エピローグ
一
「まさか、朝っぱらから、二人が同じ部屋にいるとはな」
「ふ、降矢さん、それ、獅堂には絶対に言わないで下さいよ」
NAVIのメディカルセンター。
「ま、まぁ、朝飯でも……一緒に食ってるだけかもしれないですし」
つい先ほど、屋上のヘリポートに、小型航空機を着陸させたばかりの椎名は、そう言って咳払いを繰り返した。
ヘリポートから続く、病院の屋上に設置された人口庭園。
椎名と、そして副操縦士として強引に同行してきた滝沢、そして何故かついてきた特務室の降矢龍一。
することもない三人は、美しく咲き乱れる花のたぐいを見るのでもなく、ぼんやりと朝の空を見上げていた。
―――というか……。
椎名は、不思議な思いで、隣にたつ長身の男を見上げた。
降矢龍一。
オデッセイの中では一番得体が知れない存在で、今までパイロット連中とは一線を画していたこの男が、どうしてこんな――何もない病院にまで、わざわざ同行してきたのか判らない。
表向きは、右京の付添い兼警備、という理由だが、そんなことなら、自分や滝沢で十分な気もする。
右京は――何も敵地に赴くわけではないのである。
椎名も知らなかったが、健康そのものに見える女上司は、半年に一度、この病院で精密検査を受けているらしい。日にちが重なったのか、あえて合わせたのかは知らないが、右京もまた、オデッセイからここまで同行している。
「……室長、遅いですね」
椎名がそう呟くと、
「下で手続きが長引いてるのかな、……様子を見て来ますよ」
と、降矢は、穏やかにそう言い、きびすを返した。
バランスの取れた長身、背中が綺麗な男だった。
心なしか、その表情が――どこか以前より変わって、優しくなった気もする。
常に、右京室長と行動を共にする男だが、二人の間に、以前にはない信頼関係が生まれていることが、なんとはなしに感じられる。
―――まさか、蓮見に、こんなとこでライバル登場って展開じゃないだろうな。
と、やや不安に思った椎名だが、そんな莫迦なことは、室長に限って有り得ないな、と思い直した。
何しろ、通称で通しているから、誰もが忘れきっているが、右京は――もう、蓮見奏なのである。信じられない、といつも椎名は思ってしまうのだが。
「はぁ……なんなんだよ、ったく」
ふいに、花壇の囲いに腰掛けていた男が、重苦しい溜息をはいた。
「だから、いきなり行くのはやめた方がいいって、言っただろ」
椎名は小さな声で囁いて、その――滝沢の頭を、がつんと小突く。
「なんですか、じゃあ、椎名さんは、こうなることを予測してたわけなんですか」
かみつくような声が返ってくる。
鷹宮の部屋から、獅堂の囁くような声が聞こえた時から、滝沢は、傍から見てもそれと判るほど落胆しきった顔をしていた。
「いや、……別に、予測していたわけじゃないんだが」
―――いったん決めたら、電光石火で動く、鷹宮の性格なら……。
まぁ、有り得ない展開じゃないだろうな、とは思っていた。
それは、さすがに言えなかったのだが。
「………なんか深刻な病気じゃなかったんですか、あの人は」
むくれた声で、滝沢がぼやく。
「深刻だろうが、なんだろうが、ああいう点にかけては、昔から節操なしというか、なんというか」
「ああ……そんな人に、獅堂さんが」
「……?まぁ、いいじゃないか、二人は、一緒に生きていく決心をしてるんだ。素直に祝福してやれよ」
「っていうか、おかしいですよ。絶対!!」
滝沢が、ふいに立ち上がって、場違いに大きな声を出した。
「何、しみじみしてんですか。いいですか、ここは病院なんですよ?ホテルでも自分の部屋でもないんです。どうして、その点を突っ込まないんですか」
「いや……別に、そんなに律儀に考えなくても」
「節操がない、空自ってそういうとこですか!――俺、椎名さんだけは、まともな人だと信じてたのに!!」
「は??」
「もう、俺、……誰を信じていいのかわかんないっスよ」
滝沢はそのままぶいっと背を向けると、庭園の中央にあるガラス張りの温室の方に、駆けて行ってしまった。
「なんだ………?」
一人残された椎名は、唖然として、ただ呟く。
どうみても、やきもち、としか思えないふてくされぶり。
―――まぁ……判るような、気もするがな。
苦笑して、ポケットに手をつっこんだ。
獅堂はいい女だ。みんながあいつに惚れるのは、確かに判る。
「しっ……しし、椎名、さん」
滝沢のか細い声がしたのはその時だった。
二
朝の日差しが、真っ白な病室に、薄く差し込んでいる。
身支度を済ませた獅堂は、傍らの椅子に腰掛けたまま、眠り続ける鷹宮の顔を見つめていた。
明け方、一度目を覚ましたはずなのに――浴室で、獅堂が着替えている間に、もう、鷹宮は深い眠りに落ちてしまっている。
これも、病状のひとつだと言うことは知っていた。
―――鷹宮さん……。
死んだように眠る横顔を見つめたまま、獅堂は胸が痛くなった。
―――本当に……痩せたな……。
柔らかな光が、透明度の増した肌、閉じられた睫の陰を、儚げに彩っている。
松島で出会ってから……今日まで、どれくらいの時間、この人と一緒にいただろう。
あんなに長い間一緒にいたのに、寝顔を見るのは今日が初めてのような気がする。
決して他人に心の隙を見せない男。
心の底まで見透かすような眼をした男。
それが今、こんなにも幼い、無防備な顔で―――眠っている。
そっと、指先で、閉じられた瞼に触れた。
その途端、鷹宮の睫が僅かに動く。
あ、と思って手を引いたが、男は、眩しげな瞬きを繰り返し、そして薄っすらと眼を開けた。
「……獅堂さん…?」
意外そうに眉を上げ、少し不思議そうに見上げる瞳。
「あ……おはよう、ございます」
戸惑いながら、そう言うと、
「おはよう」
今の状況を察したのか、鷹宮は穏やかにそう言うと、ベットから半身を起こした。
見下ろす眼差し。
その眼が、唇が、昨夜――――どんな風に自分を見て、どんな言葉を囁いたのか。
獅堂は急速に頬が紅潮していくのを感じて、それを誤魔化すように視線を下げた。
鷹宮の腕が、そっと獅堂の肩に回り、そのまま胸元に引き寄せられる。
「夕べは、可愛かったですよ」
「……そ、それはどうも」
「色んな意味で、大人になったんですね、以前とはまるで違う反応で、驚きましたが」
「………は?……は、はぁ……」
そんな言われ方をされて、さすがに少し悔しくなった。
「じ、自分も驚きました、……鷹宮さんに、寝言言う癖があるなんて」
「……はい?」
鷹宮が、少しを身を引く。
「私が、寝言ですか」
獅堂は、ちょっと意地悪い気持ちになって、目をそらし、笑いを堪えた。
「まさか、そこで、名波さんの名前が出てくるなんて………ショックでしたよ」
「…………はっ??はい?」
獅堂は吹き出した。
「鷹宮さん、今、マジで動揺してませんでした?」
「……冗談ですか」
その笑いが、固まっている。
「そっかぁ、鷹宮さんの弱み、発見だな」
「な、なんでしょう、それは」
「名波さん、か」
「……あのですねぇ、あれはもう、何年も前の」
獅堂は嬉しかった。こんな風に鷹宮がと一緒に――安らいだ時間を過ごせているということに。
そのために――そのために、自分は今、この人の傍にいるのだから。
三
「し、しし、椎名さん」
どこかから、男のか細い声がした。
―――滝沢……?
事務で受付を済ませ、屋上庭園を歩いていた右京は、けげんに思って顔を上げる。
「………?」
そのまま、声のした方―――庭園の中央にある、ガラス張りの温室の方に眼を向けた。
温室正面、薔薇に彩られたアーケードの前に、見慣れた背中がふたつある。
一人は滝沢で、その少し背後に椎名。二人とも――こちらに背中を見せたまま、凍りついたように立ちすくんでいる。
そして、その視線の先に。
「…………」
右京は、眉をひそめ、そして、自分が――これから取るべき行動を考えた。
透き通ったガラスの向こう、生い茂る緑の中。
その人は、一瞬、こちらを見て、そして溶けるように景色の中に消えていった。
「………真宮……楓」
右京は、低く呟いた。