act  9
 ――迷宮――




                                     
vvvvvvvvvvvvv



                   

                一

 
―――……にしても、どっから手をつけりゃいいのかな。
 獅堂は、ため息をついて部屋の中を見回すと、ひとまず洗顔をするために脱衣所に向かった。
 一年ぶりに足を踏み入れた―――かつて楓と暮らした部屋。
 忘れたようで、勝手は身体に染み付いている。
 ずっと防衛庁が管理していたせいだろうか。水道と電気だけは、とりあえず生きているようだった。
 夕べ、遅い時間に、この町についた。
 借り受けたままになっているトシちゃんのアパートに戻ろうかと思ったが、結局、そのまま、息苦しいほど懐かしい、楓のマンションに向かってしまっていた。
 そして一夜明かした――朝。
 明るく照らし出された現実を見ると、否が応でも、過去の思い出が蘇る。
 部屋の中は、想像していたよりずっと清潔で、家具には全て、ビニルの覆いが被せられていた。
 むろん、何もかも昔のまま――とは言いがたい。
 ベッドカバー、カーテン、絨毯のたぐいは全て取り外されている。クローゼットを開けると、中は全くの空だった。
 パソコン機器、食器類、書物、そういったものも、なくなっている。
 およそ楓が指で触れ、その細胞のわずかな痕跡でも残っていそうなものは、のきなみ部屋の中から削除されているようだった。
 残されているものは、空っぽの大型家具と、獅堂が置いたままにしていた荷物だけ。
 それでも……。
 それでも、部屋のあちこちに、いたるところに、恋人との思い出が染みている。
―――あの、窓辺に。
 本がないだけで、別の部屋かと思うほど広くなった書斎に入り、獅堂は、思わず苦笑した。
 むきだしになった出窓、カーテンがないから、日に焼けて、少し変色している木材。
 あいつ、ここに腰掛けて、本を読むのが好きだったよな。
 声を掛けても返事なんかしやしない。
 しつこく呼ぶと、苛立った眼で見返される。
―――自分、料理とかあんまり得意じゃなくて、
 回想を辿りつつ、獅堂は書斎を出て、殆んど何もなくなった台所に足を踏み入れる。
 シンクが、さすがにそこだけ、黒黴か何かで黒ずんでいた。
―――何でも好き嫌いなく食べるっていうのが、唯一の共通点だったよな。
 デリバリーか、冷凍物、コンビニ弁当。つきあいだした最初はそんなものばかり食べていた。やがて、楓が簡単な料理をしぶしぶ作るようになって――。
 すぐに腕があがったのはさすがだな、と、今でも獅堂は感心している。
 そんなことを本人に言ったら、マジで蹴りが飛んできそうだが。
「…………」
 この台所でも。
 寝室でも。
 書斎を兼ねた楓の仕事部屋でも。
 たくさん笑って、たくさん、喧嘩して。
 キスをして、――苦しいほど愛し合った記憶がある。
 

 そうだ。きっとあの夜から。
 書斎に戻った獅堂は、苦い思いで、窓辺に立った。
 ここで――抱きしめあって、何度も何度もキスをした夜。
 楓の儚さが、あの感じ方が、どこか理解できずに、受け止められずに、もどかしい抱擁を繰り返したあの夜。
 あの時から。いや、もっと――以前から。
 楓は、精神のどこかを病んでいたのかもしれない。
 姜劉青に掛けられた暗示が、徐々に体内で目覚めていき、自分でも無意識のうちに、それを察し、不安を感じ始めていたのかもしれない。
 自分には何も言わず、嵐と二人で、ベクターを襲う謎の死病を調べていた楓。
 どれだけ――怖かったろう。心細かっただろう。
 痩せていく身体と、どこか精彩を欠いた微笑。
(風邪移しちゃ、悪いと思ったからさ)
(俺……抱きたくて、気が狂いそうだ……)
 それでも、留守がちの妻のことを一番に考えてくれていた楓。
―――なのに、自分は……。
 当時の獅堂は、自分のことだけで、精一杯だった。
 異動したばかりで、上司からは嫌がせを繰り返され、部下からは無視された。
 過酷なアラート、連日の演習、昔の仲間が次々とオデッセイに呼び戻され、初めて仕事に対し、ナーバスになりかけていた頃だった。
 周囲から、自分自身を守るだけで、本当に手いっぱいだった。
 そして、部屋に戻る度に、癒しを求めた。
―――あいつが……。
 あいつ自身が、ひどく追いつめられていたことに、気づきもせずに。
 いや、気づいていて……それと、真剣に向き合うことから無意識に逃げていたのだ。
 そういう意味では、滝沢と同じだ。彼の言葉を借りれば、最低の卑怯者だということになる。
「…………」
 過ぎたこと……だ。
 獅堂は首を振った。
 過ぎたことだ、もう、悔やんでも仕方のないこと。
 いくら悔いても――絶対に元には戻らないこと。
 それでも。
 それでも、獅堂はふと思う。ありえないことだけど――あいつが、もし、帰ってきたら。
 「おう」とか言って、「遅くなって悪かったな」なんて呑気に帰ってきたら。
 まず、自分は、自分のことを棚にあげて、怒るだろう。
 いまさら、何しに帰ってきたんだ、莫迦野郎。それくらいは言わせて欲しい。
 今まで――気が遠くなるくらい長い間、ずっと、その瞬間を待っていたんだから。
………それから。
 獅堂は、胸に沁みるような思いを噛みしめながら考えた。
 絶対に、現実には有り得ない空想だから。
―――それから、楓を抱きしめる。
 心ごと、身体ごと、抱きしめる。
 そして――もう、絶対に、絶対に二度と離さない。
 例え、地上の全てを敵に回したとしても。




















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