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6
「やあ」
ぶはっ――と、ようやくぬいぐるみの中から顔を出して、聞こえた第一声がそれだった。
「思わぬところで、お会いしましたね」
冷え切った氷室の声に、成美はただ、笑うしかない。
「……あ、はは、」
「ははは」
さらに乾いた笑いで返され、成美はひきつらせるように、喉を鳴らした。――最悪の展開。
「…………」
「…………」
こうやって間近で見る氷室さんも、昼間以上にかっこよくて素敵。今日は特に、ライトグレーのスーツがさまになっていて……なんて言っている場合ではなかった。
「怒って、ますよね」
唇に笑みだけを浮かべたまま、氷室は一言も喋らない。
――ど、ど、ど、どうしよう。
氷室と2人、元来た道を引き返して、再び成美は仮設テントの中に戻っている。
氷室と向かい合って立ったまま、成美は改めて逃げ場を失った自分を知った。
――失敗、とにもかくにも大失敗だった。
どうしてあの時、沢村ではなく氷室の手を取ってしまったのか。半ばバレているとはいえ、逃げ切れれば、いくらでも言い訳しようはあったのに。
それでも、氷室を選んでしまったのは、もう、条件反射としか言いようがない。
だってそうだろう。沢村と氷室が二人して手を差し伸べてくれていたら、成美が選ぶのは氷室以外にありえない。――
が、今はその選択を、心の底から後悔している成美だった。
「お……怒って、ますよね」
「当たり前です」
ひえー………。
「すみません、すみませんすみませんすみませんっ」
こうなったらもう、謝って謝って謝って謝り倒すしか。
が、氷室は眉一筋動かさなかった。
「なるほど。謝り倒して誤魔化すつもりなんですね」
なんで、そんなことまでバレてるのよーーーーっ
氷室は腕を組んで、積み重なったダンボールに背を預けた。成美を見下ろす双眸は、恐ろしいほど冷え切っている。
「それで許されると思ったら大間違いですよ。朝から何をしにきたかと思えば、何もかも沢村君の計画だったというわけですか。だいたい何をしようとしたか察しがつきますが、本当に底が浅い、考えなしの人だな、君は」
う…………。
全てが図星なだけに、何ひとつ反論できない成美である。
首から下を、いまだ着ぐるみの中に埋めたまま、がっくりとうなだれた成美は、殆ど萎れた声で言った。
「……ごめんなさい……、誤魔化すつもりとかじゃなくて、……本当に、ごめんなさい」
「…………」
氷室がわずかに息を吐く。それは呆れているようにも、諦めたようにも聞こえ――わずかな期待をこめて、成美はおそるおそる彼を見上げていた。
しかし彼の表情は、先ほどとひとつも変わっていなかった。
「今度はしおらしくみせて、同情を誘おうと?」
――もう……。
また、心の底を読まれている。
一体全体この人はなんなの? もしかしてエックスメンですか?
成美は諦めて、顔を上げた。
「わ、わかりましたよ。もう無駄に謝りません。でも、いつから私のこと、気がついていたんですか」
「朝からだと言いませんでしたか? あんな子供じみた変装で、人を欺けると思う方がどうかしている」
――う……。
「それに、僕は耳がいいのかな」
氷室は皮肉な眼になって冷笑した。
「この隣のテントで、僕は今日のゲストの接待役を務めていたのですが、こちらのテントから、なにやら聞き捨てならない会話が聞こえてきましてね。なるほど、こんな狭いところで、君は沢村みたいな男と2人きりでいたわけですか」
「………………」
わかりましたよ。氷室さん。私はもう、あなたに隠れて何ひとつできない女なんですね。今日はそれが、骨の髄までよく判りました。
「だって、心配だったんです」
成美はようやく、本音を吐いた。
「心配?」
それは、初めて氷室には読めない答えのようだった。
「こ、このイベントには、ミス灰谷市とか、すごい美人が来て、夜はその人たちと飲みにいくからって、……な、なんかそれ聞いたら、いてもたってもいられなくなって」
「はぁ……」
「それで、隠れて様子を……見たいなーって思って。み、みっともない真似して、すみません!」
成美にしてみれば、庁舎の屋上から飛び降りんばかりの勇気を振りしぼっての、恥かしい告白であったが、氷室は心底呆れたように、しばらく眉をひそめていた。
「心配で」
「は、はぁ」
「僕の事が」
「ええ、まぁ……」
それは、言い換えると、あなたを信じていないことになるのですが、そこには気づかずにできればスルーしてください!
「日高さん」
氷室は真面目な眼で、まじまじと成美を見た。
「君はまるで判っていない」
で、ですよね。
氷室さんがそんな人じゃない――安易に浮気をするような人じゃないって、私、そこんとこをいまひとつ信じてな判ってなかったですよね。
「僕が、容姿やスタイルの優劣で、君を選んだとでも思っているのですか」
「……………え」
目が点になった成美の前で、氷室は顔をそむけ、ひどく冷めた口調で言った。
「馬鹿馬鹿しい。ミスだかなんだか知らないですが、僕にしてみれば、役所の職員と仕事をしているのと、なんら変わらない感覚ですよ。気にする方がどうかしている」
――まぁ、それは、確かにその通りなんですけど。
どうリアクションを返していいか判らず、成美は曖昧に首をかしげる。
今の発言……、喜んでいいのか、傷ついていいのか、ものすごく微妙だぞ。
「ま……相当腹は立ちましたが、今回は許してあげますよ」
氷室は軽く息を吐いて、ダンボールから背を離した。
「え、本当ですか?」
「君があんな真似までして、僕を助けてくれましたからね」
――え……?
「聞こえていたんですよ。背後のお姉さま方の会話が、全部、ね」
はじめて楽しげに笑うと、氷室は唇に指をあてて、成美を見下ろした。
「は、背後って?」
「だから、僕とぶつかっておいて、故意に倒れようとしていたんでしょう? その前に君が躍り出てきて、先手を打って倒れてくれたじゃないですか」
「…………」
いや、てか、一体どこまで耳がいいんですか、氷室さん。
あの距離で、あのひそひそ話をどうやって?
「エックスメン……」
成美は思わず呟いていた。
「はい?」
「い、いえいえ、独り言です」
いつか、プロフェッサーXが迎えにくるんじゃないのかしら。いや、氷室さんの場合、どっちかといえばマグニートが……。
「しかし、まぁ」
くすくすと氷室は笑った。
「な、なんですか」
「いや、可愛いな、と思って」
はぁ?
固まる成美の前に、氷室がゆっくりと歩み寄ってきた。
「ふふ……当分、しずくちゃんを見ると、おかしな気分になりそうだ」
はい??
氷室が、上着を脱いでネクタイを緩める。
まさか――
嫌な予感を覚え、成美はざっと後ずさっていた。
「ちょ……、さ、さっき、顔やスタイルで私を選んだわけじゃないって」
「君とミス灰谷市を比べたところで、なんの意味もないということですよ」
「でも、だって、それは」
「僕にとって君は、十分すぎるほど魅力的なんです」
――氷室さん……。
う、まずい。ここでこんな、不意打ちみたいに甘い言葉を言われたら。
かがみこんだ氷室の唇が、そっと、成美の唇に重なった。
キス――
さっきまでの毒舌が嘘のような、甘くて優しい、溶けそうな口づけ。
「ん……」
「もう少し、口を開けて……そう」
「ひ、氷室さん。だめ」
顎を指で支え、もう片方の手をうなじに回して引き寄せながら、氷室は危険すぎるキスをやめてくれない。
呼吸を求めて唇を離しても、すぐに角度を変えて食むように塞がれる。
――だめ……氷室さん。
そんなキスをして、どうするの?
こんな場所で、キスだけでも相当危険な行為なのに、今みたいに、互いの心に火をつけるようなキスを続けたら。
胸が絞られるように苦しくなって、身体全体がじん、と心地良くしびれている。どうしてキスだけで、私の身体はこんな変化をみせるんだろう。息苦しいから? それとも次に与えられる快感を知っているから?
多分、違う。
普段氷のように冷たい氷室が、内側に秘めた熱を垣間見せる時、それだけで、成美はその熱がもっと欲しくて見たくて、たまらなくなるのだ。彼が好きだという気持ちで一杯になって、胸が絞られる程苦しくなるのだ。
氷の底に隠されている彼の熱が、私一人だけに向けられていることが嬉しくて。――言いかえれば、その時でしか、成美は氷室に愛されているという実感がもてないのかもしれない。
唇がようやく離れた時、着ぐるみの熱も相まって、成美はぼうっと熱に浮かされたようになっていた。
「さて」
半ば陶然としている成美を見つめながら、氷室はどこかいたずらっぽい声で囁いた。
「皆がパレードを終えて戻ってくるまで、予定ではあと一時間。その間、君でゆっくり遊べますね」
「えっ?」
私で遊ぶ?
先ほどの心地良さも忘れ、成美はさーっと血の気が引くのを感じていた。
「だって、ぬいぐるみは玩具でしょう?」
微笑する氷室の顔が、――怖い。
成美は後ずさろうとして、着ぐるみに巻かれた身体が、全く自由にならないことに気がついた。
「ま、待ってください、氷室さん」
「残念ですけど、時間があまりないんですよ」
迫る氷室の影を成美は懸命に押しとどめた。
そ、そりゃ、身体は続きを求めていますよ?(ちょっとエッチな言い方をすると)でも、でもですね。ここはそう言う場所では――しかも、真昼間なんですから!
氷室の手が成美の背中にまわり、着ぐるみのチャックを下ろそうとする。成美は懸命に身をよじって、その指から逃れ続ける。さしもの脱がせ上手な氷室も、着ぐるみ相手とあっては、なかなか思うようにいかないらしい。
今となっては、この鎧のような分厚い着ぐるみに、ただ感謝したい成美であった。
「あまりふざけていると、転びますよ」
氷室はそれでも楽しそうだ。
「お、お願いだから勘弁してください。遊ぶとか、この状況で何を考えているんですかっ」
いつものことだが、今も、焦っているのは成美1人だ。
「そりゃぬいぐるみは玩具ですけど、着ぐるみは、遊ぶものとは違うんです。だいたいこれは、市のイベント用に作られたもので――きゃあっ」
脚をもつらせて、あっけなく成美は転がっていた。成美、というより着ぐるみのしすくちゃんが仰向けに引っくり返った格好だ。
「ひっ、氷室さん、助けて」
なんとも不安定な体勢に、成美は慌てて手足をばたばたさせた。
逃げることもできなければ、起きることもできない。とんでもなく無防備な体勢は、氷室の前では危険すぎる。まさに俎の上の鯉状態だ。
ここは、大騒ぎしてでも、とにかく起こしてもらわないと。
「これ、倒れたら、絶対に一人で起きるの無理なんです。手、――手を貸してくださいっ」
「遊ぶもの、ですよね」
悠然と見下ろす氷室は、この状況を完全に面白がっているようだった。
「ぬいぐるみは遊ぶもの。今だって一人で楽しんでいるじゃないですか」
「そうです。その通りです。だ、だから早く手をっ」
くすくすと氷室は笑った。
「早くって、そんな重たいもの、僕一人で抱えられるわけがありませんよ。だから逃げたりしないで、素直にそこから出ていればよかったのに」
「そ、それはそうなんですけど、とにかく今は――」
笑いを噛み殺したような顔になった氷室が、膝をついて、着ぐるみのチャックを下ろしはじめた。もう成美にはなす術もない。
「ほら、いい子だから出ておいで」
「い、犬じゃないんですから」
観念した成美は、やっとの思いで着ぐるみの中から這い出した。そのまま氷室の膝に抱きかかえられる。
「ワンと鳴いてごらん。ご褒美をあげるから」
「な、鳴きませんよ。なんなんですか、さっきから。おかしいですよ。氷室さん」
ぱっと赤くなった成美は顔を背ける。その成美の額に自分の額を押し付けるようにして、氷室はからかうように囁いた。
「ワン」
「……わ、ワン?」
氷室の眼が優しくて、そしていつもの彼からは想像もできないほど楽しそうだったから、成美もつい、つられてワンと言っていた。
――ああ、私って、ただの馬鹿?
氷室さんの優しさが、危険すぎる罠だって、それは十分承知しているはずなのに。
案の定、成美を見下ろす彼の眼に、暗い影が揺れるように掠めた。
「氷、室さん……?」
「上手に鳴けた犬には、ご褒美をあげなきゃな」
――あ……。
キスで唇を塞がれて、すぐにそれは、呼吸も奪われるほどに深くなる。
チュニックドレスの下から、彼の手が滑り込んでくる。冷たい手は、あっさりと成美の素肌に辿りついた。
「下着も、黒?」
耳を噛まれながら囁かれ、成美は真っ赤になっていた。
「ち、違います。ス、ストッキングだけ。……い、イメージ、変えなきゃって思ったから」
「へぇ、それは、残念」
夏の盛りなのに、やっぱり氷室の指は冷えていて、成美は少し寂しくなる。
が、そんな風に思えたのは束の間で、すぐに成美は氷室の大胆さが恐ろしくなった。
「ひ、氷室さん……。あの、ここ、よく考えたら商店街の近くですよね」
「そうでしたっけ」
「そ、そうですよ。しかも公用で張ってるテントの中じゃないですか」
戻ってこ−い。氷の理性。
が、氷室は実に無邪気ににっこりと笑った。
「大丈夫ですよ。人が近づく気配があれば、僕がすぐに気づきますから」
い、いや……。
判ってください。頼むから。
私が言っているのは、そういう問題じゃないんですよーーーーーっっっ
「や……は、恥かしい」
氷室の膝の上で、成美の脚から黒のレースストッキングが引き抜かれる。
「恥かしい? こんなもので、僕を挑発しておいて?」
「――ょっ 挑発なんて、して、な」
言葉を途切れさせ、成美は氷室のシャツにしがみついていた。
「や、……や、氷室さん」
冷たい指が、成美の一番熱い部分に埋められていく。
簡単に追い詰められて、思わず零れそうになった声は、熱を帯びたキスで余すところなく奪われた。
ドキドキしすぎて胸が痛い。もうこれだけでも、50メートルを全力疾走したほど呼吸が乱れているのに、氷室はまだ行為の続きをやめようとしない。
「ひ……氷室さん、や、めて」
「どうして? 僕は全然遊び足りないのに」
「い……やっ」
首を振って抗ったところで、すでに本気になってしまった氷室からは逃げられない。
声が高まる度に唇でそれを奪われて、何度も、陶酔に落とされて、そしてまた引きあげられる。彼の唇と指の愛撫に、身体も心もとろとろに溶けて、このまま――気を失うかも、と思った時だった。
「……僕も、そろそろ、苦しくなってきたな」
初めて氷室が、どこか掠れた声を洩らした。
ぼんやりと薄眼をあけて見あげると、舌で唇を舐めた氷室が微笑している。
「このあたりに、しておきますよ。続きは今夜、僕の部屋で」
頬を指で撫でられ、額に、そっと唇を当てられる。
半ば思考が溶けたまま、成美は小さく頷いた。
あれだけ恥かしかったのに、離れると判った途端、理不尽な寂しさがこみあげる。――やっぱり、氷室さんの傍が好き。このままずっと、一緒にいたい――
氷室は成美の衣服を整え、自らも手を清めると、成美の両手を取って立たせてくれた。
「さ、立って」
「……すみません」
優しいな。氷室さん。
こういう時だけは、彼を普通の男の人だな、と思えてしまう。
情事の後はひどく優しい。まるで成美をお姫様みたいに扱って――
「さぁ、じゃあ、もう一回それを着て、帰りのパレードに合流しましょうか」
「………………」
はい?
成美は耳を疑った。なに、今の、聞き間違い?
「……まさかと思いますけど、しずくちゃん?」
「他に、何が?」
氷室は平然と微笑している。それでも信じられず、成美は重ねて聞いていた。
「私が、ですか?」
「まさか僕に、それを着ろと?」
数秒、呆気にとられた成美は氷室を見上げ、氷室はにこやかに成美を見下ろしていた。
「さ、急いで。今から行けば、残り三十分は復路のバレードに参加できます。一度引き受けた仕事は完遂しないと」
え……え?
あっと言う間に、成美は再び着ぐるみの中に閉じ込められていた。
「ほら、行きますよ。日高さん」
さっと氷室が、テントの覆いを勢いよく開ける。
外は、さんさんと輝く太陽。
「急いで。ぐずぐずしていると、間に合わなくなりますよ」
「は、はいっ」
―――鬼!
結局のところ、氷室は成美を許してはいないのだ。許しただのなんだの甘い言葉で罠にかけておいて、いたぶって遊んでいるだけなのだ。
――ああ、あたしって馬鹿。氷室さんの性格はよく知っているはずなのに。
「ほら、日高さん。子供たちが寄って来たので、得意の踊り、お願いします」
「………………」
ええ、もうやりますよ。踊りでもなんでも。
それでも、結局、こんなシチュにまで幸福を感じている。
氷室さん、私すっかり、あなたにいじめられるのが、体質になっちゃったみたいです。――でも、やっぱり、こんなの何かが間違ってる?
沢村君の誘いにのったけど氷室の手を取ってしまったVr(終)
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