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 ――なんだったのかな、結局、今日。
 夜、成美は一人きりで食事を済ませ、片付けをしながら、ほっと息を吐いていた。
 こんな中途半端な逃げ方をするくらいなら、最初から変装して盗み見とか、そんな情けない真似をするんじゃなかった。
 氷室にばれなかったのが、もっけの幸いだが、沢村にまた余計な弱みを握られてしまったし――
(い、いいですよ。やめときます)
 昼間。少し悩んだものの、結局成美はそう言って沢村の提案を断った。
 沢村は「へぇ」と、何故か意外そうに眉をあげたが、それ以上は何も言わず、結局成美は、ランチ代を奢らされて、沢村と別れた。
 店を出ると、あれほど人で溢れかえっていた公園は閑散としていた。
 もう氷室らは、午後のパレードの舞台となる商店街に移動してしまったのだろう。
 成美もそれきり自室に帰り、そして今に至っている。
「では、灰谷市のニュースです。全国ニュースでもお伝えしましたが、今日は道の日――灰谷市でも、こんな道路イベントが開催されました!」
 市の広報番組である。
 広報課御用達のこの番組には、以前氷室が道路占用の関係で生出演したこともある。
 成美は濡れた手をタオルで拭いながら、テレビの前に座った。
「本日はお暑い中、道路ふれあいイベントにおいでいただきまして、まことにありがとうございました。このイベントは、国土交通省が」
 いきなり、氷室のアップである。
 本人が目の前にいないにも関わらず、成美は反射的に固まっていた。
「道の日といいますのは、普段皆さんが特段気にされることなく利用しておられる、道路、というものについて」
 ライトグレーのスーツにネイビーのネクタイ。確かに冒頭、壇上でマイクを持って挨拶する氷室は、成美でも見惚れるほどかっこよかった。が、それにしても、さほど重要ではない場面をここまで長く映す必要って……。
 画面がきりかわって、道路ゴミ拾いの映像になる。が、そこにも、道路ふれあいイベントの幟を片手に持ち、先頭に立って歩いている氷室が中心に映されている。
 さらに画面が切り替わって公園。道路管理課の職員がごみ袋を回収し、ボランティア市民にジュースを配ったりしている映像だ。そこも、中心は氷室である。
 ――なに、これ。
 また画面が切り替わる。
 今度は成美の行かなかった商店街のパレードの映像だ。ミス灰谷市と準ミス灰谷市三人に囲まれた氷室が、街頭でちらしを配っている絵。
 呆気にとられる成美の前で、ようやく映像がスタジオに切り替わった。
「氷室課長、相変わらず素敵ですねー」
 女子大生みたいな女性アナウンサーが感嘆の声をあげる。中年の男性アナが、即座にしたり顔で頷いた。
「ご記憶されている方も多いと思いますが、氷室課長には、以前も、この番組に生出演していただいたんですよね。オンエア直後から氷室課長あてのメールや手紙が沢山届いて、あの時は本当に驚きましたよ」
「本当に市の職員?って、私も正直驚きました。あ、そんな言い方をしたら、他の市の職員さんに失礼ですけど、まるで韓流スターみたいなオーラをもっておられましたもの」
 その例えには、同意しかねたのか、男性アナが苦笑する。
「僕、個人的に飲みに行かせていただいたんですが、氷室課長は国土交通省の職員で、いずれ国に戻られる方のようですよ」
「わぁ、私も飲みに連れて行ってもらえないですかね!」
 成美はただ、口をぽかんと開けていた。
 一体なんなのこの人たち。
 市の広報番組の司会をしているという自覚が本当に――
 その時、歓談するアナウンサーの背後のスクリーンに、再び映像が映し出される。「うわっ」と成美はのけぞっていた。
 緑色のけばけばしい服に、いかにも怪しいつば広帽子にサングラス。そうしてきょろきょろ周辺を窺っている成美がしっかり映っていたからだ。
 フォーカスはその奥にいる氷室に絞られていて、たまたま映っただけのようだが、それにしても。
「で、独身なんですか」
「妻帯しておられるそうです」
 そんな会話を最後に、画面が天気予報に切り替わった。
 成美はしばらくぼんやりと座っていたが、やがて急いで首を振って、テレビを切って立ちあがった。
 妻帯しておられるそうです、――か。
 それ、もちろん氷室さんが、自分の口から言ったんだろうな。
 まぁ、別におかしいことじゃない。
 独身といえば、何かと面倒だと思ったのだろうし、妻を亡くしたばかりだと打ち明けるのは、少しばかり重すぎる。
 多分、彼のことだから、ごく無意識に自分に壁を作ったのだろう。壁――シャッター。これ以上話すことは何もないから、そこから先に踏み込んでこないでね、みたいな。
「……ま、私もしょっちゅうやられてるんだけど」
 呟いた成美は、再び気鬱な溜息をついていた。
 妻帯している。
 その言葉に傷つく私って馬鹿ですか?
 だって氷室さんがそう言ったその刹那、まるで私ごと、彼の中から締め出されてしまった気がするから――
 
 
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「どうしたんですか、氷室さん」
 グラスを唇につけていた氷室は、わずかに眉をあげて顔を上げた。
 上目づかいに自分を見上げる瓜実顔の女が、心配そうに瞬きをしている。
「さっきから、なんだかちっとも楽しそうじゃないんですもの。何か心配ごとでもおありなんですか?」
「いえ」
 微笑した氷室はグラスを置いて、チョコレートの包みを取り上げた。
「普段とは違う人達に囲まれているから、緊張しているのかな」
「やだー」
「そんなお世辞言わないでくださいよ」
 と、たちまち両サイドの女二人が大胆なボディタッチを仕掛けてくる。
 ミス灰谷市と準ミス灰谷市。1人は現役女子大生で、一人は家の手伝いをしているという。双方身長170センチ以上の、モデルばりの美女たちだ。
 一人の手が氷室の肩を、もう一人の手は腿のあたりをタッチする。
 これじゃ、まるで逆セクハラだな。
 そんな感情はおくびにも出さず、氷室は微笑して、グラスを再び持ち上げた。
 ――お世辞ねぇ。
 どれだけ自信過剰か知らないが、俺はただ、普段とは違う人たちだとしか言ってないぞ。
 上目遣い。一分に一度のボディタッチ。唇舐め。脚の組み換えに、いかにも酔いが回った風なハイテンション。
「私、極度の乾燥肌で、触ってもらえたら判ると思いますけど、ほら、このあたりもうガッサガサなんです」
 擦り寄せられるむき出しの腿。
「あのね、これ指酒っていうんです。指にお酒つけて、ほら。舐めて」
「きゃーっ、私のも」
 ――ああ、もう……
 こういう駆け引きは、心の底から飽き飽きなんだがな、俺は。
 抱いてほしいなら、ストレートにそう言えばいい。いくら互いの機嫌をとりあってみても、男と女なんて、つまるところ、それだけだ。
 そこに至る過程を楽しんだ時期もあったが、いつの頃からか、何もかも面倒になった。
 ――なにもかも?
 ふと頭をよぎった人の面影を思い出し、氷室は思わず笑んでいた。
「……あの泣き声がな」
「え?」
 いえ、と氷室は顔を上げて微笑んだ。
「遠慮しておきますよ。今は、仕事の延長みたいなものですから」
 えええーっと、両サイドで上がるブーイング。
「おーっ、やってるやってる」
 その時、隣のテーブルの男性陣から歓声があがった。
「氷室課長! 今日のニュース、課長がばっちり映ってますよ」
「てか、氷室さんしか映ってないことね?」
 氷室はその方に視線を向けた。こちらが、氷室を中心に役所外の女性だけで構成されているメンバーなら、向こうのテーブルは道路管理課の職員と道路局長――そしてもう1人、特別なゲストだけで構成されている。
 行政管理課の柏原明凛。
 今日のイベントに、ボランティアとして顔を出してくれた彼女は、墨田局長の強引な誘いを断りきれずに、打ち上げの席にまで参加することになったのである。
 彼女の性格からして、他課の飲みなど参加したくもなかったろうに、結局は墨田局長に押し切られたような形でこの席に引きずり出された。
 まぁ、普段、行政管理課の扉の向こうから、なかなかでてこない佳人である。しかも、言っては悪いが、氷室の両隣の女性たちより数倍も格上だ。墨田局長が舞い上がるのも無理はない。
 その柏原は、墨田局長の隣で、控え目にワインを唇に運んでいる。その二人を囲む道路管理課の職員は、なんだか全員が微妙な雰囲気だ。おそらくは相当――緊張しているのだろう。
「すごいね。今は携帯電話でテレビが見られるのか」
 感嘆する墨田の前に、誰かの携帯電話が回された。
「ほう、これは綺麗に映るもんだ。柏原さん、見てみなさい」
「はい」
 氷室は時計に視線を落とした。そろそろ今夜の義理は果たした。悪いが柏原さんを連れ出して、お暇するか。
「あ、へんな女が映ってる」
 宮田の声が、どこかから聞こえた。
「へんな女?」
 隣の沢村が眉をあげて聞き返している。
 その沢村のテンションも、今日は全くおかしなことになっている。やたらはしゃいだと思ったら、不機嫌になったり、重苦しく沈みこんでみたり。まったくその判りやすさには、いっそ愛おしささえ覚えるほどだ。
 もちろん、そんな沢村の恋心に協力してやるつもりは、微塵もない氷室である。
「ほら、言ったじゃん。やたら周りを気にしてこそこそ顔隠してた、サングラスの女。どう見ても大した美人じゃないのに、なんだったの、あれ? 芸能人気どりかよ、みたいな」
「日高さん」
 同時に少し離れた席の、柏原から声があがった。
「え?」
「あ、いえ、今、うちの職員が映っていたものですから」
 ぶっと氷室は吹き出していた。
「え、日高さん?」
「どこ、どこどこ」
 たちまち宮田らが声をあげる。
 が、そこでニュースは終わってしまったようだった。
「あー、消えた。でも、日高さん来てたっけ? 俺全然気づかなかったけど」
「しかも、さっき映ってた?」
「俺、緑のサングラス女に気をとられて、他に目がいってなかったよ」
「いや……」
 と、戸惑ったように何か言おうとした柏原に、氷室は微笑して視線を向けた。
 多分――それだけで――勘のいい柏原は、氷室の意図に気がついたようだった。
「すみません、私の気のせいだったようです」
 あっさりと意見を引っ込めた柏原は、何事もなかったようにワイングラスを持ち上げる。
 氷室は立ちあがっていた。
「さて、そろそろ帰ります。柏原さん、家の方角が同じでしたね。送りますよ」
「ええ、そうさせていただきますか」
 おそらく、帰りたい気持ちは氷室以上だったのか、阿吽の呼吸で柏原も立ちあがる。
 二人は簡単な挨拶を済ませ、互いに頷きあってから扉に向かって歩き出した。
 背後では、呆気にとられた人たちが、二人の背中を見送っている。
「え……どういうこと?」
「まさかあの二人って、恋人同士?」
「お似合いすぎて、声も出ないんですけど、私」
 氷室と同じ席だった女たちがざわめく。
「――やっぱり、あの二人って」
「市役所でも噂の二人だもんな。しかし氷室さん、素早すぎないか? あっという間に一番いい女子をお持ち帰りじゃん」
 管理課の男性たちもどよめいている。
 その中でただ一人、沢村だけが――むすっとした顔で黙り込み、空のグラスを弄んでいた。
 氷室は、唇の端でわずかに笑った。
 ――お前が悪いんだぞ。沢村。
 いつも、俺の玩具にちょいちょい嘴をつっこんでくるからだ。
 はっきり言わなければ判らないほど、お前は物判りが悪いのか。
 あの子を困らせるのも泣かせるのも追い詰めるのも、全部、俺だけの特権なんだ。
 
 

 
「助かりました。あまり酒席は好きではないので」
「お礼なんて言ってもいいんですか」振り返って氷室は笑った。「今頃、結構な噂になっていると思いますよ」
 柏原は微かに息を吐き、二人は肩を並べて夜の町を歩き出した。
「日高が誤解しないよう、そこは課長から説明をしておいてください」
「んー。僕的には、その誤解は面白いんですけどね」
「必ず、誤解されないようにお願いします」
 柏原が、呆れた口調で念を押した。
 そして、ふと気づいたように氷室を見上げた。
「あの場で日高の名前を出したのは、まずかったですか」
「まずくはないですが、……それより」
 氷室もまた、まじまじと隣の女性の顔を見ていた。
「よくあの姿を見て、それが日高さんだと気づきましたね」
 しかも、違和感ひとつ覚えることなく、「日高さん」と呟いた。
 普通は、「日高さんに似てない?」から入るだろうに、いきなりの断定口調で。
「……え、いや。……日高だと思ったので、他にさしたる理由はありません」
「そうですか」
 さすがは同性の洞察力――と言いたいところだが、日高さんが聞いたらさぞかし仰天するだろうな。
「では、ついでにお聞きしたいのですが」
 言い差した氷室は、次の瞬間翻意していた。
 やめた。
 何故、ああも馬鹿馬鹿しい真似をしながら、昼間に沢村とふいっと消えたきりいなくなったのか。
 その理由を、柏原に訊いたとしても、首をひねるだけだろう。
「いえ、なんでもないです。――で、家はどちらでした?」
「お構いなく、書店に寄ってから1人で帰りますので」
 きっぱりと答える柏原の横顔は、すでに取りつく島もないほど冷めている。
 ふむ――と、氷室は声に出さずに感嘆していた。
 なるほど、油断も隙もない。これではあの沢村が、手も足も出せないはずだ。
「なんですか、私の顔に何か」
「いえ」
 微かに笑いながら氷室は続けた。
「あなたはつくづく賢い人だと思いまして――僕のおてんばも、少しはその片鱗を学ぶべきだと思ったものですから」
「日高ですか」
 即答した柏原は、初めて目元を柔和にさせた。
「日高が私のような女だったら、氷室課長は見向きもしなかったのではないですか。ご承知かもしれませんが、日高は明日、夏休みを取っています。誤解は早目に解いて下さるようお願いします」
「…………」
 夏休み。
 表情には出さず、氷室は内心、わずかな驚きを覚えていた。
 それは――知らなかったな。
 そうか、それで先日、妙に10日に拘っていたのか……。
 
 
             6
 
 
「やあ、まだ起きていましたか」
 半ば寝ぼけていた成美は、その声で跳ね起きていた。
「えっ、氷室さん?」
 電話――こんな遅くに?
 あ、まだ遅いというほどの時間でもないか。私が早くお布団に入ってしまったから。
「あ……今、帰りですか」
 ベッドに腰掛けて、おずおずと成美は訊いた。
 彼の背後から、漠然とした賑やかさが伝わってくるから、自宅でも車の中でもないのだろう。
「ええ。打ち上げがさっき終わったので」
 氷室の声は、何故だか少し優しく聞こえた。
「随分、早かったんですね」
 時計を見ながら、少しほっとして成美は言った。
 九時前か――じゃ、一次会で終わったんだな。てことは、そんなに盛り上がらなかったんだ。うん。
「今日は、何をしていましたか?」
「えっ、今日は――お掃除とか、お洗濯とか、家のことをやってました」
「それは、退屈な休日でしたね」
 何故だか氷室はくすくすと笑った。
 なんだろう。何かおかしいことでも言ったかな、私。成美は首をかしげている。
「あ、そういえば、8時台のニュースに、氷室課長が映ってましたよ」
「そのようですね。広報課で録画しているはずだから、火曜にじっくり見せてもらいますよ」
「――そ、そうですね」
 つーっと背中に汗が伝ったような気がして、成美は急いで咳払いをした。
 き、気づかないよね。間違っても。
 映ってたのは数秒だし、しかも変装していたし。
「日高さんも来られたらよかったのに」
「えっ、でも、……なんだかそれも、恥かしくて」
「市の職員も、ボランティア要員――言いかえれば人数集めのサクラですが、何人か来られていましたよ。そうそう、柏原さんも来られていたな」
 ――えっ
 さすがに成美は腰を浮かせかけていた。
「ほ、補佐がですか。どうして??」
「知らなかったですか? このイベントには、課長級以上は時間があれば参加するよう、内々で達しが出ていたんですよ。まぁ、律儀に守られた課長は一部ですし、柏原さんは行政管理課長の代わりに顔を出されたんでしょう」
 そ、そうだったんだ――
 知らなかった。も、もちろん向こうも気づかなったよね。
 同性同士って思いの外シビアに相手を見るものだから――いやいや、それでも補佐は、どこか女性離れしているところがあるから、顔を合わせても気づかれなかったに違いない。
「柏原さんも、打ち上げに参加してくださったんですよ」
「――……え」
 一拍、成美は何も言うことができなかった。
 そうか、補佐が。
 そりゃ、……沢村さんが目茶苦茶喜んだろうな。
「そうだったんですか。……じゃ、私も行けばよかった、ですね」
 あ、何暗くなってるんだろ。私。
 氷室さんと柏原補佐の間には何もなくて、何もかも私の邪推だって、それは判っているんだけど――
「……今から、会えますか」
「えっ」
 成美は驚いて携帯を落としそうになっていた。
「い、いいんですか。明日もお仕事なのに」
「明日、僕は休みなんですよ」
「――――」
 え……
 だって、8月は休めそうもないって。
「土日出勤した代休を、皆で交代して取ろうと言う話になりましてね。課長が休まないと、誰も後に続かないだろうということで、僕が先陣を切って休暇をとることになりました。そんなわけで、僕は大丈夫なのですが、もし日高さんが」
「わ、私も休みなんです! 明日」
 勢い込んで言うと、携帯の向こうで氷室が声を殺して笑っているのが判った。
 え、なに? それ喜びの笑いというより、なんだか馬鹿にされているような気がするんだけど。
「それは、偶然でしたね」
「え……ええ」
 まあ、確かに偶然なんだけど、彼の口調からそれが感じ取れないのは何故?
「僕が行きましょうか、それとも日高さんが来る?」
 が、氷室のその言葉で、成美の疑念は全て溶けて流れている。
「私が行きます。すぐに支度してタクシーで行きますから」
「明日は、少し遠出しましょうか」
「…………」
「せっかくの休みですからね。そのつもりで、準備してきてください」
「は、はいっ」
 電話が切れた後も、しばらく幸福でものが言えなかった。
 すごく遠くに思えた人が、いきなり隣に来てくれた、みたいな?
 どうしよう。何着て行こう。今日と明日と、女子力目いっぱいあげていかなきゃ。
 彼の異様な優しさに若干不安が残るものの、まぁ、別に他意はないよね。今回は、特に怒らせるようなこともしてないし。
 きっとこれは、午前中頑張った私への神様からのご褒美だ(何を頑張ったのかは判らないけど)。
 明日は一日――氷室さんと一緒。
 わー、最高の休日になっちゃいそう!
 

 
「さて……」
 携帯を切った氷室は、片手を上げてタクシーを呼びとめた。
 マンションの場所を告げて後部シートに背を預けると、車を発進させながら運転手が話しかけてきた。
「お客さん、えらくご機嫌そうですが、何かいいことがありましたか」
「わかりますか」
 明日は何をして泣かそうかな。
 あの隙だらけの娘には、今日の迂闊さをしっかり反省してもらわなければ。
 恋の駆け引きも、計算ずくの誘惑も、何もかもうんざりだ。
 女を手に入れるためのくだらない努力なんて、もう二度としたくない。
 が――
「泣かす努力は、面白い、か」
「え?」
「いえいえ、独り言です」
 ま、彼女の場合、努力すらいらないけどな。
 明日の楽しい一日を思い、氷室は唇に指をあてて微笑した。
 
 
 
 
 
 
 
 沢村君の誘いに乗らなかったvr(終)
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。