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三
「おかえり」
「………………」
扉を開けた途端に聞こえた第一声。
蓮見は思わず、手にしていたコンビニの袋を取り落とすところだった。
「遅かったな、今、交番に電話を入れようかと思っていた」
柔らかな足音と共に、玄関先に出てくる人影。
「……お、おう」
袖をまくったシャツにエプロン姿――そんな格好で現れた右京は、ぼんやりと立ち尽くす蓮見の反応に、いぶかしげに眉をひそめた。
が、すぐに、すっと手を出してくれる。
戸惑いつつ、蓮見はその手に鞄を預けた。
「食事は」
「あ、ああ、食った、だから作らなくてもいいよ」
「じゃあ、冷蔵庫に入れておく、明日にでも食べてくれ」
「…………」
「何だ」
「あ、いやいや」
先日テレビで見た顔と、同じ顔がそこにある。蓮見は、ちょっと照れて、視線を逸らしたまま靴を脱いだ。
「急に帰れることになったんだ、携帯に連絡しようかとも思ったんだが」
背を向けて歩き出した右京が言う。
「ああ、いいよ、気にしなくて」
「うん……前みたいに、帰るといって帰れなくなってはいけないと思ってな」
部屋の中からは暖かな家庭の香りがした。
洗濯機ががたがたと揺れている。
先に立って歩く右京の背中。七部丈のシャツにコットンのパンツを穿いている。
なんの飾り気もない服だが、普段のスーツ姿よりは、不思議なくらい女に見えた。
「お風呂が沸いている、先に入ってくれ」
「ああ、サンキュ」
右京はすたすたと台所に消える。
どこか忙しないその態度に、掃除が終っていないことへの苛立ちが透けてみえた。
案の定、台所から、ガシガシとたわしのような音が響きだす。
ちらっと見た蓮見の視界に、シンクをせっせとこすっている右京の姿が目にはいった。
「いいよ、そんなの……風呂、先に入れよ」
「後で入る」
いつもそうだが、右京は決して自分が先に入浴しないのである。
食事にしてもそうで、自分が先に箸を持つことさえない。
なんていうか……古風というか、それも躾のひとつだったのだろうか。仕事中のイメージからは想像もできないが、家庭では徹底的に男を立ててくれるのである。
職場では、男を立てるどころか、むしろ靴で踏みにじるような女なのに……。
―――なんていうか……。
ぽちゃん、と、水滴が天井から落ちてきた。
昨日とは別の場所のように磨きぬかれた浴槽。
蓮見は肩まで湯につかり、ぼんやりと天井を見上げた。
何時にきたのか知らないが、今日一日、右京はずっと部屋の掃除をしていたのだろう。どこもかしこも綺麗に掃除された部屋。箪笥の中まで、秋物に変えられてあった。
―――休んでるのかな……あいつ。
たまの休みだ。右京にとっては、本当にそうだろう。
天の要塞から東京へ、そして――この交通の便の悪い田舎町に。
移動だけでも疲れるだろうに、休む間もなく家事をして、そして蓮見を待っていてくれる。
―――いいのかなぁ……こんなんで。
嬉しいし、今でもすぐに抱きしめたいくらい愛おしい。
が、それだけで済ませるには申し訳ないような……複雑な何かがある。
自分の感情を持て余したまま、蓮見はただ、嘆息を繰り返した。
四
風呂から上がると、テーブルの上には、ビールと肴が用意してあった。
よく判らないが、居酒屋で見るようなちょっと手の込んだ肴である。
ベランダの窓が開いている。右京はそこで、洗濯物を干しているようだった。
「……悪いな、いつも」
さすがに申し訳なくなって、蓮見は頭を掻きつつ呟く。
ていうか、しなくていいんだ……とは、とても言えない。洗濯はコインランドリーでまとめてするし、酒のつまみはコンビニで買っている。
してもらえれば助かるし、肴があればありがたいが、今は、そんなものより、大切なことがある気もする。
が、やはりそれも、なんとなく口にしづらい。
右京が――このパーフェクトオブジェクション(蓮見は別の意味でそう思っている)が、完璧主義な性格ゆえに蓮見の日常を受け入れられないのが判っているからだ。
「それは私の言う事だ、申し訳ない、滅多に戻れなくて」
そう言いながら、右京はすぐに、洗濯籠を抱えてベランダから戻って来る。
てきぱきとそれを片付け、その足で台所に戻り、洗い物。
「俺、手伝うよ」
「いい、すぐに終る」
「…………」
水流を聴きながら、蓮見はテレビをつけて、テーブルの前に座った。
どうでもいいサッカー中継が流れだす。
その喧騒に紛れるように、蓮見ははぁっ、と、ため息を吐いた。
なんていうか、やはり右京はスーパーな女だった。仕事だけではない、家事も手際がいいし、全てにおいて完璧だ。
―――いや、むしろ、完璧すぎて……。
蓮見は無言のまま、缶ビールのプルタブを切った。
正直に言えば、少しだけ窮屈……
―――ああ、いやいや、何考えてんだ、俺!
大慌てで、自分の思考を横へ押しやる。
こんなこと、思うだけで罰があたりそうである。右京ほどの女に、ここまでしてもらって窮屈なんて……。
「…………」
ビールはよく冷えていた。が、不思議なほど飲む気にはなれなかった。
―――まぁ……結婚なんて、こんなもんかな。
比べるのも悪いが、小雪と暮らしていた頃は、同じことをされても何とも思わなかった。小雪はいつも自然体で、家事をするのが心から楽しげだった。
右京にしても、いやいややっている風には思えない。が、普段の仕事をこなすような淡々とした義務感が、そこはかとなく感じられる。
むしろ、右京の仕事の過酷さを知っているから――蓮見自身に、申し訳ないという気持ちが先立つのかもしれない。
そして、右京もまた、持たなくていい罪悪感を蓮見に対して抱いている。申し訳ない、妻らしいことが何もできない――そんな悲壮感さえ、右京の背中からは漂っているのである。
そんなこと思わなくていいんだ、気にしなくていいんだ、蓮見はそう思うし、それを口にもしているのだが、右京にはどうも納得できないままらしい。
正直、この溝を、どう埋めていいのか、蓮見にはまったく判らなかった。
「……蓮見」
ぼんやりと飲みもしない缶ビールを弄んでいると、右京が目の前に立っていた。
その口調の、いつにない暗さに、蓮見はちょっと驚いて顔をあげた。
ドキマギした。ま、まさかこいつ……今度は人の心が読める技でも身に付けたんじゃねぇだろうか。
「……あ、な、なに?」
「うん……ちょっと、話がある」
「お、おう」
右京は――口調だけでなく、表情も暗い。
蓮見が緊張したままでいると、右京は黙ってテーブルの対面に座った。
ようやく気付いた蓮見がテレビを切って、そして室内は沈黙に満ちた。
「……私の身体のことだが……」
重苦しい空気の中、いいにくそうに切り出された言葉に、蓮見は身体を硬くした。
「身体……って」
言いさして、言葉を呑んだ。
もしかして、と、咄嗟に思ってしまっていた。もしかして、例の病気――HBHに。
右京が死ぬ。
そう思った刹那、蓮見の周辺の時は止まり、心臓が動悸を早め、頭の中が真っ白になった気がした。
が、
「すまないと思っている……だが、申し訳ない、どんな形であれ、子供は……作らないつもりだ」
右京の口から出た言葉、まるで違った内容だった。
「……は…………?」
一瞬、話の意味が判らなかったが、少なくともそれは、致命的な話でないことだけは判った。蓮見の中に、ようやく――時の流れが戻ってくる。
「あ、ああ……そっか、そんなことかよ」
そして蓮見は理解した。ああ、そうか――鞄の中だ。しまった、不用意にあんな本を――。
ただでさえ、罪悪感の塊のようになっている女に、また余計なプレッシャーを与えてしまった。自分の迂闊さに、蓮見は舌打したい気分だった。
「……体外授精という方形で、子供を作る例はあるし、それは可能だ。だが――私は……」
そこで言葉を切り、右京は唇を引き結んでうなだれた。
長い睫が、頬に影を落としていた。
「それをしようとは思えない……わからないんだ、まだ……自分の、この」
「…………」
「この遺伝子を引き継ぐものが、本当に幸せな人生を送ることができるのか、それが私には判らない」
蓮見は黙って目をすがめた。
蓮見にしても、それを理解していないわけではない。
自殺種子。
一体誰が、この残酷な種を人の遺伝子に組み込むことを考案したのだろうか。
成長と共に発芽し、人を死に至らしめるウィルス。
女性であれば、妊娠と共に発芽して、最悪の場合胎児ごと母体も殺す。
そして――この自殺種子は遺伝するのである。間違いなく。
加えて右京の身体には、まだ、未知の遺伝子が含まれている。それがどのくらい危険で悲劇的なものか、右京自身が一番よく知っているのである。
「………本当に……申し訳ない……」
「いや……そんな」
深々と頭をさげられ、蓮見は困惑して、言葉を失った。
ここで、謝られることとは違う。むしろ、謝るのは、あんな本を持ち帰った自分の方で――
いや――なんていえばいいのだろう。上手く、言葉にできないんだが――。
「なんか……違うんじゃないか」
苦し紛れに、蓮見はようやく口にした。
「え?」
右京が、不思議そうな顔をあげる。
「いや、よくわかんねぇけど、俺らのしてることって、なんか……こう……違うような気がして」
ベルが鳴ったのはその時だった。
家庭用の電話ではない。警察から借りて置いてある、緊急用の電話。
『あ、蓮見さん、大変っすよ、10分間詐欺の共犯、今、自首してきました、うちの交番に』
電話に出ると、泡を食ったような的場の声がした。
蓮見も、さすがに緊張した。
「マジかよ、で、元課に連絡したのか」
『しましたよ〜、早く来てくださいよ、俺一人じゃ心もとなくて』
「何言ってんだ、そりゃ行くけどよ、相手はそんなに恐ろしげな奴なのか」
『それが聴いて驚きですよ、生徒なんです、元生徒』
受話器の向こうで、的場が声をひそめるのが判った。
「…………え」
『今朝、俺らが捕まえたのって、元高校教師ですよ。で、共犯は元教え子、なんなんですかね、一体』
「……わかった、すぐに行く」
短く答え、蓮見は電話を置いて振り返った。
状況を理解しているのか、右京はすでに立ち上がっている。
その普段通りの冷静な目色に、逆に言葉が出なくなったのは蓮見の方だった。
「私のことは、気にしなくていい」
「……あ……えと、……悪いな、話の続きは……後で」
蓮見がそう言うと、右京は初めて柔らかく笑んだ。
「明日の10時にはここを出る、それまでに戻れなかったら、また電話してくれ」
こういう時、元警察官の右京は飲み込みが早い。愚痴ひとつ言わないし――いや、言われても困るのだが、それでも蓮見は、その右京の物分りのよさに、妙な寂しさを感じていた。
「……じゃ、行ってくる」
人ってのはねぇ、刑事さん。
ふいに、あのつぶら目の親父の声が聞こえたような気がした。
十分で語りきれる人生なんて、どこにもない。十分で理解できる人間なんてねぇ、本当、どこにもいないんですよ。
自分の迷いごとセンチメンタルな感慨を振り払い、蓮見は上着を掴んで夜の道路に飛び出した。
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