氷室さんが蜘蛛の巣に。
 もうやけくそで、成美はスキップをしながら、両手をひらひらと振り回した。
「げ、しずくちゃんが暴走してる」
「おいおい、誰も見てない時は、そんなにサービスしなくてもいいって」
 後と隣から、宮田と沢村の慄いたような声が飛び交う。
「ちょっと、なにこいつ」
「もしかして、わたしらの邪魔してんじゃない?」
 女の勘は恐ろしく鋭かった。ぎょっとした成美が、思わず後ずさった時には、もう女たちに腕を掴まれている。
「ねぇ、中に誰が入ってんのよ」
「どいてってば」
 ――えっ……。
 どん、と肩――もとい、しずくちゃんの腹あたりを突かれ、成美は呆気なくよろめいていた。
 体勢を立て直そうにも、着ぐるみが重くてどうにもならない。
 あわわ、と漫画みたいに両手を回しながら、成美は背後に引っくり返った。
 ぼいん、ぼいんと、弾むような衝撃があり、身体が数度バウンドする。その弾みで、頭を二、三度着ぐるみ内部のプラスチック部分にぶつけ、成美はくらくらっと眩暈のようなものを感じていた。
 ――……まずい。
 息苦しくて熱い着ぐるみの中で、もともとぼーっとしていた意識が、なんだかうすぼんやりと陰ってきたような気がする。
 滲んだ視界には商店街のアーケード。そこに、幻でなければ色んな人の顔が飛び込んできた。
「おっ、おい、大丈夫か?」
 沢村さん。
「これ、一人じゃ起き上れないですよ。誰か手を貸してやらないと」
 もりぞう――もとい、宮田さん。
「てか、中の人動いてない。もしかして、意識ないんじゃないの」
「おーい、三ッ浦、しっかりしろ」
「や、中、沢村さんが連れてきた女の子なんですよ」
「女? 中で気分悪くなってるなら、早くこの着ぐるみ脱がせないと」
 ――げっ。
 ぼんやりとした意識の中、周囲の声だけを聞いていた成美は、慌てて手を振って否定しようとした。が、手も足も重く、まるで力が入らない。
「後ろチャック?」
「まず、ひっくり返さないと。そっちもって、せーのっ」
 や、やめてええええ。
「ちょっ、大丈夫だと思うし、中の子、多分すごい格好になってるんで」
 慌てたような声で遮ってくれたのは沢村だった。
「お、俺がテントまで連れて戻って休ませるんで。ここで脱がせるのだけは勘弁してやって。一応、ほら、女だし」
 ――さ、沢村さん……。
「な、お前も大丈夫だろ? 大丈夫なら、少しだけ手、あげてみな」
 成美は急いで、必死に力を振りしぼって右手だけを挙げて見せた。
「ほら、じゃ、俺が連れてくから。みんな、悪いけどそこどいて」
「――ああ、沢村さんの……」
 周囲でひそひそと囁きがした。
「そんなに大事な彼女なら、なんで着ぐるみの中に入れたんだ?」
「しかも、自分の代わりに、だろ」
 成美はもう、ひやひやしながらその会話を聞いている。沢村の人間性にどんなクエスチョンマークがつこうが知ったことではないが、とにかく一刻も早くこのピンチを救ってほしい。
 その時だった。
「僕が連れて行きますよ」
 少し離れた場所から、ひどく落ち着いた声がした。
 成美は着ぐるみの中で、頭から冷水を浴びせられたような気持になっている。
 ――ひ、氷室さん……。
「沢村さんは、ゴール地点で誘導の仕事があるでしょう。この中では僕が一番暇なので、僕がこの人を連れて行きます」
「い、いや、いいっすよ。俺の知り合いなんで、はい」
 慌てたように沢村。
 いや、ここで慌てるくらいなら、最初からこんな無謀な真似をしないでほしかった。氷室を前にした沢村の思わぬ底の浅さに、成美は半ばあきれている。
「手伝いを頼んだ民間人に事故があったら、大変なことになるでしょう」
 淡々とした声が、近づいてくる。
「全て、課長である僕の責任になりますからね。僕が責任をもって連れて行きますよ」
 着ぐるみの中で、成美は蒼白になっていた。
 絶対に――気付かれてる………
 沢村の慌てっぷりもそうだが、氷室の声の異様なまでの静けさが、如実にそれを告げている。
 氷室はもう、着ぐるみの中に誰が隠されているのか、気がついているのだ。
「さぁ、立てますか。起きてください」
「ひ、氷室課長、いいんですって、放っておいてくださいよ」
 成美の前に、ふたつの手が差し出されている。
 どちらの手も、救いの手というより、それとは真逆のものに思えてしまうのは何故だろう。
 沢村の手と氷室の手。
 この場合、私は一体、どちらの手を取ればいいの?

 
 
 
 
 
 
 
 
  >沢村の手 >氷室の手  >back  >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。