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6
――なんかもう、最悪な気持ち。
その日の夜、自室に戻った成美は、一人で鬱々と寝返りを打っていた。
結局沢村の手をとった成美は、慌てた沢村に抱えられるようにして、一目散にテントまで走った。いや、そんな元気があるのなら、最後まで普通にパレードに参加すればよかったのだが、なんだかもう、あの時の二人は、あたかも見えない怪物に追いかけられてでもいるかのような――そんな切羽詰まった恐怖心に駆られていたのだ。
ほんと、沢村さん口ばっかりなんだから。あの人ったらひょっとして、私以上に氷室さんを恐れているんじゃないの?
毒づいてみても、もう遅い。
一体いつの時点から気付かれていたのかは定かではないが、間違いなく、氷室は成美のしでかしたことを知っている。
夜の九時。いまだ連絡がないところを見ると、想像以上に怒っているとしか………
「ああ……!」
馬鹿な私。そもそも変装して氷室さんの後をつけようなんて、なんでそんな馬鹿な真似を思いついたんだろう。
思えば最初から、なにもかも、沢村の口車に乗せられたとしか思えない。
いったい彼は、私と氷室さんにどういう恨みを持っているのだろう。
携帯の着信音が鳴っていると気づいたのはその時だった。
成美はがばっと身を起し、ついで固まって、そしておずおずと、テーブルの上に置いていた携帯電話を取り上げた。
――氷室さん……
だいたい、この時間にかかってくる相手というのは限られている。予想はしていたものの、ディスプレイに表示された名前を見ただけで、成美は追い詰められたネズミみたいに固まっていた。
「やぁ」
が、彼の声は思いのほか上機嫌だった。
「え……、氷室、さん?」
本物、ですよね?
「すみません。こんな遅い時間に電話してしまって。まだ起きているかな、と思って」
「え、はい、起きています。大丈夫です」
恐る恐る、薄氷を踏むような気分で成美は答えた。
「今、打ち上げが終わったところなんですよ」
「そ、うですか。お疲れ様です」
「いろいろありましたが、ひとまず無事に終了です。夕方のローカルニュースでも流れたそうですが、ご覧になられましたか」
「い、いえ、知っていたら、見ていたと思うんですけど」
この地雷原を恐る恐る歩いている感じのスリリングさ。
氷室さん、お願い、こんな生殺しみたいな会話を続けるくらいなら、いっそ本題を切り出してください!
「よかったら、出てこられないですか」
が、氷室の声は、あくまで機嫌よさげだった。
「え、今から、ですか」
「今、外なんですけど」
そういえば、彼の声の背後から雑踏の気配が感じられる。
「打ち上げでは、食事どころじゃなかったので、どこか静かな場所で飲みなおそうと思いましてね。そういえば、日高さんと一緒に飲みに行ったことがなかったな、と思って」
――え………。
「い、いいんですか」
「なにがですか。つきあってほしいと言っているのは僕のほうなのに」
氷室の声が、笑っている。
完全にいつもの彼の声。怒っているわけでも、皮肉を言われているわけでもない。
「どのくらいで、出てこられますか」
「あ、す、すぐ。繁華街ならタクシーで行って、3、40分くらいでつくと思います」
「じゃ、コーヒーでも飲みながら、待っていますよ」
彼は、市内の有名コーヒー店の名をあげて、そこで穏やかに電話が切れた。
――うそ……。
とんでもなく優しい。
何があったか知らないけれど、いつも以上に上機嫌。
「よしっ」
成美は両拳を胸のあたりで握りしめていた。
もしかして、もしかしなくても、気づいてなかったんだ、氷室さん。
そりゃそうよね。普通に考えて、あの中に私が入ってるって、気づくほうがどうかしてるもん。いくら氷室さんがデビルマ仕事ができる人だからって、少し大袈裟に考えすぎてたな。
きゃっほう、ラッキー。絶対に地獄を見ると思っていたら、こんな天国が待っていたなんて。
お化粧して、一番いい服を着て、そして今夜は彼と少し大人のデートよ!
6
「知らなかったな。日高さんも休みだったなんて」
「私も……なんだか夢みたいで」
氷室が鍵を回して扉を開ける。
成美はその背後で、少しだけほろ酔い気分になっていた。
――まさか、氷室さんも、明日がお休みだったなんて。
「もっと早く教えてくれていたら、予定のたてようもあったのに」
先に部屋に入りながら、氷室が言った。
「あ、ごめんなさい。8月はお休みできないんだとばかり思っていたから」
「全く休めないほどではないですよ。日高さんが言ってくれたら、いつでも休みをとっていました」
本当に素敵な一夜だった。
彼が連れて行ってくれたのは、洒落た隠れ家のようなカクテルバーで、成美は一杯だけカシスオレンジを飲んで、あとはフルーツの盛り合わせをいただいた。
何を喋ったのだろう。仕事のこと、最近読んだ本のこと。氷室はいつものように話し上手で、成美が会話を繋ぐ努力をする必要は何もなかった。
今日の道路ふれあいイベントのことにも話は及んだ。
氷室が、本当に何も気づいていないようだったから、成美も少し調子に乗って、「そんなことがあったんですかー、沢村さんの彼女ってどんな人なんでしょうね」などと大袈裟に驚いてみせたりした。
そして今、二人は揃って氷室のマンションに入ろうとしている。
明日は、二人揃って夏休みだ。なんの準備もしていないから、泊るのは無理だけど、――できるだけ長く一緒にいたい。
扉が閉まると同時に、成美は氷室に抱き寄せられていた。
「氷室さん?」
「……少し、酔ったかな」
え……。
氷室さんが私の前で酔うなんて、そんなこと、今まであったっけ。
心地良い彼の胸。スーツには、少しだけ煙草の匂いが染みている。まだ靴も脱いでいないことに戸惑いながら、成美もそっと、彼の背に手を回した。
「気分、……悪いんですか」
「いいえ」
髪を優しく指で梳かれる。
「洗ったばかり?」
「え、は、はい」
「……すごく、いい匂いがする」
緩く抱きしめられ、髪に唇が当てられる。成美は胸が締め付けられるようになって、ぼうっと眼を閉じていた。
なんだろう。今夜の無防備な氷室さんは。
アルコールのせい? いつも彼を覆っている冷たい壁が、今は完全になくなっているような気がする。
そのまま指で顔を上げさせられて、唇を合わせるだけのキスをした。優しいキス、触れるだけのキス。とろけるような深いキスもいいけれど、成美は氷室と交わすこのキスがすごく好きだ。
彼の唇が、成美の唇を優しく包んで、表皮を撫でるようにそっと動く。その焦らされるような唇の愛撫に、成美は次第にたまらなくなって、つい自分から唇を開いてしまう――
「……っ、ふ」
待っていたように氷室の熱が成美の中に入り込んでくる。頭の芯がとろけるような陶酔の中、成美は氷室の服にしがみついていた。
彼の熱っぽい息遣いと、求めあう互いの唇の音。
――氷室さん……。
また、好きで気持ちが一杯になって、胸が絞られるように苦しくなる。
不思議だな。なんで氷室さんのことを、すごく好きだって思う度に、嬉しいと言うよりむしろ苦しくなるんだろう。こんなに幸福なのに、なんで――
氷室の手が、成美の肩を撫でて背中に回される。そのまましっかりと抱きしめられて、キスがいっそう深くなる。
そうしながら、彼の指が、成美の着ているワンピースのジッパーにかかる。すうっと背の半ばまで降ろされて、夏でも冷たい彼の指が背筋をなぞった。
あ……と、低く呻いた成美は、しかし次の瞬間、はっと我にかえっていた。
――え、まって、ちょっとここで?
「あ、あの、氷室さん」
「黙って」
うわ、嬉しいけど、うわ。
これはちょっと――少しばかり恥かしいのでは。
その時、救いのように玄関のベルが鳴った。
「、ひ、氷室さん」
危機一髪――とまではいかないが、すでに下着のホックまで外されている。成美が、胸を隠すようにして氷室を促すと、彼はようやく、微かな息をついて成美を解放してくれた。
「……、間が悪いな」
ひどく不機嫌そうな顔になった氷室は、成美を背後に押しやるようにして、玄関の扉を開けた。
「すみません。氷室さんのお宅ですか」
「はい」
どうやら、届け物のようだ。
残念なようなほっとしたような気持ちのまま、成美はこそこそと壁の影に身を隠す。
「じゃ、受け取りにサインをお願いします」
氷室がさらさらとサインしている。玄関に置かれているのはポップなロゴの入った大き目のビニール袋だ。 口のところが赤いリボンで結んである。
え、なんだろう。彼の雰囲気に全くそぐわない若者向けのラッピング。これってまさか、……。
「さ、日高さん」
扉が閉まり、振り返った氷室は、先ほどとは別人のように、実に楽しそうに微笑した。
「あ、はい」
成美もつられたように笑い、彼の前に姿を出す。
「これは、今日の夕方、商店街で買ったんですよ。今夜必ず届けてもらうよう、特別便で頼んでおいたんです」
「……え、なんですか」
「もちろん、日高さんに」
やっぱり!
半ばそう確信しながらも、ちょっと控え目に聞いてみたのだ。やっぱり私へのプレゼントだった。一体氷室さんったら、どうしちゃったのかしら。クリスマスでも誕生日でもないのに、こんな素敵なサプライズをくれるなんて。
それにしても、今日の夜にこんな幸せが待っていたなんて。昼間、変装して尾行までした自分が本当に恥かしい。
「あの、開けてみても?」
「もちろん」
リビング兼寝室に移動した成美は、ドキドキしながらリボンを解き、中のものを出してみた。可愛らしいライトブラウンと蜂蜜色。柔らかくて厚みがあって――タオル地の服のようだ。
「バスローブ?……パジャマですか?」
「んー、近いけど、少し違うな」
「……?」
ソファに座って指を組む氷室の笑顔が、妙に人形じみて見える。口は笑っているのに眼が――
「………………」
それ、怒ってる時の顔じゃない?
その顔のままで、氷室は言った。
「可愛いでしょう」
え……なに、が?
氷室の笑顔が恐ろしくて、成美はもう、声も出ない。
立ちあがった氷室は、成美の手からブラウンのタオル地を取り上げた。
「心配しなくても、アダルトなものじゃないですよ。ごく普通の、大人サイズの着ぐるみです。――ほら、日高さんに、似合いそうだ」
は、は、はい?
氷室が広げたそれは、帽子つきのオールインワンで、帽子部分にふたつの丸い耳がついた、――一言でいえば、着ぐるみだった。
「さ、……サル、ですか」
「ええ」
サルの着ぐるみ。ほっぺとお尻のところに赤マルがついていて、みるからに滑稽な代物だ。
「これ、可愛い系っていうより、むしろ」
「面白系ですね」
にっこり笑って氷室は言った。
面白いっていうか、むしろ、宴会芸的な……?
成美は硬直したまま、口をただ、ぱくぱくと開ける。
「さ、早速着てもらおうかな」
氷室は鼻歌でも歌いそうなほどの上機嫌(ただし上辺だけの)で、再び成美にそれを手渡すと、ソファに背を預けて脚を組んだ。
「き、着るって、今ですか?」
「好きでしょう? コスプレ」
「…………」
「好 き で す よ ね」
ひ、氷室さん。
もしかして、もしかしなくても、あなたって。
今までの異様なまでの優しさは、全て、ここでドン底に突き落とすための演出だったのでは――
「あ、あのですね。ひ、昼間はですね。止むにやまれない事情があったと、言いますか」
「今日」
遮るように、氷室は言った。
「僕がどれだけ不愉快で腹立たしかったか、よーく考えてみることですね。最初から最後まで、君は沢村と示し合わせて、僕を欺き通そうとした。その程度で済ませるのは、僕の極めて寛大な思いやり、ですよ」
やっぱり、全部バレてるじゃん!
「あ……あの」
殆ど蒼白になりながら、成美は言った。
「今、これを着て、それで何をするんでしょうか」
「なにって?」
ほとんど不遜に、氷室は冷笑した。
「もちろん、僕を喜ばせることですよ」
やっぱり。
とにかく、成美が嫌がったり恥かしがったりすることを容赦なくするのが氷室である。
でも、やだ。こんな――こんなものを着て、あんな――。
無理、絶対無理。私の理性が受け入れない!
「あのですね。なにも、こんな玩具みたいなものを着なくても」
「どうせ脱ぐから?」
「いや、それはそうなんですけど、いやいやいや。そうじゃなくて。な、何もそんな大胆な言い方をしなくても」
指を胸のあたりで組んだまま、氷室の眼がすうっと細くなった。
「着る? 着ない?」
「―――着ます」
成美は観念して頷いた。
・
・
――まったく……
氷室は唇に指をあてたまま、冷えた苛立ちを持て余していた。
後でじっくり問質してみるとして、あの子は一体、今日何がしたかったんだ?
単に沢村とふざけていたのか、それとも俺をからかうつもりだったのか、いずれにしても、こんな侮辱的な真似をされたのは初めてだ。
それでも、あるいは――彼女なりに俺を思いやってのことだろうと、相当好意的に解釈すべく努力してはみたが、最後の最後で沢村の手を取ったことだけは許せない。
しかも、沢村といる時のあの態度、あれはなんだ?
年が近いから気があうのか、はたまた相性そのものがいいのか。それなら、いっそ沢村とつきあってみればいいんだ。
「あの……」
「なんでしょう」
冷淡に言って視線だけを向けると、脱衣所の向こうから顔だけのぞかせた人は、びくっという風に肩をすくめた。
「き、着ました」
「じゃあ、こちらにいらっしゃい」
もちろん、これくらいで許したりはしない。と、氷室は胸の内で思っている。
とはいえ、先ほど、玄関では少しまずかった。
軽くのぼせさせるつもりが、束の間、今夜の目的も忘れてしまうほど、自分が彼女とのキスに溺れた。
気を引き締めていかなければならない。年の差のせいかもしれないが、どうもあの子と一緒にいると、俺のペースが狂わされる――
その成美が、うつむいたまま、おずおずと氷室の前に歩み出てきた。
「ど、どうでしょう」
「………………」
一瞬、言葉を失った氷室は、次の刹那、取り繕っていることをおくびにも出さずに、冷淡に言った。
「似合いますよ。しずくちゃんほどではないですがね」
「ひ、ひどいっ。お願いだから、もうその話はしないでくださいよ」
「いっそのこと、普段からしずくちゃんの中にいればいいんですよ。遠くにいても、あ、日高さんがあそこにいるとわかる。君は背が低いから、探すのに苦労するんですよね」
「うう……、お願いだから、もう勘弁してください」
それでも――
どこにいても、どんな格好をしていても、僕は必ず、君を見つけてしまうんだけどね。
まぁ、許してやるか。
君が、あまりにも可愛いから。
「本当にその気になってきたな」
「え、じゃ、じゃあ、今までは……?」
氷室は薄く笑んで立ち上がると、怖気ずく成美を横にして抱きかかえた。
「もちろん、下は何も着てないですよね」
「き、着てますよ! 当たり前じゃないですか」
「それはまた、風情がない」
「ふ、風情って」
真赤になった成美の唇の端に、氷室は軽くキスをした。
「もう、怒ってないですよ」
耳元で囁くと、驚いたような眼が向けられる。
「……本当に?」
「ええ」
「いいわけ、してもいいのなら」
「いえ、結構です」
む、と氷室は眉を寄せた。
一体沢村とどんな絡みがあったのか、聞けば、なおさら不愉快になる。
――やっぱり、おしおきが必要だな。
成美をベッドの上に降ろすと、氷室は立ったまま唇に指をあて、微笑した。
「さて、まずは上手に、僕を誘ってみてもらおうかな」
ベッドの上で、成美は仰天したような顔になる。
「は、はい??」
「どうぞ? それとも制限時間を儲けましょうか?」
「…………」
しばらく呆然としていた成美は、やがて泣きそうな顔になった。
「お、怒ってないって言ったじゃないですか!」
「怒ってないですよ。でも、それはそれ、これはこれ」
「そんなぁ」
氷室は笑顔のまま、一拍置いてから、言った。
「なんなら、本当に怒ってみてもいいんですよ」
「…………やります」
「よろしい」
氷室はにっこり笑って指を組んだ。
さて、――楽しい夜はこれからだ。
沢村君の誘いにのった上沢村君の手を取ったVr(終)
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