「道路ふれあい月間、ですか」
「ええ、今月がね」
 運転している氷室は、視線を交差点に巡らせた。
「それで、10日の道の日に、市内商店街でキャンペーンを兼ねたイベントがあるんです。前日準備もあるから、あの週はちょっと会えないかな」
「そうですか」
 なんの気なし、といった風に答えながら、助手席の成美は心の中でそっと溜息をついていた。
 道の日、とは、国土交通省が制定した日本固有の記念日である。
 簡単に言うと、皆さんが普通に利用している道路って、すごく重要で大切で、かつ金がかかったものなんですよ。と――そういった啓発の意味を込めた記念日だ。
 そして道の日を含んだ8月は、国土交通省によって制定された「道路ふれあい月間」なのであった。
「あの日が、何か?」
「あ、いえ……お休みだから、いつもみたいに会えないかな、と思っただけです」
 成美は慌てて首を横に振った。
 氷室は、特に気にすることなく、視線を戻す。
「灰谷市だけでなく、国をあげてのイベントですからね。今月は忙しくなりそうですよ」
 ふぅん……。
 成美は、視線を窓の外に向けた。
 じゃあ、無理だな。
 10日は折悪しく日曜日。その週末の後にお休みをとって、少し遠出――なんてことは、提案するまでもないようだ。
 夏――8月。
 せっかくの夏休み。もしかしたら二人きりで旅行とか――と少しは期待したものの、氷室にそんな気は最初からなかったようだった。
 運転している氷室を、成美は横目でちらっと見上げた。
「じゃあ、道路管理課の夏休み9月末まで延長ですか」
「そのようですね。行政管理課は通常どおりですか」
「はい。うちは、8月いっぱいで終わりです」
 多少の寂しさをこめて成美は言った。
 役所の夏休暇は5日で、それは7月から8月の間に任意に取得するよう義務付けられている。が、8月に業務が集中している課は、特別に9月までの延長が認められているのだ。
 ――あの週、私は三連休なんだけどな……。ああ、やっぱり、休みの日を合わせて旅行とか、無理そうか。
 成美のいる行政管理課では、職員が順番で休みをとれるよう、予め休みの日程が決められている。
 成美は今月の11日――10日の翌日である月曜日に、休みを取る予定になっていた。
「お休み、重なりませんねぇ」
「まぁ、今月はたまたまで。通常、土日は一緒に過ごすじゃないですか」
 氷室の綺麗な横顔が、可笑しそうに笑んだ。
「それに、平日は会えないと僕を拒否しているのは君なのに。ははぁ、もしかして欲求不満ですか?」
「ちっ、違いますよ。失礼な!」
 成美は真剣に抗議したが、氷室には響かないのか、彼は唇の端で微かに笑んだだけだった。
「失礼? 判らないな。僕には望ましい状態なのに」
 全く――
 男の人って、みんなこういうものなのかしら?
 どうして会う=○ッ○○なわけ?(成美のイメージのためあえて伏字といたしました)
 私は、ただ一緒にいて、色んな話をして、手を繋いで、時々ぎゅっとして、それからキスして――そのくらいでもう十分幸福なのに。
 とはいえ、成美とて男女の性差は知っている。女はそれで十分でも、男にはそこがスタートなのだ。氷室の場合、スタートというよりせいぜいウォーミングアップ程度のものだろうが。 
 ここにもまた、年齢と同じ隔たりがあったりする。
 もちろん、好きな人に求められるのは嬉しいし、衣服を脱いでもなお美しい彼の素肌に触れたいとも思う。が、会いたい=○ッ○○と思われるのはとんでもない心外だ。
「ま、いいです。8月は、せいぜい道路を大切にしてあげてください」
 成美は少し強がって言った。
「ええ、日高さんの分までね」
 くすりと笑って、氷室は前に向きなおった。
 ――道路ふれあいイベントかぁ……
 成美は気鬱な溜息をついた。
 実のところ、この件に関しては、寂しさとは別の部分で若干不安を覚えている成美である。
 というのも――
 
 
 
「私の知らないあなた」
 
 
 
             1
 
 
 ビー
 ビー
 非常サイレンみたいな携帯のアラーム音で、成美はベッドから跳ね起きた。
 ――朝……
 寝ぼけた眼で枕元に置いていた携帯電話を取り上げ、うるさくがなりたてているサイレンをオフにする。
 のろのろとベッドを降りた成美は、窓を覆うカーテンを開けた。
 外は暁闇。
 日曜日の朝の五時の景色なんて、この窓から見たのは初めてかもしれない。
 普段でもこれほど早くはない成美の起床には、当然のことながら理由があった。
「あー、早く顏洗って、支度支度」
 一人暮らしが長いせいか、つい出てしまう独り言を口にしながら、成美は両頬を掌ではたいて、洗面台に向かった。
 口の中に歯ブラシをつっこんでかきまわしている内に、ようやく今日すべきことが、ひどく事務的に胸の裡に思い出されてくる。
 メイク、どうしよう。
 ちょっと濃くしてみようかな。普段が薄付きだから、それだけでも結構な変化になるかも。
 室内の壁には、今日のために用意した服がかけられている。
 ド派手なエメラルドグリーンに黒の幾何学模様が入ったミセス風のチュニックドレス。これに、黒のレース模様のストッキングと同色のヒールをあわせるつもりだ。
 目元が隠れる幅広の帽子に、ウェーブのはいった茶髪のウイッグ。そしてサングラス。
 そう――今日、成美は変装して出かけるつもりなのだ。道路ふれあいイベントへ。
(ああ、道路ふれあいイベントね。あれ、気をつけた方がいいと思うぜ)
 もちろん、自分のしようとしていることが、少しばかり姑息な――恋人として、というより人間として、恥かしい行為であることは自覚している。
(あのイベントには、毎年、ミス灰谷市の女の子が参加するんだよ。で、イベント終了後は、女の子たちが所属している事務所の子とかも集まって、合同打ち上げ。もちろんそんな高嶺の花が、市役所の職員なんて相手にするはずがないんだけどさ)
 ああ……おせっかい沢村に、あんな話さえ聞かなければ。
(氷室さんは、特別だろうね。あのルックスに加えて霞ヶ関の官僚ってバックは最強じゃね? ミスなんて聞こえはいいけど、一年経ったらただの美人。地元メディアでリポーターの仕事でもあればまだいい方で、大抵は家事手伝い。ああいう子たちは東京に出たくて、その足掛かりを必死に探してるみたいなところがあるからねー)
 他にも色々聞いたが、つまり――沢村は、その席で氷室が女性達に狙われると、そこを成美に思い知らせたいようだった。
 それは、話の半ばから、沢村に念押しされるまでもなく、成美自身が不安に思いはじめた事でもある。
 ――氷室さん、人当たりだけは無駄にいいから。
 成美は、焦燥で苛々しながら、化粧品を収めたボックスを開いた。
 絶対女の子たちに、モテモテに決まってる。
 本当は結構冷たくて辛辣で、融通がきかず、頭がいいから人の話も最後まできかず、さらに成美の嫌がることをするのが大好きな――そんな難しい人なのに!
 もちろんそんな片鱗さえ、氷室は他人には見せないだろう。
 彼の役所内でのイメージは、優しくて控え目で穏やかで、物静か。女性にはシャイで、少しばかり奥手。ええ?なにそれ、誰の話? と成美が顎を落とすほどである。
 一方で、彼の存在そのものをやっかむ方面から、それとは真逆の噂が広まっているのも事実である。
 妻を亡くしても平然としている冷たい男。女遊びが絶えない。浮気が原因で霞ヶ関からこんな田舎に飛ばされた――云々。
 全てが悪意から出た想像の域にすぎないが、成美はその噂も、確かに一面で氷室の本質を言い当てているような気がしてならなかった。
 亡くなった妻に対する彼の感情も謎だし、あまり考えないようにはしてきたが――彼の身辺からは、確かに、少しばかり放蕩の匂いが見え隠れする。
 沢山の女性に接してきた余裕というか、普通の恋愛に飽き飽きしている倦怠感というか――とにかく、骨の髄まで遊び尽くした男が、今は田舎で、少し羽を休めてまーす。という、なんとも嫌な感じがしてしまうのだ。
 つまるところ成美には、まだ氷室という人の本質がよく判っていないのだった。
 鳥瞰で見る前に、あまりにも身近な人になりすぎてしまったせいかもしれない。蟻が象の一部だけみて、全てを見ることができないのと同じことだ。
 ――そうよ。だから今日は、納得いくまで、観察よ!
 成美は、言い訳みたいに自分に言い聞かせた。
 今日一日、イベント参加者を装って、氷室天を徹底的に観察するのだ。成美のいないところで、一体氷室がどんな顔を見せ、どんな風に振舞うのか、この機に全部見ておきたい。
 もちろん彼が、浮気なんてする人じゃないと…………
 ………………。
 ………………。
 それは、信じてはいるけれど。
 
 
             3
 
 
「ありがとうございました。お疲れ様です」
 若い女性が差し出したゴミ袋を、氷室は受け取ってにっこりと笑った。
「どうぞあちらで、ジュースと記念品をお受け取りください。よろしければ、午後のパレードにも、ぜひ」
 駅裏、河川敷に作られた公園。
 オフィス街から駅に続く道を、ゴミ拾いをしながら行進する――それが、道路ふれあいイベントの最初の行程だった。
 参加者はボランティアとして集まった市民である。幼稚園や小学校に広報をかけたらしく、もっぱら子連れ主婦や家族連れが多い。
 ちらほら、役所で時々見知った課長の顔もある。私服で家族連れのようだから、それもボランティア参加なのだろう。
 ゴール地点は駅裏の公園。そこで、ゴミ入れ袋を、主催者である道路管理課のスタッフに渡し、代わりに記念品とジュースをもらう――という場であった。
 スタッフである氷室は、先頭に立ってその役目についている。
「ありがとうございました。ジュース、持って帰ってくださいね」
 なんなの、その無意味に素敵なスマイルは。
 成美は別のスタッフにゴミ袋を渡す列に並び、氷室のその様を横眼で見ている。
 案の定、列を離れた女性は、すぐに友人らしき女の元に駆けていった。 
「ねぇ、あの人マジでかっこよくない?」
「市役所の課長さんだって。今朝、オープニング式で挨拶してたよ」
「うそー、あんなに若いのに?」
 ふぅん……。
 先ほどから何度も目にした同じやりとり。あの素敵な人、誰かしら? 市役所の課長さんらしいわよ。超イケメン。写真とか撮ってもいいかしら。云々。
 成美は、いいかげんうんざりしながら溜息をついた。
 思い知らされたのは、氷室さんが客観的にみても、やっぱり素敵だということ。
 すらっとした長身に、長い手足。無駄なく締った胴周りや、硬い筋肉が透けて見える形のいい腿。
 なにより、遠目からでも、「え、誰、あの素敵な人」と思わず視線を向けてしまいそうなほどに整った、綺麗な顔立ち。
 憂いを帯びた、水のように静かで涼しげな瞳。
 その瞳はどこか寂しげで、それでいて、誰の干渉も嫌うような孤高があって、そんな双眸でじっと見つめられたら、きっとどんな女性も心が揺れてしまうだろう。
 で、そんな人に、今みたいに優しく微笑みかけられたら。
「ありがとうございました。お子さんですか、可愛いですね」
「あのー、握手してもらってもいいですか」
「え?」
 氷室の前に立つ子連れの女は、図々しく彼の手を取った。
 成美の位置からは背中しか見えないが、いかにもギャルママ風の盛髪の、スタイル抜群の女性である。黒いワンピース。背中は半ばまで丸見えだ。
「以前、テレビで拝見して――すっかりファンになっちゃったんです。あとで、写真を撮らせてもらってもいいですか」
「写真ですか」
 氷室は、見ている成美が憎らしくなるほど爽やかに笑った。
「構いませんが、いいのかな。僕で」
 黙っていると物憂げに見える氷室だが、笑うとこれが、思わず見惚れてしまうほどに男らしくなる。
 力強く輝く目元。唇から零れる白い歯。
 なんなのこの人。もしかして存在そのものが、女を落とすために創られているんじゃない?
 今の場合、全く嬉しくないフェロモン満開の氷室の魅力に、成美はハラハラしどおしだ。
 その時、「あの、どうぞ?」と、訝しげな声がした。はっと見ると、目の前には道路管理課の宮田主計。訴訟関係の担当者で、成美とは浅からぬ縁の男の顔がある。
 その宮田が、いかにも不審そうな眼で、成美に手を差し伸べていた。
「あ、ああ、どうも」
 成美は、慌ててうつむいてサングラスを直し、ゴミ袋を宮田に手渡した。
 その間も、氷室はまだ件のギャルママと話している。
「じゃあ、後で。これが終わったら少しの間休憩があるので」
「きゃあっ、楽しみにしてますぅ」
 後で? これが終わったら休憩がある?
 本当に写真を撮るだけでしょうね(それもどうかと思うけど)。やっぱり、思い切って来てみてよかった。これで、役所や二人の時には判らない彼の本性がかいま見えるというものだ。
「あの、すみません。袋を渡し終わったら、後に下がってもらえませんか」
 怪訝そうな宮田の声で、成美は再度我に返った。
「す、すみません」
 帽子のつばを直しながら、成美はこそこそと列を離れた。なによ、氷室さんはいちいちゴミ袋持ってきた女と長話をしているくせに。
 思い違いでもなんでもなく、氷室の前にだけ、他とは比べ物にならない行列ができている。しかも若い女性が異様に多い。
 ――それにしても、宮田さん、全然私って気づかなかったな。
 変装が完璧だといえばそれまでだが、そこは、少しばかり宮田の観察不足ともいえる。
 所詮、素人が不釣り合いな衣服を着ただけの変装は、普段から成美をよく知っている可南子などが見れば、「なに、そのへんな格好」と一目で正体を見抜かれてしまうだろう。髪型の変化が大きいと言えば大きいが、所詮はその程度の変装なのだ。
 ――氷室さん、私って気づくかな。気づかれても困るけど、気づかれなかったらショックだな。
 だから、成美は、ひたすら氷室の視界に入らないようにしている。彼がこちらを向く気配を察しただけで、背を向けたり逃げたりしてやり過ごしている。
 氷室の態度を見る限り、今のところ、気づかれている気配はなさそうだ。
 ――どうするかな。これから。
 木陰に入った成美は、朝のオープニング式で受け取ったパンフレットを広げて見た。
 午前のゴミ拾いはこれで終了。一時間の休憩を挟み、午後からは市内の商店街で啓発パレードだ。そこには、沢村が言っていたミス灰谷市が登場する。
 それに行かないと、なんのためにここまで来たのだか判らない。
 ――でもなぁ……。
 はぁっと嘆息し、成美はサングラスを外して空を見上げた。
 なんだか気が進まなくなってきた。こんなことをして、なんの意味があるんだろう。
 彼が女性にもてると思い知らされ、自分とは別世界の人だと再認識させられるだけなのに。
 だいたい、浮気の証拠を掴んで、私、どうするつもりなの?
 氷室を責めることなんてできそうもない。多分、黙って知らんふりをする。だったら、いっそ、最初から何も知らない方がいいのでは――
「おう、来てたんだ」
 ぎょっとした成美は、慌ててサングラスを掛け直そうとしたが、遅かった。
 目の前には面白そうな眼をした沢村が立っている。しまった、よりにもよって、最悪の相手に――
  
 
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「似合ってないね」
「わ、判ってますよ。いちいちつっこんでくれなくてもいいですから」
 ふっと、沢村は視線を下げて笑った。
「女が、つっこむとか言うなよ」
「え?」
「別のこと、想像するだろ」
「……はい?」
 いやもう、想像できるけど、絶対にしたくない。成美は一刻も早く席を立ちたかったが、なんだかもう、目の前に男には死んでも逆らえない弱みを握られた気分である。
 正午過ぎ。今二人は向かい合って駅前の小さな洋風レストランのテーブルに座っていた。
 沢村の前にはランチセットが、食欲のない成美の前にはコーヒーが。強引に誘ってきたのは沢村だが、ここの支払いまで、なんだか成美持ちになりそうな形勢だ。
「あの……このこと、氷室課長には」
「いわねーよ。面白くない」
 あっさりと沢村は言った。
「さっき宮田君が、やたら挙動のおかしい女がいるって言ってたけど、やっぱ、日高さんだったんだ。あの鈍い宮田君にまで不審に思われるくらいだから、氷室さんはどうなのかな」
「た、多分気づいてないと思いますけど」
「まぁ、あの人、いっつも誰かに囲まれてるからね」
 ――う……。
「なぁ、昼からもその格好でついてくるの?」
「いえ……」
 成美は言葉を詰まらせた。
 どうしようかな。確かに宮田にまで不審を覚えられているというなら、そろそろこの変装も限界だろう。
 もう少し見ていたいような気もするし、もう見たくないような気もするし――
「あのさ、俺にちょっといい考えがあんだけど」
「え?」
 顔を上げると、沢村は面白そうな眼になってにやにやと笑っていた。
「午後のパレード。氷室さんに接近しても、絶対にばれないいい方法があるんだ。乗る? 乗らない?」
 成美は不信感たっぷりに沢村を見上げた。
「それ、どんな魂胆があるんですか」
「別に? そうだな。少しばかり俺が楽できるってことくらい。それ以外には特に下心はないよ。もし欲しいものがあるとすれば、氷室課長を欺ける快感――かな」
 なに、それ。
 迷う成美に、沢村はたたみかけるように言った。
「どうすんの? 乗る? 乗らない? あんた次第だし、俺にはどっちでもいいけどさ」
 そんな――
 どうしよう。この場合、どっちを選ぶのが正解かしら?

 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。