四
「椎名さん、しばらく鷹宮さんと話してから戻られるそうです」
車椅子を押しながら、背後の滝沢がそう話しかけてきた。
獅堂は頷く。
鷹宮の病室を出ると、待っていたのは椎名ではなく、滝沢だった。
「俺たち、午後にはオデッセイに帰りますけど、獅堂さんはまだ検査とか色々あって、あと二週間は足止めだそうですよ」
「そっか」
頬に、膝に、腕に、暖かな日差しが当たる。視力を失った目にも、おぼろげな光が感じられた。
「北條さんや名波さんたちも来たがってたけど、面会謝絶だって、俺が止めときました」
「……なんで」
「だって、目が見えないのに……あんな獣みたいな人たちに襲われたら、ひとたまりもないじゃないっすか」
滝沢は真剣な声で言う。
「お、襲うって……はは」
面白い奴だよな、こいつも。
そう思いながら、獅堂はただ苦笑した。
「少し、外を回って戻りましょうか」
滝沢がそう言ってしばらくすると、ふっと空気の温度が変った。
病棟の廊下から、外気の当たる場所に出られるようになっているのだろうか……と、獅堂は、にわかに明るさを増した気配を感じながら思う。
「わー、いい天気ですよ、獅堂さん」
「…………」
今、何時で、どのくらい日差しがあって、どんな景色の中に自分がいるのか判らない。それでも、外気の心地よい冷たさが、静まりかえった空気の中から伝わってくるようだった。
「……謝らなくちゃ、いけないっすよね」
やがて滝沢がぽつり、と呟いた。
「鷹宮さんに叱られて、椎名さんには怒鳴られました。当たり前です。俺、あの時――わざと、離脱しなかったから」
「……そうか」
獅堂は呟いた。
何故そんな莫迦な真似を、と、不思議には思ったが、怒りはなかった。
今、こうして生きて、穏やかな日差しを浴びている、それが――全てだ。
「楓さんが……青い光が助けに来るって信じてたんです。だって彼を呼び戻すには、それが一番確実な方法じゃないですか。獅堂さんを追い詰めることが」
「追い詰める……?」
言われている意味が、一瞬理解できなかった。
ぼんやりしていると、滝沢の声が、ふいに真剣な色を帯びる。
「獅堂さん、俺が思うに、あの光はEURが仕組んだトリックなんですよ。楓さんをおびきだすための、罠なんです」
「おびきだすって」
戸惑って聞くと、滝沢は苛立ったような声を上げた。
「だから、楓さん、まだ地上にいるんです、それをEURの連中は確信してるんですよ!」
「…………」
獅堂は……ただ、唖然として、見えない目で、男の声がする方を見上げた。
「楓さんは地上にいる、だから奴らは、あんな大掛かりな罠を仕掛けた、俺は、そう思ったから」
「……あのなぁ」
一瞬間をあけ、獅堂はさすがに吹き出していた。
「な、なんすか、何がおかしいんすか!」
「じゃあ聞くけど、地上のどこに、あいつらが暮らせる場所があるっていうんだよ」
「…………」
「マンガや小説じゃないんだ……それにな、自分は……確かに見たんだ」
あの二人が、地上を棄てる瞬間を。
人であることを棄てる瞬間を。
そして、何より楓の目が言っていた。これが……永遠の別れになると。
「それに、か……真宮はそんなに単純じゃないぞ、仮に地上にいたとしても」
―――そんなこと、有り得ないけど。
「そんなくだらない罠に引っかかって、あいつがのこのこ出て来るわけないだろ」
「だって、一年前だって」
「あれは……あれだよ」
苦い笑みが、口元に浮かぶ。
獅堂は、苦笑して、吐息をつくように呟いた。
「もう、あの時とは事情が違う」
楓は、自分のために、光の力を解放した。でも――
「真宮が、本当に守ろうとしたのは……究極的には、この世界の平穏だったような気がするよ。……自分という個人じゃなくて」
「………」
「……あいつは、そんな莫迦な男じゃないよ」
「…………」
滝沢は黙った。やがてかすかなため息が聞こえた。
「そういう解釈って、なんだか悲しいっスよ」
「そっか?」
「なんだかなぁ、もう、鷹宮さんと出来ちゃったから、それでいいって風にもとれますよ。俺的には」
「勝手に想像してろ」
風が、柔らかく頬をなでて通り過ぎていく。
不思議なくらい気分がよかった。
「俺、ベクターなんすよ」
滝沢の言葉も、風に流れていくような気がした。
「え…?」
数秒してから、この男が、今口にした言葉の重みに気が付いた。
「はは、意外でもなんでもないっしょ、みんな噂してるし、俺、頭もよくて顔もよくて、ベクターの特徴、これでもかってくらい揃えちゃってるから」
「………」
「小学校あがる前、親父にDNA検査、受けさせられたんす。当時は、ベクターバッシングがひどくって、……うち、田舎の旧家で、格式高くて、人口受精で子供産んだってこと自体、……絶対に隠しておきたかったみたいで」
滝沢が、口をつぐんで言いよどむ。
獅堂は、この青年の子供時代を想像し、わずかな胸の痛みを感じた。
両親から自分の存在を否定される、それは――どれだけ辛く、心細かったことだろう。
「おかしいっすよね、ベクターが何かやっても、当然だろって感じでスルーされんのに、在来者がちょっとすごいことしたら、おおっ、すげーって、ほめられんですよ。俺……親父には止められてたけど、結構それが快感になっちゃって、たちまち神童扱いっすよ」
「………」
「……クラスに、一人ベクターがいて、……東京と違って田舎ですからね。みんなに恐がられて、敬遠されてましたよ。……俺、恐かった、もし、誰かに自分のことがばれたら、……きっとそいつみたいに嫌われて、一人ぼっちになるんだろうって」
「……滝沢、」
獅堂は、見えない滝沢を振り返っていた。
この男が恐かったのは、友人を失うことより、家族を失うこと――この世界から、自分の居場所がなくなってしまうことではなかったのだろうか。
「気楽に生きてりゃいいと思ったんす、何も考えないで、その日だけ楽しくすごせれば、それでいいって……」
「…………そういうの、何もお前だけが、特別じゃないと思うよ」
獅堂は低く呟いた。
滝沢の自嘲に満ちた口調には、しようと思えば出来たのに――、何もしなかったことへの、痛烈な悔いが滲んでいる。
その、強烈なまでの責任感の強さに、自分にはもうなくなった、一途な若さのようなものを、ふと感じた。
「戦争の時、核が喉もとにつきつけられてるってのに、それでも東京の街は、いつもとおりだったよ。若い奴らは楽しげで、仕事帰りの人は、一杯飲んで、陽気そうでさ」
上手く伝えられる自信はなかったが、獅堂は言葉を選びながら続けた。
滝沢は黙って聞いている。
「でも、自分はそれでいいと思う。誰の人生も、その人だけの、一度きりのものだから。どういう生き方をしようと、それは、個人の責任だと思う」
「…………何をしようと、個人の自由ってわけですか」
少し、皮肉めいた声が返ってくる。
「……そういう意味じゃないよ。……どんな生き方にも、それなりの戦いがある。その戦いの中で、精一杯、……自分のできることをしたらいいんじゃないか?」
「…………」
「戦争に出るとか、軍に入るとか、抗議集会に出るとか……そんな大げさなことじゃないんだ、……ただ、その日その日を、頑張って、優しい気持ちで生きていけたら」
「…………」
「そういうのって、少しずづつだけど伝わるもんだろ?みんなが優しい世の中になれば、世界は、いい方に……変わっていけるんじゃないかと思う」
いくら最新兵器が開発され、軍備が果てしなく強化されても、人類創生以来この地上から一度もなくなったことがない――戦争という名の殺し合いを無くすのは、究極的には、それしかないのだから。
何百年もかかりそうですね。
と、滝沢は笑うような声で言い、いや、何千年かもな、と獅堂も笑い、そして言った。
「……多分、嵐もそう言いたかったんじゃないかと思うよ」
五
「鷹宮……」
そう言ったきり、椎名には次に言うべき言葉が見つからなくなった。
医療機器に囲まれたベットに、かつての盟友は仰臥したまま、静かな表情で眼を閉じていた。
絶え間ない電子音と、幾筋もの点滴の管。薄い肌を通して、血管が透けて見えるほど、その頬は痩せている。
病の進行に伴うだるさと、極度の貧血。
実際、階段の上がり降りも、困難だったはずだ。それなのによく。
よく、あの海で、獅堂を――。
椎名は眼を閉じる。
鷹宮は骨髄性白血病だと診断されている。
その病名から導き出される決定的な結論を――椎名は、もう随分前から知らされていた。
「椎名さん…?」
鷹宮の眼が、うっすらと開く。
心配そうな気振りを見せてはいけない、椎名は無理に笑顔を作った。
「獅堂と、話せたか」
「……あの人の、目は」
苦しげに掠れた声。薬の副作用で、呼吸が難しいのだろう。
「大丈夫だよ、包帯が取れれば元通りだ」
「そうですか……」
鷹宮は安堵したように眼を閉じ、長い息を吐く。そしてようやく僅かに笑った。
「実際、今日ばかりは、見られていないことがありがたかったですけどね」
「…………」
そうだろう。
椎名は思う。この男の性格からして、病み疲れ、憔悴した姿を、絶対に獅堂には見せたくなかったはずだ。おそらく、声すら聞かれたくなかったに違いない。
それにしても、これほどまで悪い状態に陥った友人を見るのは初めてだった。
―――このまま……。
沸きあがる不安が、椎名の表情を強張らせていた。
このまま、二度と起きて来れないんじゃないか……?
「私は、まだ死にませんよ。椎名さん」
忙しい呼吸の中にも、はっきりした言葉だった。椎名ははっと、息を呑む。
「今、私の身体というステージを借りて、病気と命が戦っているんです。この戦いに、私は勝つつもりですよ」
「鷹宮……」
椎名は言葉を失った。
鷹宮は微笑している。
それは、病を発症してから、初めて目にするような、安らいだ笑顔だった。
「もう一度獅堂さんを抱かなきゃ、男として、死んでも死に切れませんからねぇ」
「………は?」
お前らしいよ。
一瞬言葉を失った後、椎名は笑った。もう一度、というのが理解できなかったが、そこは深く考えないことにした。
「ついに、獅堂と……そうなる決心がついたってわけか」
―――これで、本当に、獅堂も鷹宮も、収まる所に収まったってことだな。
どこか寂しいような、苦い思いで、椎名はそう思った。
鷹宮は、ずっと獅堂だけを見つめ続けていた。松島基地で出会った時から――どれだけ待ち続けたのだろう。どれだけ、無償の愛を注ぎつづけていたのだろう。
そして、おそらく獅堂も。
「獅堂は、きっとお前が好きだよ」
椎名は言った。鷹宮は唇の端で薄く笑う。
「知ってます」
「こいつ……」
椎名は苦笑した。
「獅堂は意固地な奴だから、お前をすがって、頼ってしまう自分が嫌だったんだろう。だから逆に、お前を支えるのは自分しかいないと判った時に、」
本当に素直になれた。素直に鷹宮を受け入れる気持ちになったのだろう。そんな気がする。
「ただ……」
椎名の胸に、ふと暗い影がよぎった。
「獅堂に……耐えられるかな、お前の、重さが」
まだ、子供のように無邪気なところがある女に。
死を、常に見つめながら、やがて来る永遠の別れを知りながら、――愛するということに。
「……あの人は、あなたや私が思うより、ずっと大人になっていますよ」
鷹宮は静かに言った。
「私が死んでも、あの人は、きっと未来へ命を繋いでくれる。昔とは違う、椎名さん、今の獅堂さんは――」
「………」
そこで初めて、鷹宮の顔が薄っすらと翳った。
その表情に戸惑い、椎名もわずかに眉をひそめる。
―――鷹宮……?
鷹宮は苦笑し、そして遠くを見るような眼になった。
「……皮肉なものですね、今の獅堂さんなら、きっと楓君と生きていける……。そんな気がしたものですから」