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三
「なんだ、新婚さんの御出勤か」
頭上から浴びせられた嫌味な声に、獅堂は足を止め、顔を上げた。
顔を見なくても声だけで分る。
戻って来た早々、どうしてまぁよりによって……と、思いながらも、
「留守中、ご迷惑おかけしました」
背筋を正し、最敬礼で獅堂は答える。
緊急発進待機所に続く狭い通路。
おそらくアラートから戻って来たばかりのチーム・白虎の連中と鉢合わせだった。
「全く、いい迷惑だ。シフトはずれまくるし、予定外のフライトは入るし、」
視線だけで、チームメイトを先に行かせると、名波は腕組みをしたまま、ねちねちした口調で喋りはじめた。
名波暁。
チーム白虎のリーダーパイロットで、航空学生時代からの獅堂の天敵。
「はぁ、申し訳ありません」
長くなるな……と、獅堂は内心肩をすくめた。
「ところで、お前、鷹宮さんと、とうとう出来たんだって」
「…………」
滝沢だな、と溜息と共にピンときた。
「お前の弟分、ちょっと締め上げてやったら、すぐに吐いたよ。中々口が軽くて可愛い奴じゃないか」
あいつがどうして自分の弟分なんだ?
と、獅堂は思ったが、締め上げられたという滝沢がどんなに慌てたか想像がついて、思わず笑ってしまっていた。
「何が、おかしい」
名波が、むっとした口調で眉を上げる。
「あ、いや、こっちのことで」
獅堂は、慌てて笑いを消す。
「で、今日、これから鷹宮さんに会いにスイスまで飛ぶんだって?なかなかいい御身分じゃないか」
「……はぁ、というより、自分の目の検査もあるんすが」
「どうせ口実だろ?そんなもん日本ですませばいいじゃないか」
「…………」
ああ、いつまで続くんだろう。
「内心、早く会いたくてうずうずしてんじゃないか?で、会ったら早速ベッドインか」
―――な、名波さん……。
獅堂はふいに脱力し、そして、不思議と楽しくなった。
楓ばりの美人顔で、頭も相当いいくせに、センスの欠片もない下ネタ。本当に昔から進歩がない人だ。
「はい、まぁ、実はそのとおりです」
獅堂は出来るだけ真面目に答えた。
「すいません、名波さんとは長年恋のライバルでしたが、自分が抜け駆けしてしまいました。確かに自分と鷹宮さんは、もうそういう関係です」
「…………」
「そういうわけで、ご理解いただければと思います」
うっ、と口の中で何か呻いたきり、名波は気まずそうに黙り込む。
「それじゃ」
チャンス、とばかりに獅堂は背を向けた。今日、スイスまで同行する予定の滝沢が、駐機場で待っているはずだ。
「……お前、なんか変わったな」
名波の呟きが、背中から聞こえた。
「はい…?」
獅堂は振り返る。こちらに顔だけ向けた、長身の名波の後ろ姿が目に入った。
「変わったよ、お前。……前は、一直線で単純で、からかいやすい奴だったのに、」
「そうっすか……?」
「そうだよ」
そのまま顔を背け、名波は獅堂とは逆方向に歩き出した。
「………」
獅堂は男の背中を見送った。不思議な気分だった。
空学以来、何かと因縁があった相手である。が、何故かこうして絡まれるのも、今日が最後のような気がしていた。
四
「獅堂は行ったか」
すらりと痩せた背中が、静かにそう呟いた。
いつものように、真直ぐに立ち、凛とした目で、天空の夕闇を見ながら。
「はい、滝沢を同行させています」
降矢は答えた。
「……そうか」
そのまま、再び黙り込む背中。
―――正直……。
降矢は、考える。
正直、滝沢では心もとない、というのが監視役としての自分の本音だ。
そもそも、この巨人担当チームに、若年で、好奇心ばかりが先立つ滝沢を加えたこと自体、今だ納得できないでいる。
―――さすがの俺も、この女の頭の中だけは、読めないな。
右京奏。
本名、蓮見奏。データとしては知っていたが、この女が人の妻だと思うと、心底驚愕してしまう。
名実ともにオデッセイのトップであり、国防の顔として、現在では防衛庁になくてはならない重鎮。このまま、着実に任務をこなしていけば、いずれ、官僚政治の中枢に立つであろう女。
しかし。
今回、右京が取った一連の行動だけは、どうしても降矢には理解できなかった。
「室長、我々が目撃した人物について……やはり、本庁に報告はなさらないつもりですか」
「するつもりはない」
落着いた声が即座に返ってくる。
形良い背中は、微動だにさえしなかった。
「声紋のことは」
「お前がしていないなら、まだだろう」
はぁ……と、降矢はたまらず、嘆息した。
「言っておきますが、今回、NAVIはあれだけ派手に動いた。……各国の情報部が動き出すのは、時間の問題だと思いますがね」
「………」
右京は答えない。降矢は眉根を寄せ、手元のディスプレイに映し出された文字に、もう一度眼を向けた。
――NO OVER。
これ以上交信しないという端的な拒絶。千歳基地の管制塔に残されたこの記録を、降矢は徹底的に分析した。
真宮楓の肉声は、メディアにいくつか残されている。それをデータとして取り込み、様々な角度から照合した、その結果が。
確率・80パーセントで、同一人物の声だと、コンピューターははじき出した。微妙な確率、降矢は眉をしかめる。これだけでは証拠としては乏しすぎる。
しかし、その結果を得てジュネーブに飛んだ右京が、そして同行した椎名、滝沢両名が、NAVIのメディカルセンターで見てしまった男。
降矢はその一報を受けて、何年かぶりに背筋の凍る思いがした。
「本当に、生きていたのか……」
思わず呟いてしまっていた。
大変なことになる。直感したのはそのことだった。これは……大変なことになる。
「レオナルド会長からの公式回答は?」
背を向けたままの上官に、降矢は尋ねた。
「まだだ、しかし、声紋の解析データを転送したから、直に、何らかの回答は来るだろう」
「あなたの目から見て、実際どのように感じられましたか。ジュネーブにいた男は、本当に、」
真宮楓だったのか?
「なにしろ視界に入ってきたのは、一瞬だったからな」
右京は振り返った。相変わらず、表情の読めない眼の色をしている。
「見た目の特徴はまるで別人だった。しかし」
印象がな。
右京は続けた。
「立ち姿の印象がそのままだった。あの表情といい、独特の雰囲気といい…。が、断定はできない、すぐにその男は姿を消したし、何処へ行ったか、その痕跡すらつかめなかった」
「あの病棟の屋上に、一般には公開されていない通路があるのかもしれませんね」
降矢は今、メディカルセンターに隣接する建物――公式には、HBH専門医療研究所と称されるラボを調査していた。
先年、世界中を震撼させた新型ウィルス――その解析とワクチンを開発するために、造られた施設だという。
窓ひとつない、異様な外観を有する、地下五階、地上七階の建物である。
調べを進める内に、降矢は妙な事実にいきついた。
レオナルド・ガウディ。
NAVI王国の領主でもある彼は、どれだけ多忙にもかかわらず、ほぼ、三日に一度は、そのラボにこもりきりになっているらしい。
上階には彼の私室もあり、寝泊りしている、との情報もある。
現時点で、そのラボに関する情報は、一切公にされてはいなかった。スタッフ、研究内容、成果、一切が闇に閉ざされている。
仕方なく降矢は、世界中の医療機器及びコンピューター機器類を取り扱う会社を調査し、あのラボから購入依頼を受けたもの全てを洗い出した。そして――。
調べれば調べる程、NAVIの、いや、レオナルド・ガウディーの持つ闇の部分が浮き彫りになってくるような気がした。
施設自体の大きさもさることながら、兆単位のスーパーコンピューターが、一昨年あたりから次々と搬入されている。
あれだけの数のスーパーコンピューターを要する研究は、おのずと推測されてくる。遺伝子解析だ、しかも間違いなくヒト遺伝子。
昨年、NAVIの進言により成立した、ヒトクローン保護条約により、ヒト遺伝子の研究に携わる時は、国連事務局が管轄する優性保護省への届出が必須となっていた。
それがなされていない、ということは――。
暗い予感が、降矢の胸に淀んでいる。
何故レオナルド会長は、真宮楓の遺伝子をこの地上から一掃しようとしていたのだろう。あれほど執拗に、各国政府に働きかけたのだろう。まさか――
「とにかく今は、レオナルド会長の回答を待ってみよう」
右京が静かに口にした。
「お前は、引き続きメディカルセンターのラボを調査してくれ。この件については、全面的にお前に一任する」
「鷹宮が、現在動いてくれていますが……」
降矢は、そこで疲れたように言葉を切った。
「何度もいいますが、事はあまりにも、重大ですよ、室長」
眉根を寄せ、嘆息しながら降矢は言った。
「我々だけで調査するのは限界がある。それに、この情報をEURかペンタゴンが掴んでいたら」
「………」
「また、一年前と同じことになるかもしれない。防衛庁の連中も莫迦じゃない、情報はすぐに伝わって行く。――そうなれば、この件を報告しなかった責を問われて、あなたは」
「責任は全部私がとるよ」
右京は振り返った。
不思議なくらい穏やかな顔をしていた。その初めて見るような表情に――降矢は口ごもり、一時言葉をなくしていた。
「……あなたのやり方に、口出しは無用だと判ってますがね。……もし、あなたの見かけた男が真宮楓本人だったとしたら、一体あなたは、彼をどうするつもりなんです」
「もし、本人だったら」
右京は微かに眉をしかめた。
厳しい眼は、降矢を通してどこか遠くを見つめているようでもあった。
「そうなれば、もう――私の一存ではどうにもならないだろう」
「………」
その言葉の意味が判りすぎるだけに、降矢は視線を落し、軽く嘆息する。
「……室長、あなたは、最初から、こうなることを予測してたんじゃないですか」
「……こうなることとは?」
「……あなたは知ってたんだ、真宮楓が、まだ地上にいて、……あの海域に」
「…………」
「必ず現れるはずだと、――そうじゃないんですか」
「いや、知りはしない」
静かな声だった。柔和な眼差しに、初めて降矢は、この上司が女性だと意識していた。
「降矢」
「……なんですか」
「お前は、どうして、それを元課に報告しない」
降矢は肩をすくめる。そのことだけは、正直、彼自身にも判らない。
ただ、見届けたいのかもしれない、とふと思った。
たかがベクターの、たかが女が、この危機をどう乗り切っていくつもりなのか。
一体何処へ、全ての混沌を持っていこうとしているのか。
「……私は、多分、待っているんだろう」
ふいに女が、静かな口調で呟いた。
「……待つ……?」
意味を解しかね、降矢はただ、眉をひそめる。
再び背を向けた女から、返って来る返事はなかった。
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