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一
「ただいま」
そう言って部屋の扉を開けることも。
「おかえり、」
そんな、――素っ気無いけど優しい声が返ってくることも、まだ獅堂には夢のようで――現実のものとして、受け入れられないままでいた。
とは言え、声だけは返って来ても、数ヶ月前から一緒に暮らしはじめた同居人は、飼い犬のように尻尾を振って、出迎えに来るわけではない。
「楓……?」
きれいに片付いたリビングには誰もいない。ソファの間を通り抜け、獅堂は、続き間になっている書斎の扉を、そっと開けた。
その途端、風が獅堂を包み込んだ。
春の穏やかで暖かな風。それが、カーテンいっぱいに光をはらんで、開け放たれた窓から流れ込んでいる。
鼻をくすぐる甘い匂いは、開花したばかりの桜だろうか。
バス停からマンションまでの僅かな距離を歩いている間、川沿いの土手の桜が淡く色づいていたのを、獅堂はようやく思い出していた。
そうだ、もう季節は――春なんだ。
「早かったな、帰ってくるなら、電話くらいすればいいのに」
いつもの場所、大きな出窓の、広々とした木製の枠。
揺れるカーテンの向こう側。そこに腰掛けた真宮楓が、顔も上げずにそう言った。
背を窓に預け、片手に分厚い本を持ち、視線はページを追っている。
「帰ってくんの、もう少し先じゃなかったっけ」
そして、そのままの姿勢で言う。
つい何日か前、長年世話になった百里基地を異動になった獅堂は、今では遠方の――入間基地に、遠距離通勤することになっていた。
入間基地には、今まで要撃戦闘部隊がなかったせいもあり、四月のしょっぱなから、目が回るほどいそがしい。
そのせいもあって、なかなか部屋に帰れない日が続いていた。
「アラートが一日繰り上がってさ。シフトがずれて……って、お前、仕事は?」
「ばーか、今日は、土曜日」
「あ、そっか」
獅堂は、ぽりぽりと頭を掻く。
基地にいて、不規則なシフトについていると、昼夜、曜日の感覚にどうしても乏しくなる。
楓はようやく顔を上げた。
手元の本を閉じ、漆黒の澄んだ瞳で、獅堂を見上げる。
その瞳に……もう、恋人になって一年近く経って、結婚までしたというのに……。
まだ、ときめいて、惑わされている自分がいる。
獅堂は、そんな内心を見透かされるのが嫌で、さりげなく視線を逸らした。
「お前さ、本、読んでる途中に閉じて、大丈夫なわけ?」
「え…?」
「だってさ、どこまで読んだか判らなくなるだろ、普通」
「……それ、……多分普通とは言わないから」
ひょい、と出窓の枠から飛び降りると、楓は閉じた本を机の上に置き、獅堂に背を向けて窓を閉じた。
ロゴの入った黒の長袖シャツに、少し緩めのジーパン。痩せているから、細い腰が余計に薄く見える。
「……昼メシ、どうする?」
「ああ、まだいいよ、それよりシャワー浴びてくる。急いで帰ってきたから、風呂はいってないんだ」
獅堂はそう言って、肩に引っかけていたリュックを置くと、上着替わりのシャツを脱いだ。背後に楓が近づく気配がする。
男の、綺麗な貝を貼り付けたような指先が、そっと、剥き出しになった獅堂の二の腕に添えられる。
「……なに?」
「別に」
「…………」
一緒に暮らしはじめてからの楓は、何かと自分に触れたがる。
それが獅堂には不思議だった。
以前は、心のどこかを頑なに閉ざしていて、決して踏み込めない一線を譲らない。―――そんな感じの男だったのに。
結婚という形で一緒になってから、信じられないくらい無防備で、そして優しい顔をするようになった。
そのせいかどうかは知らないが、同じ部屋にいると、すぐに身体に触ってきたり、突然抱きしめられたりする。そのくせ表情は素っ気無いままだから、何を考えているのか分らない。
もしかして、甘えてるのかな……?
と、ちょっと年上気分で、可愛く思える時もあるが、こっちがそう思って逆に抱き締め返しても、
「ごめん、そういう意味じゃないから」
と、するり、と逃げられる。
―――そういう意味ってなんなんだ!
と、その度に憮然としてしまう、獅堂なのだった。
だから、獅堂も最近では、楓の<スキンシップ>を気にしないようにしている。
「……じゃ、風呂行って来るから」
その日も獅堂は肩をすくめ、きびすを返して浴室に向かった。
が、何故か楓もついてくる。
「……なんだよ」
「別に」
「…………」
本当に、よく判らない。
洗濯機が置いてある脱衣所で、獅堂は背を向けてTシャツを脱いだ。
と、少し冷たい手が、背後から腹の辺りにまわされる。
「だから、何だよ」
「だから、別に」
「……お前なー」
たまらず獅堂は、嘆息した。
「久しぶりだから、したくなった?」
楓の声は、完全に面白がっている。
「なるか、莫迦」
「……本当に?」
「…………」
今度は、すかされないのかな、と思いながら、振り返った。
視線があって、どちらからとなく唇を合わせる。
楓が本気なのがすぐにわかって――ちょっと、別の意味で後悔しつつ、そのまま、痩せた腰に腕を回していた。
楓はシャワーのノズルをひねった。
熱いお湯が、勢い良く、真上から降り注ぐ。
「風呂場って、変に声が響くよな」
そして、振り返り、しれっとした顔で言う。
「だったよ、出ろよ」
タオルで胸元を隠しながら獅堂は言った。
昼間から――こんな明るいところで抱き合うのは、正直言うと、ちょっと嫌だ。
が、楓は構わず、腕を伸ばしてタオルを剥ぎ取る。
「藍の声、色っぽいから心配なんだよ」
「はい……?」
「他の奴には、絶対聞かせたくないからさ」
「…………」
水滴が弾け、透明な肌にいくつもの光を作る。
濡れた髪が、額に、頬に、首に絡んで、弾ける雫が、互いの睫を震わせていた。
「……俺、さ」
獅堂は、何か言いかけてやめた男の唇に、そっと口づけて、その目を見上げた。
「なに?」
「お前の身体、結構好き」
「はっ……?」
「筋肉質で締まってて、少なくとも俺より、いい身体してるよな」
「……なんだよ、それ」
獅堂は思わず失笑したが、楓は曖昧に笑むだけだった。
その、どこか寂しげな笑い方に、少しだけ不安になる。
「……お前、最近、少しおかしくないか?」
「そう、おかしいんだ。最近、俺」
そう言って、微かに八重歯を見せて笑う。
獅堂は、もう一度、その唇に口づけて――会話は、それで最後になった。
抱き合って、激しいキスを交し合いながら、再び不安に襲われる。
心の繋がりが不完全だからこそ、こうして身体で求め合うのかもしれない。
この繋がりがなくなれば、もしかして――、心は簡単に解けてしまうのかもしれない。
悔しいけど、判っている。嵐が――クリスマスを機に音沙汰がなくなって、今は海外を単独旅行中らしい。楓はそれで、少しだけ不安定になりかけているのだ。
自分には――楓の抱えているものは支えきれない。あやういほど、儚い絆。
―――楓は……。
「……藍……」
「楓……好き……」
「うん、……俺も」
楓は――おそらくそれを、知っている。
二
「……楓……?」
夜中だった。
ふと目を明けると、隣で寝ていたはずの男がいない。
暗い室内、まだベッドにはわずかな温みが残っていた。
獅堂は、上着を羽織ってベッドから降りた。すぐに書斎を覗いたが、そこにも、照明は点いていない。その代わり、
――風……?
ふわっと、生暖かい空気に包まれて、獅堂は思わず目をすがめた。
書斎の窓を、開けっ放しで寝てしまったのだろうか。それとも、楓が。
「……楓……、そこか」
「ごめん、起こした?」
暗闇の中から声がした。ようやく目が慣れてきた獅堂は薄闇の中で眼を凝らす。
窓辺に――その、いつもの場所に、楓は膝を抱く様にして座っていた。
月明かりが、髪に、肩に、光の粒を撒いている。
風がカーテンを舞い上げ、薄いベールのように、その細い体を覆っていた。
「眠れないのか…」
ようやく四月になったばかり、夜風はまだ、冬の余韻を残していた。
「風邪ひくぞ」
獅堂はそう言い、男の傍らに腰掛けて、そっと肩を抱いてやる。
楓は逆らわず、ゆっくりと頤を預けて来た。
素肌に薄いシャツを一枚羽織っただけの身体が、もうすっかり冷え切っている。
「お前、いつから、ここにいるんだよ」
マジで風邪ひくぞ。肩を引こうとすると、軽く首を振って拒絶される。
「あっためて…」
身体を……まるで猫のようにすりつけてくる。
「どうしたんだよ」
獅堂は、その身体を抱きしめた。
細い――ふと、眉をひそめる。最近、……本当に少し、痩せたのかもしれない。
「お前、自分がいない時とか、ちゃんと食ってるのか?」
「うん……」
「もうちょっと、太れよ。っていうか筋肉つけろ」
「うん……」
「一緒に、ジムに通ってみるか」
「………」
「楓……?」
楓は顔を肩に押し付けたまま、上げようとはしない。
「……泣いてるのか…?」
まさか、と思ったが聞いてみた。
楓は、首だけ左右に振って、否定する。
「このまま……」
囁くような声だった。やはり泣いているのかもしれないと、獅堂は思った。
「このまま、時間が止まれば、いいって、思ってさ」
「時間……?」
何が、言いたいのだろう。
楓の腕が、背中に回され、緩やかに抱き締められる。
「俺、……お前が好きで、けっこうやばいくらい……大好きで」
「………」
「お前も俺が好きで、……本当は、相当好きなんだろ、マジで」
「………」
実際。
獅堂は、黙って、肩に落ちている楓の髪を撫でる。
――実際、相当なんて、もんじゃないよ、楓。
「いつか、歳をとって、振り返った時、きっとこう思うんだ。俺の人生で一番幸せな時って、あの時だったんだって」
「何、じじくさいこと言ってんだよ、」
髪に、そっと唇を寄せる。軽いキスを繰り返す。
「楽しいことなんて、……これからいくらでもあるじゃないか」
そんな、哀しいこと言うなよ。
言葉の代わりにくちづける。髪に、肩に唇を寄せる。
「人の気持ちなんて、簡単に変わる」
楓は、小さな声で囁いた。
「気持ちに永遠なんてない。こんなに好きで、苦しいほど幸せな時間なんて、そう長くは続かない」
「楓……」
何、言ってる。
「この先、俺たちがどうなろうと、ずっと一緒に暮らしていようと、――きっと今ほど好きで、愛されてるって、そんな風に実感できる時間は、もう、絶対にないような気がする」
どうして、そんな。
「今、こうして喋っている間にだって、大切な時間は、掌から零れ落ちて行く」
そんな――哀しくて、淋しいことを。
「だから、この瞬間が、俺には本当にすべてなんだ。きっと、今以上に、お前が俺を好きでいてくれることなんて」
「………」
「ないと思うから……」
「…………」
どうすれば、癒せるのだろう。
どう伝えれば、安心させてあげられるのだろう。
獅堂はただ、抱きしめて、冷えた髪にくちづけを繰り返した。
こうするしか 伝えきれない自分を、もどかしく思いながら。
楓。
自分は、弱くて、まだお前を過去ごと全部受け止めて、癒してやれる強さがないから。
でも、いつか。
自分が、お前を連れて行くよ。
もう苦しまなくても、悩まなくてもいい世界へ。
お前が望んでいた場所へ。
――――いつか、自分が。
※
眩しいほどの光を感じ、獅堂藍はようやくまどろみから眼を覚ました。
カーテンのない部屋の中は、すでに朝の日差しで満ちている。
「いって……」
背中が痛む。
床で、毛布を被ったまま、いつのまにか眠ってしまっていたらしい。
夢を見ていた。長い――夢。
一年ぶりに戻ったこの部屋が、きっと見させてくれた夢。
獅堂は髪をかきあげ、窓辺に立った。
(――早かったな、帰るんなら、電話くらいすればいいのに、)
あの時と同じ青空が、窓ガラス一面に広がっている。
腕を伸ばして窓の鍵を外す。力を込めて押し開くと、固まっていたビスが、軋んだような音を立てた。
風が――
ぱらぱらと、幻想のように、楓が持っていた本のページをめくったような気がした。
「うん……いい天気だよな」
獅堂は呟き、そして染みるほど青い空に、眼を細めた。
戻れないんだ。
あの日には、もう、二度と――戻れない。
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