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「む、……無理です」
 成美は、後ずさりながら、言った。
「やっぱり無理。ごめんなさい、できません、勘弁してくださいっ」
「無理も何も……」
 氷室は、やや呆れ顔だった。
「知らない人が聞いたら、いかにも僕が無茶な要求をしているように聞こえますが、まるで大したことじゃないでしょう」
「たっ、大したことです。私には、大問題なんですっ」
「早く、僕がのぼせてしまう」
 浴槽の中で、氷室は笑いながら手を伸ばした。
「たかだか一緒にお風呂に入るだけじゃないですか。それに、なんでもすると言ったのは日高さんの方なのに」
「う……」
 確かに言った。
 とんでもないことをした。それを氷室に許してほしくて。
「ひ、氷室さん……怒ってないって」
「その件では、ね」
 濡れた指で額に落ちた髪を掻きあげる。氷室の顔に、いつもの眼鏡はかかっていない。
 男らしくてセクシーな瞳……。こうして見る氷室さんは、一体どれだけ素敵なんだろう。綺麗な首筋、完璧なフォルムを描く形のいい鎖骨。引き締まった胸は滑らかで――ほどよい厚みがあって逞しくもあって……。
 が、成美のうっとりした気持ちは、冷やかな氷室の眼差しにぶつかると、さーっと跡形もなく流れていった。
「ただし別件では、今でも相当怒っています。君の不用心さというか……性懲りのなさというか……」
「ひっ、す、すみませんっ」
「言い訳はききません。例によって、謝ることも許さない」
 氷室は断罪するように言い棄てた。
「おしおきは先日の楽しみにとっておいたのですが、あの日はなし崩しになってしまった。日高さんがいきなり泣き出すから、僕のペースを維持できなかった」
「す、……すみません」
 もう、何がなんだかわからないが、今の氷室に、口応えしてはならないことだけは判っている。
 ばれていた。……沢村と2人で深夜まで飲んでいたことを。
 浮気と言われたら心外だが、仮にも彼氏がいる女性のとる振舞いでなかったことだけは確かである。
 でも、……なんで?
 なんであの夜のことが、こんなに簡単にバレちゃうわけ?
 やっぱり、氷室さんは悪魔の力を身に付けた……
「み、見られてると思うと、洗えませんっ」
「見てないですよ。だいたい視力が悪いのに……。それに、身体なんて、後でいくらでも綺麗にしてあげますから」
「い、いいです。結構です。きゃっ」
 結局、浴槽に引きずり込まれている。
 逃げようとして足が滑り、盛大な水しぶきが、氷室と成美の頭にかかる。
「……ぶっ」
 氷室が閉口したように眉をしかめて顔をぬぐう。その表情が可笑しくて、恥かしさも忘れ、成美は笑いだしていた。
「この、おてんばめ」
「子供みたいですね。私たち」
「僕を間違っても、一緒にしない」
「ふふ……だって」
 そのまま唇を合わせていた。濡れた唇――もう体温が限界まであがって……溶けてしまいそうだ。
 が、キスは深くなる前にすぐに離れ、氷室は目元にいたずらめいた微笑を浮かべた。
「向きは、こっちで」
「え?」
 浴槽の中で、ぐるんと身体の向きを変えさせられる。
「あの、これって」
 向かい合わせも恥かしかったけど、これじゃまるで――だっこされてるみたいな。
「危ないな。また、君のペースに持って行かれるところだった」
 耳元で、氷室が甘く囁いた。
「ど、どういう意味ですか。ちょ……っ、そこそこ広いんですから、そんなに近くに寄らなくても」
「今夜は、僕が溺れるわけにはいかないんです。それじゃおしおきの意味がない」
 ――おしおきって……。
 だいたい、氷室さんが私に溺れたことなんてあったっけ。私がいつも、1人で翻弄されているばかりなのに。
「まだ、君には教えていないことが沢山ある」
「い、いいです。なんか知りたくないっ」
「本当に? 僕は君の、色んな姿が見たいのに」
 ――あ……。
 肌を撫でる優しい手の動きに、やがて成美は翻弄され、もう、溺れそうになっている。
「そう……、そんな顔も、僕にだけは見せてください」
 熱い……。
「その声も、他の誰にも聞かせてはいけない」
 どうしよう、このまま……本当に溶けてしまいそう。
 やがて、抱きあげられて寝室に運ばれた成美は、実際、本当に自分が溶けて――人というより、意識を持たない別の何かになってしまったような気がした。
 ベッドの上でも、成美は何度も本性をさらけだされた。なのに氷室は、まだ自分の中に、凶暴な熱を隠し持っている。
「なんで、こんな……」
 目に自然に涙が滲み、成美は自分の指を噛みしめていた。
「こんな?」
 耳元で氷室が囁く。
「い、いつもより意地悪じゃないですか。よく判らないけど、……あっ」
「そう、……いつもより意地悪ですよ。いつもは、あれでも加減していたんです」
「か……げん?」
「最初から壊してしまったら、面白みも何もないですからね」
「ひ、ひど……、んっ」
「でも、そろそろ……限界かな」
 暗く笑った氷室が、初めてその本性を双眸に滲ませる。
 ぞくっと成美は、初めて感じる期待に震え、それだけで、今夜、彼の意のままに変えられてしまった自分を知った。
 怖い。
 こんな風に変わってしまって、私……これから、どうなってしまうんだろう。
 そして、壊れてしまったら?
 そうしたら、もう彼にとっては、私は面白くない相手なの……?
 
 

 
 ――氷室さん……。
 ふと目覚めると、氷室の横顔がぼんやりと天井を見上げている。仄かに灯るサイドランプが、その顔に光陰を落としている。
 今みたいな横顔を見るのは、初めてではない。
 成美は、寂しさに胸がしめつけられるようになって、ぎゅっと氷室の腕にしがみついていた。
 あれだけ幸福な時間をわかちあったのに、何故……?
 どうしてあなたは、いつも1人きりのような目をして、空を見つめているのですか。
「目が、覚めましたか」
 氷室は微笑して半身を起こすと、傍らの水差しから、冷えた水をグラスに注いでくれた。
「ありがとうございます」
 確かに、ひどく喉が渇いていた。いつものことだが、氷室の部屋は、少し暖房がききすぎている。
「……明日が日曜でよかったです」
 ふと成美は呟いている。
「そんなに無茶をさせたかな」
 氷室は、心外そうに首をかしげる。そしてふっと優しく笑った。
「でも、あれはもう一度やってほしいですね」
「あ、あれってなんですか。あれって。穏やかな目で意味深なこと言わないでくださいよ」
 もう――と、成美は耳まで赤くなって、グラスの水を飲みほした。
 本当は、そんな意味で言ったのではなかった。
 明日は日曜。きっと日暮れまでは一緒にいられる。
 でも、夜になったら2人は別れる。辛い時が少しばかり遅くなるだけだ。
 どこまでいっても2人は他人で、いつかは別れがくる逢瀬を、日々、繰り返しているだけなのだ。
 ――ずっと、一緒にいたいです。
 ――でも……私のこと、……多分、そんな風には思えないですよね。
「先週、会議室で話した件ですけどね」
 自分もグラスに唇をつけながら、氷室は静かに口を開いた。
「あ、はい」
 成美は、気持ちが引き締まるのを感じながら、頷いた。
 初めて彼が打ち明けてくれた重大な秘密。多分、生涯口にしてはならない秘密。
 怖いけど、それをわかちあえたことだけは幸福だった。そう打ち明けたら、この人は喜んでくれるだろうか?
「……もちろん、誰にも言ってはいけませんが、柏原さんにだけは、構いません」
 ――え……?
 成美は何故か、自分の気持ちがふっと沈んでいくのを覚えた。
「彼女は、最初から僕の共犯者で、何もかも知っていたんです。王様の耳はロバの耳ではないですが、苦しかったら彼女を頼るといいですよ」
「…………」
 そっか。
 そうだったんだ。
 彼と秘密を共有しているのは、私1人じゃ、なかった……。
「判りました。なーんだ、すごく気が楽になりました」
「そうですか。それはよかった」
 成美は明るく言い、微笑する氷室は、成美の内心の葛藤など、まるで気づいていないようだった。
 また、ここでも、柏原補佐か。
 何をしたって、逆立ちしたって敵わないのは判っている。彼女が、氷室さんに男性として関心を持っていないことも知っている。
 でも、この不安はなんなのだろう。
 いつか彼が――私なんかより、もっと自分に相応しい人のところへ帰っていってしまうような、この気持ちは。
「……氷室さん、不安じゃないですか」
 やがて指を絡めて横たわりながら、成美はそっと聞いていた。
「何が、ですか」
 見下ろしてくれる目が優しい。こんなに好き――こんなに、この人のことが好きなのに。
「……いつか、私たち、別れるかもしれない」
「…………」
「その時、私が余計なことを喋るかもしれない。……そんな風には、思わなかったですか」
「そうですね。……」
 氷室の眼が、何かを考え込むように遠くなる。いや、考えているのではなく、どこか――別の世界でも見ているような眼差しになる。
 成美はよく知っている。彼は、その時、自分ではない他の何かを見ているのだ。
 彼の記憶の中にある何かに、心を奪われてしまっているのだ。
「思わなかったし、仮に、そうであっても構いません」
「…………」
 その答えは、成美を深いところで傷つけていた。「そ……ですか」
 嘘でも、別れることなんて考えてもいないと言ってほしかった。もちろん、そう言われたからといって、何も――変わらないことは判っている。それでも。
「僕は、女性に裏切られることに慣れているのかな」
 成美の身体を抱き寄せながら、ひどく暗い微笑を、氷室は浮かべた。
「その時、僕自身の愛情が冷めていれば、どんな感情もきっと湧いてはこないでしょうね。今、想像できるのはそれくらいです」
 そんな日が……、いつか、私たちにも来るのかな。
 絶対来てほしくないけど……来るのかな。
 恋愛の結末が、結婚するか別れるしかないのなら――そのどちらかは、必ず……。
 不安と寂しさを紛らわすように、成美は氷室の愛撫に身をゆだね、自分から彼の唇を求めた。
 身体の向きを変えた氷室が、成美の身体を組み敷いた。
「……もう一度、いいですか」
「き、聞かなくてもいいですよ」
「……ですね」
 ふっと笑った氷室が、半身を起こして成美を見下ろす。その瞬間、いつも成美は眼を閉じている。
 好き。
 大好き。
「……ん、氷室さん」
「……っ、……」
 今度の氷室は、逆に恐ろしいほど性急だった。成美は奔流にもまれるように流されながらも、薄く目をあけて、自分を組み敷く男の顔を初めて見た。
 こんな……顔、してるんだ。
 いつもの氷室と全く違う。無防備で、子供のようで、同時に野性を滲ませてもいる。
 内面から匂い立つ魔のような美貌が、彼をまるで違う男に見せていた。それは――その顔は、できれぱ私だけに見せて欲しい。
 そして、恍惚と苦痛が混じった吐息。それも、私だけのために吐いてほしい。
 他の誰にも見せないで――……きっと、どんなに願っても、絶対に叶わない願いだろうけど。
「わ、」
 うわごとのように、熱に浮かされた成美は言っていた。
「私のこと、……好きですか」
「……ん?」
 見下ろした氷室の目が、わずかな笑いを滲ませる。
「好きですよ。お望みとあれば、何度でも言いましょうか。好きです」
「い、いいですよ。もう、なんだかバカップルみたいじゃないですか」
「……好きだ」
「…………」
「好きだよ。……日高さん」
 ずるい。
 本当にずるいよ、氷室さん。そんな言い方するなんて……。
 成美の中で、急速に何かが高まっていく。それが狙いだったのか、微かに氷室の唇が笑む。
「本当に君は、単純だな」
「もう……っ、や……っ、…………っ」
 後は、2人とも無言だった。ただ互いの本性だけになって、呼吸も唇も何もかもが溶けあって、そして……抱きしめあって、終わりを迎える。
 呼吸を乱した氷室の肌に、仄かな熱が宿っている。その熱を抱きしめながら、成美は何故だか泣きたくなった。
 神様お願い。
 このまま、この夜を止めてください。
 きっと、心まで冷えてしまった寂しい悪魔。
 彼に束の間宿ったこの熱を、どうか奪っていかないで――
 
 
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「え、そうなんですか。はい、判りました。……じゃ、楽しんできてください」
 ふうっとため息をついて、成美は携帯を耳から離した。
 また今夜も飲み?
 一体どうなってるのよ。最近の氷室さんは。
 まるで接待に明けくれる夫を持った妻の気分――とはいえ、氷室は接待を受ける方で、決してする方ではないだろうけど。
 その時、背後の自動扉が開いて、建物の中に1人残っていた同行者が現れた。
「待たせたわね」
「いえ、もうよろしいんですか」
 成美が問うと、柏原補佐は、わずかに眉を寄せて不快そうな眼差しを見せた。
 ――何かあったのかな……。
 2人は今日、市内にある大手弁護士事務所を訪ねた帰りだった。
 灰谷市の顧問弁護士、松下芳郎弁護士事務所。
 松下は、灰谷弁護士会の会長も務めている。弁護士のあっせんや訴訟のアドバイス等、市とは切っても切れない縁のある弁護士なのである。
 その松下弁護士の元に、訴訟資料を届けるために赴いたのが柏原補佐で、補佐の鞄持ちが成美だった。
 が、なんの役にもたたない鞄持ち――と、成美が自分を卑下していたのは、二、三カ月前までの話だ。今は、冷淡な上司の胸の内を、成美はよく知っている。
 ――補佐は、いずれ、国に帰る人だから……。
 少しでも、自分の仕事を成美に伝えようとしているに違いない。ただ横で見て、ついて回るだけでも、成美には全てが経験なのだ。
「五時すぎちゃいましたね。何か問題でもありましたか」
 その柏原の機嫌が悪いのを訝しく思いつつ、成美はそっと声をかけた。
「いや、別に」
 そっけなく答えるが、明らかに補佐の横顔は疲れていた。何か、松下との間に面倒なことが起きたのだろう。成美に推測できたのはそれだけだった。
 用事を済ませた退室間際、松下弁護士に、柏原1人が呼びとめられ、成美は先に行くように促された。
 相手は好好爺の松下弁護士だが、あまりよくない話でもされたのかもしれない。
 時刻は、五時を大きく回っている。成美はこのまま帰宅してもいいが、多忙な補佐は執務室に仕事を残しているに違いない。
「今タクシーを拾いますから、そこで待っていてもらえますか」
「いや、バスで帰る」
 腕時計を見ながら、柏原は言った。その透き通るような白い頬に、秋の黄昏色が落ちている。
「日高さんは、用事がなければこのまま家に帰りなさい。私は役所に仕事を残している」
「いえ……私も、おつきあいします」
 氷室との約束が反故になったから――とは、さすがに言えなかった。
 オフィス街の銀杏並木を、成美と柏原は肩を並べて歩き出した。バス停までは少し距離がある。沈黙は気づまりだったが、とにかく相手が喋らない人だから、会話はあまり期待できない。
「……あ」
 成美はふと足をとめていた。この通りは県庁、国の合同庁舎と続く官庁街だ。合同庁舎に止まった車の側面に、水と森の博覧会のイメージキャラクター、しずくちゃんともり象君のマグネットシートが貼ってある。
「そういえば、今日から全部の公用車に、シールを貼るよう通知がありましたね」
 そういうのは広告物条例違反にならないのかしら、と思いながら成美はなんの気なしに隣の人に声をかけた。
「氷室さんから、事情を聞いた?」
 だから――いきなり核心に触れられて、逆にひどくうろたえてしまった。
「日高さんには打ち明けたと、先日氷室課長から報告を受けたから。あまり、いい気はしなかったでしょう」
 成美は、なんとも言えないまま、ぎこちなく視線を下げた。
 確かに、知らずに済むなら、知りたくはなかった。が――氷室と秘密を共有できたことだけは、単純に嬉しかった。こんな浅はかな私を、この人はどう思うだろう。
 が、成美の沈黙を別の意味に解したのか、柏原は、彼女にしてはひどく優しい声で続けた。
「気にしない方がいい。私と氷室課長でさえ、本当の暗部は極めてグレーな情報しか聞かされていないのだから」
「そうなん、……ですか」
「藤家さんは、そこまで不用心に職員を信用される方ではない。自分の胸に抱かれた秘密は、責任を持って墓場まで持って行かれるだろう」
「…………」
「それに、しょせん私たちは外様だ。内部抗争に興味はないが、いつ、裏切るか判らない」
 その言葉で、成美は今回の事件の背後に、もっと深い闇が―― 一瞬ではあるが、横たわっているのを察した。
 氷室も柏原も、その気配をとうに察しているが、あえて踏み込まない。そういうことなのだろう。
「お気づかい、ありがとうございます」
 自分の胸に掠めた理不尽な寂しさを読み取られないように、成美はあえて明るい笑顔を見せた。
「本当のことを言うと、少しだけがっかりしていたんです。だって、実行委員会の席での氷室課長、本当に素敵だったのに」
 あの席で、条例はなんのためにあるのかと委員たちに訴え、見事な主張で場の空気を逆転させた氷室。
 あれが全部、藤家局長の企みを後押しするための抗弁だったとしたら――そう、そこは少しだけ拍子抜けしたのも事実なのである。
「……本省時代の氷室さんは、切れ味のある答弁で、相手をやりこめるのが得意な人だったと聞いている。所属していた省が違うので、友人から耳にした情報だが」
 淡々と柏原は続けた。
「氷室さんとは、灰谷市で初めて仕事をご一緒したが、正直、頭はいいが主張の弱い人だな、というのが私の持っていた印象だった。だからあの日は、私も初めてあの人の真髄に触れた気がした」
 ――本省時代の、氷室さん……。
 吸い寄せられるような興味と同時に、知りたくないという不思議な感情が胸を塞ぐ。私の知らない氷室さん。多分、――知ることもない氷室さんの一面。
「ただ、あれは……私は、氷室課長の本心だと思ったが」
「本心、ですか?」
 低く頷き、柏原は、視線を巡らせた。
「財政収支のパランスが崩れているのは、何も国だけの話ではない。市町村も同じことで、灰谷市の財政も、何年も前から綱渡り状態が続いている。私に言わせれば、明らかに採算崩れが予想される博覧会など、やっている時代ではない」
「…………」
「その手のイベントは、大抵、一部の協賛企業の懐が潤う仕組みになっている。その利益が政治家に渡り、政治家が市に働きかけ、誘致を進める。その過程で税金が湯水のように使われる。馬鹿馬鹿しいとは思わないか」
 淡々と語る口調に、氷のような冷たさがある。成美はただ、頷くしかない。
「今回氷室さんは、そのシステムの一つに鉈を入れて断ち切られたのだと私は思う。……あの頭のいい人が、たかだか市町村の局長の言いなりになって動くものか」
 微かに冷笑を浮かべ、それきり柏原補佐は再び口をつぐんで歩き出した。
 その背について歩きながら、成美の胸は、何故だか重く塞がれていった。
 ――私は、判っていないし、判らなかった。
 その意味では、完全に柏原補佐に負けている。
 補佐の方が、より氷室さんという人を理解している。多分、私なんかより、ずっと……。

 
 
 
「おう。元気そうじゃん」
 そう言う沢村は、心なしか精彩を欠いているような気がした。
「……おかげさまで」
 8階のエレベーターフロアには、間が悪いことに2人しかいない。成美は帰宅するところで、沢村も同じようだった。
「今夜は行きませんよ」
「? なんの話だよ」
 訝しむ男と距離を開けて、成美は下りのエレベーターに乗り込んだ。
「……今日、柏原さんと外に出てた?」
「ええ。そうですけど」
 警戒しながら答えると、沢村はわずかに息を吐いた。その物憂げな、どこか寂しげな横顔に、ふと成美は警戒が緩むのを感じている。
 が、成美を見下ろした沢村は、全くいつもの彼らしい、ひどく皮肉な目に戻っていた。
「最近、引っ張りだこだな。氷室さん」
「…………」
「森田さんとのバトルの、思わぬ副産物ってやつだね。目立たず、騒がず、流れるように仕事をこなしていた人が、今や一躍時の人……。なにやら機嫌を損ねたらまずい人だと誤解されてる向きもあるらしく、各局の局長級から連日の飲みのお誘いらしいじゃん」
「まぁ……それも、仕事なんじゃないですか」
 歯切れ悪く成美は答えた。
 結局のところ、いい意味でも悪い意味でも、氷室の知名度と人気があがった。それが今回の事件の顛末らしい。
「シンクロナイトってクラブしってる? ママが元シンクロの日本代表……って、それは余談だけど、スタイルのいい健康的な美女ぞろいのナイトクラブ」
「……いえ」
 なんの話?
 成美は再度、警戒のハードルをあげる。
「そこのナンバー1が、月華っていう女……いくつかな。27、8くらいかな。ちょいと見、韓国人女優みたいな美人だよ。その子が今、氷室さんに夢中なのさ」
「…………」
「役所のおえらいさんが、よく利用する店だから、氷室さん、今夜も連れて行かれてるんじゃない。こないだ迷惑かけたお詫びに、情報提供だよ」
 なに、それ。
 情報提供っていうより、絶対厭味か嫌がらせだ。一体私が、この人に何をしたと言うのだろう。
「じゃあな」
 ひらひらっと手を振って、沢村の大きな背がエントランスのほうに消えていく。
 成美は重たい石でも飲んだような気分になって、歩き出した。
 そりゃ、飲みの席にいけば、女の人くらいいるでしょうよ。
 別段気にするようなことでも――でも。
 バス停に向かって歩きながら、成美は大きく息を吐いた。
 やっぱり、まだ距離がある。まだ、氷室さんと私の間には、目の前の国道より広い隔たりがある。
 もしいるなら――恋の神様。
 私はいつになったら、あの冷たい人の心を本当の意味で掴むことができるのでしょうか?
 
 

 
 バスを降りた成美は、少しばかりふてくされた気持ちで、マンションに向かう坂を上がっていた。
 憂鬱な気持ちと心配は、次第に氷室への不満に変わっていく。
 今夜も電話のひとつもない。まぁ、それもいつものことだけど。
 月華さんだっけ。そんな人がいるなら、一言言ってくれたって。……まぁ、無理な相談だけど、隠されていたと思うと、少しばかり穏やかじゃない。
 だいたい、人の浮気疑惑となると、もう――それが実体の伴わないものであっても、とんでもなく不機嫌になるくせに。
 ま、いいけどね。
 役所内に、氷室の味方が増えるのはいいことだ。そのためなら、いくらでも色んな人と飲みに行ってほしい。
 でもあんまり放っておかれると、私だって本当に浮気のひとつやふたつくらい――。
 坂道を登りながら、成美は自分の周囲にいる人たちを思い浮かべてみた。
 独身は多いぞ。てゆうか、全員が独身だ。
 ガチャピン篠田。大地&織田のダブルオーコンビ。修羅雪姫雪村……。
 だ、だめだ。全員が高学歴で、ダブルオーと雪村など、どちらかと言えば極めてイケメンの類なのに、ものすごく残念な面子が揃っている気がするのは何故だろう。
 成美が総務局行政管理課法規係で、もし、恋をするとすれば――
 やっぱり、柏原補佐だよね。
 何故かほのかにときめいて、成美は秋が深まった夜空を見上げた。
 もし彼女が同性ではなく、異性だったら――氷室には悪いが、一発で恋に落ちていたに違いない。
 氷室よりは幾分鋭く、幾分硬質の怜悧な美貌。切れ味の鋭さを隠そうともしない峻烈な物言い。
 彼女の外見に、氷室が被っている優しさの仮面は欠片もない。思えばその愚直さと純粋さが、庁内で彼女が嫌われている原因なのかもしれないが……。
 ――そうだ。今度補佐を食事に誘ってみようかしら。
 成美はあり得ないことを空想して、1人うきうきと坂を歩いた。
 2度のおしおきで、ほとほと懲りた男相手の浮気(成美の感覚では絶対に違うが)。それも柏原補佐が相手なら、氷室も滅多な嫉妬心は起こさないだろう。
 だいたい普段から放置してるくせに、あれくらいのことで嫉妬なんてするかな、普通。
 やっぱり氷室さんって私にはよく判らない……。
 かつん……と、冷えた空気を硬質の音が震わせた。
 成美は訝しく顔を上げている。
 目の前には、真っ黒な帽子と、ひざ丈までの黒のワンピースをまとった女性。
 長身だ。
 ほっそりとくびれた腰。膝から下の脚が、とんでもなく長くて、細い。
 まるで幽霊でも見たように、成美は凍りついていた。
 帽子の下からのぞく肩甲骨までのロングヘア。何度か垣間見て、最後にタクシーの窓から見た女の人――間違いない。この人だ。
 女は無言で、立ちすくむ成美の傍に歩み寄ってくる。
 夜に響くヒールの音。
 成美は、蛇に睨まれた蛙みたいに動けない。
「……天の、恋人?」
 掠れた、ハスキーな声だった。
 気づけばその人が、成美の目の前に立っている。
 甘くて毒々しい、百合の匂い。濡れた唇から覗く、真珠みたいに綺麗な歯列。
「へぇ……こんな、子供だったんだ」
 もう成美は、息もできない。幅広の帽子を被っているので、成美に見えるのはその人の鼻筋と唇だけだ。
 それだけでも、ぞっとするほどの美形――であることは、間違いないような気がした。
 首から鎖骨にかけてが抜けるように白い。黒い服がセクシーで、ぞっとするほどなまめかしい。
「天に伝えてよ」
 棒立ちになった成美が可笑しいのか、笑いを帯びた声で、女は続けた。その口調には、わずかだが関西の訛りが混じっている。
「あなたのミナが帰って来たってね。近い内に、天の部屋に泊りに行くからって」
 ――あなたの、ミナ。
 近いうちに、泊りに行く……。
 ふふっと濡れた笑いを残し、形よい脚がきびすを返す。
「天も趣味が悪くなったものね。よりによって、こんなちんちくりんの子供を相手にしてるなんて」
 くすぐるような声と足音が遠ざかっても、成美は、まだ立ち続けていた。
 氷室さんの、昔の恋人――。
 判ったのはそれだけで、打ちのめされるのもそれだけで十分だった。
 やはり、可南子の言うとおりだったのだろうか? 
 こんなにも早く剥がれた化けの皮。
 氷室さん、私……あなたを信じていていいのですか?
 
 
 
 
 
                        (第3話 終)
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