九


「鷹宮さん…?」
 病室を開けた途端、甘い香りが獅堂を包んだ。
 窓際に立っていた長身の背中が、ゆっくりと振り返る。
 痩せてしまった顎、首から肩にかけての線が、ひどく鋭角になっている。
 はっと息がつまり、扉に手を掛けたまま、獅堂は何も言えなくなった。
「金木犀ですよ。日本から空輸してもらったんです」
 が、そんな獅堂の表情も気にならないのか、鷹宮はそう言って、楽しそうに微笑した。
 サイドテーブルの上、こぼれんばかりの金褐色の束が、花瓶の縁から溢れている。
「花は……」
 獅堂は、その笑顔にほっとしながら――それでも、すこし戸惑って、その場に立ったまま、言った。
「花は、苦手だと……聞きましたけど」
「誰にですか?」
 鷹宮は、指先で花穂に触れ、やはり、ひどく静かに笑った。
「好きですよ。生きてるものは、みんなね」
「…………」
 その背中が、ふいに、ひどく儚く見えた。
 気がついたら駆け寄っていて、獅堂は、鷹宮の腕を掴んでいた。
「そんなことは、自分がやりますから」
 怜悧な目に見下ろされる。
 その距離に戸惑って、慌てて、手を離していた。
「と、とにかく鷹宮さんは寝ててくださいよ、こう見えても、花活けるくらいは、できますから」
 しばらく不思議そうな目をしていた鷹宮は、ふいに表情を崩して吹き出した。
「……はっ??な、何がおかしいんです?」
 獅堂は、むっとして言い返す。
 なんだろう、ここは、笑うところじゃないはずだ。
「いや、だって、……活けるって、意味判って言ってます?」
「判りますよ?切ったり、いじったりすればいいんでしょ、そ、それくらいのことはですね」
「これ、ついさっき、ナースセンターの看護士さんがやってくれたんです。日本の文化に興味があるそうで、活花の免許皆伝だそうですよ」
「………………」
 どの人だろう。
 咄嗟にそう思っていた。
 鷹宮のことだから――きっと、思いっきり、誘惑モードに入っていたに違いない。
―――本当に……この人は、
 と、半ば呆れつつ、むっとしつつ、獅堂は、鷹宮の身体を押し戻し、そのまま、ベッドに座らせた。
 鷹宮は少しおどけたような顔で、獅堂のなすがままになっている。
 元気そうなのは嬉しいが、やはり今は――寝ていてほしい。一日でも早く、日本に戻ってきて欲しいから。
「とにかく、何もしないで、鷹宮さんは休んでてください。何か、自分にして欲しいことありますか」
「それは、山ほど」
「いや…………今の撤回です、撤回」
―――全く……。
 汗が出る。
 でも、いつもの鷹宮だ。笑顔も、その少し皮肉な喋り方も――元気だった頃の、いや、初代オデッセイの頃の鷹宮に戻っている。
 それが、獅堂には、嬉しかった。
「明日には、オデッセイに戻るそうですね」
 それでも、未練たらしく花瓶の花をいじっていると、背後から鷹宮の声がした。
「ええ、鷹宮さんは、いつ頃転院されるんですか」
 振り返らずに、獅堂は答える。
 花瓶の縁で、少しだけ折れている葉を引っ張り出す。
 鷹宮が好きだと言った花を、その葉の一片でも無駄にしたくなかった。
「もう、しばらくはここにいようかと」
―――え。
 手を止めて獅堂は振り返った。
 その眼を見上げ、鷹宮は薄く笑う。
「こちらにお世話になろうかと思います。何しろ医療設備は世界一だし、居心地はいいし」
「そう……ですか」
 少しだけ意外な気がした。ある程度よくなれば、鷹宮も――すぐにでも日本の病院に転院すると思っていたからだ。
「何だか、寂しそうですが」
「べ、……別に」
 そういう意味じゃないです。
 面を伏せて、口の中で呟く。ただ、鷹宮の容態が気になるだけだ。
 ここは確かに世界一の医療施設である。が、トップに立つレオナルド・ガウディは、明らかに在来種に敵意を抱いている。特に、獅堂や鷹宮のような職業軍人を。
 妙な気まずさを感じたまま、そのままうつむいていると、ふいに鷹宮の声がした。
「獅堂さん」
「な、何です」
「獅堂さん」
「……?何ですか」
「獅堂、さん」
「だから、何ですって」
「呼んでみただけです」
「…………」
 獅堂は顔を上げ、何か言おうとして、息だけ吐いた。
「……何なんですか、もう……」
 疲れる人だ……、と思いつつ、再び花に向き直ろうとした時、
「こっちへ来ませんか」
「…………」
 獅堂は、少し驚いて、その顔を見つめ返した。
 鷹宮は、ベッドに座ったまま手招きしている。
 顔には、表情の読めない微笑が浮かんでいる。
「来て……って、な、何ですか」
 思わず――後ずさっていた。
「いいから、いいから」
「い、嫌ですよ、そういうのは、まだ」 
 まだ、そっちの方は、心の準備が出来ていない。
 さらに、じりっと後退すると、鷹宮はおかしそうに笑った。
「何を、妙な期待をしてるんですか。言っておきますが、私は病人でここは病院ですよ?いいから、こっちにいらっしゃい」
「は、はぁ……」
「座って、座って」
「はぁ……」
 獅堂はしぶしぶ、鷹宮の隣に、――少し身体を離して座った。
「座りましたけど」
 そう言って振り仰いだ途端、頬に、鷹宮の手のひらが触れた。
「―――??」
 咄嗟に身を引こうとして、そのまま止まってしまっていた。
 触れる男の指先が少し冷えていて、それが――あの日、見えない目のまま、触れられた時と、同じ感覚がしたからかもしれない。
「……私の獅堂さん」
「…………」
 指先が、頬をなで、唇に触れて、首筋に滑る。
 その度に、獅堂は、反応に困って目を伏せた。
 そして――そのまま、抱きしめられていた。
「………痛いです」
 意外なほど強い力に、息が詰まりそうになる。
「痛くしてますから」
「な……何もしないって、い、言いませんでしたっけ」
「そうでしたか?私は、病人だとしか言ってませんよ」
「ちょ、鷹宮さん」
 抗議しながら、こうして抱きしめられることへの不思議な安堵と、居心地のよさを感じている。
 獅堂は、何も言えなくなって、ただ、抱かれるままに全身の力を抜いた。
「昔のままですねぇ」
 それでも少し腕を緩め、そう言って鷹宮は笑った。
「は……はい?」
「油断してはいけないと教えたのに」
「…………」
 松島で会って以来、こんなに優しい、楽しそうな表情で見たのは初めてのような気がした。
 可愛い。
 獅堂は思った。
 鷹宮さん、可愛いな。
 そして――この安らぎと心地よさに、自分を失わないだけの強さを、果たして自分は持ち続けることができるのだろうかと、同時に、不安になっていた。
 鷹宮の唇が、瞼に触れ、はっと、獅堂は我に返る。
 少し身体を硬くして、それを受ける。
 くすぐったいような、不思議な感覚がする。
 両肩を抱かれ――そして、優しいキスが続く。
 瞼から、頬へ、そして、耳に唇が触れたとき、忘れていた感覚が、ふいに蘇ってくるのを感じた。
「た、鷹宮さん……」
 本気で狼狽し、獅堂は、顔を背けていた。
「あの……自分は、まだ、」
 唇は、獅堂の言葉をそこで塞ぐ。
「受け入れて、獅堂さん」
「…………」
 囁きが、脳髄に沁みていく。
 長い口づけが終わった時、獅堂は自分の身体が熱を帯びていることを意識した。
 戸惑いと、そして、説明できない胸苦しさ。
 何も言えないまま、獅堂は男の腕を解いて、立ち上がった。
「鷹宮さん、……自分は、」
―――まだ、そんな風には、
「あなたが、」
 背後で立ち上がり、そして近寄ってくる影。
 それをガラス越しに確認しながら、獅堂は動くことができなかった。
 鷹宮の腕に、背中から包み込まれる。
 痩せたようでも、まだ筋肉が残る逞しい男の腕。
「あなたが、まだ、迷っているのは知っている」
 抱きしめられて、そして、耳元に寄せられる唇。
「や……鷹宮さん」
「私はもう待たない」
「………だめ……です」
「迷っている心ごと、あなたが欲しい」


                 十


 ベッドに仰向けに抱き倒されても、それでもまだ、獅堂は迷う気持ちを捨て切れないままでいた。
 片腕で獅堂の頭を支えたまま、鷹宮は慣れた手つきでシャツのボタンを外して行く。
 両胸が露わになって、思わず顔を逸らす間もなく、肩からシャツが下ろされる。
 指が――胸を包み込んで、優しく撫でる。
 繰り返される、優しすぎるほど繊細なキス。
 獅堂は、自分の身体を覆っていた氷が、少しずつ溶けていくのを感じていた。
「獅堂さん」
 鷹宮が、囁く。
「…………」
 言葉の代わりに、その身体を、獅堂は腕を回して抱きしめた。
 もう迷うのはやめて、身体全体で、鷹宮の温もりを受け止めたいと思っていた。
 この人が、好きだから。
 首筋に、胸に、鷹宮の唇が落ちていく。
 自分は、この人が……好きだから。
「や………」
 獅堂は初めて声を上げた。
 男の指先が、ある箇所に触れたとき、身体が刹那に、逃げようと反応していた。
「大丈夫」
 鷹宮が、囁く。
「楽にして」
 うつむいたまま獅堂は頷き、ただ、男に身を任せようと、覚悟を決めた。
「あ……」
「いいですか」
「き、聞かない、で」
 気がつけば、男の肩を抱き、獅堂は、声をこらえていた。
「や……」
「可愛い声だ」
「…………」
 それでも、まだ……戸惑っている。
 まだ――迷っている。
 こんな風に、誰かの腕に抱かれているということに。
 それが、楓ではないということに。
―――迷う自分ごと……。
 獅堂は眼を、きつく閉じた。
 迷う自分ごと、抱かれればいい。
 そう思った。
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