二


 規則正しく、絶え間なく、命を刻んで落ちて行く音。
「…………」
 鷹宮篤志は目を開けた。
 仄かな照明が室内を淡く照らし出している。白い天井の壁際に添って、すっかり馴染んでしまった医療機器の管が目に入る。
 ベットに横臥したままの自分の身体から、無数のチューブが延びている。腕、手首、鼻腔――絡め取られて、身動きすらできない。
 薄黄色の雫が、ゆっくりと管を伝って体の中に流れ込んでくる。 聞こえるはずのない音が、研ぎ澄まされた聴覚に響いてくるような気がした。
―――命を繋ぐ、音か。
 不思議な安堵感が、ゆったりと五感を充たしていた。
―――生きている。 
 鷹宮は目を閉じた。
 少し息苦しく、上手く呼吸することが難しかった。それでも、深く息を吸い、鷹宮は微笑した。
―――生きているのか……。
「鷹宮君」
 呼びかける声がした。
 鷹宮は、視線だけ動かして、声の主を確認する。
 枕元には、モスグリーンの無菌服とマスクをした男が立っていた。
 殆んど顔全体を覆っているマスクから除いた目に――静かで、そして確かな慈愛を感じる。
 鷹宮はその人の名を呼ぶことも忘れ、しばらく無言で見つめ続けていた。
 看護士がそっと近寄り、鷹宮の鼻腔と、そして口を覆っていた透明なマスクを外してくれる。
「青桐……長官」
 鷹宮は、やっとそれだけを呟いた。
「昔の職名はやめたまえ、心臓に悪い」
 男はわずかに苦笑する。
 今は、国連事務局の参事を勤めている、元防衛庁長官、青桐要。
 一年前、被爆した鷹宮はパイロットの資格を失った。
 辞表まで出した鷹宮を、航空幕僚監部調査部に事務職として復帰されてくれたのは、ここにいる男だった。
「九死に一生を得た割には、意外と元気そうじゃないか」
 青桐はそう言い、長官時代より柔和になった目を細める。
 胸に沁みるような優しい口調だった。
 今では、鷹宮も、男と自分の奇妙な縁を知っている。
 右京潤一郎、そして青桐要、亡くなった鷹宮の父、その三人は、同じ郷里の同窓生だったらしい。
 鷹宮は笑おうとした。
 しかしせり上げて来る胸苦しさが、それを許してはくれなかった。 青桐は静かに歩み寄り、顔を鷹宮の耳元に寄せてくれた。
「話は、全て奏さんに聞いた。獅堂を救いに、君らしくもない、無茶なことをしたらしいな」
「………」
「君が許せないと思っていた父親と……」
 その口調が、少しだけ寂しげになる。
「君は、同じ死に方をするつもりだったのかね」
 鷹宮はそれには答えず、遠い眼を天井の淡い陰りに向けた。
 あの瞬間。
 私は、―――そして、父は。
「鷹宮君、君の求めている答えは、きっと、どこにもないんじゃないかな」
 ふっと息を吐き、青桐は鷹宮から身体を離し、立ち上がった。
「……死んだ君のお父さんが、何を思い、何を決意して激流に飛び込んだのか。それは、誰にも判らないことだよ、永遠にね」
「ひとつ、わかったことが、ありますよ」
 掠れた声で、鷹宮は呟いた。
「私の父は、自殺したんじゃない……」
 獅堂を抱いて、死の海へ泳ぎ出した時。
―――助けたい、それだけしかなかった。
 二次被害とか、生存率の可能性とか、そんな計算の全てはふっとんでいた、助けたい、死なせたくない、その――純粋に昇華された思いしか、そこにはなかった。
 それだけが、凍てついた海で、病んだ体を動かし続けた。
 そして、ようやく垣間見たような気がした。長い、余りにも長い間、探し続けていたものの、その答えを。
 増水した川に、僚友の子供の命を救うため、飛びこんだ父の真意を。
 死にたいなどと、思う間もなかっただろう。
 レスキューとしての職業意識ではなく。
 ただ、人としての。
「あいつが、炎の中で君の命だけを選択したことが、」
 青桐は、静かに口を開いた。
「それが職業意識とはかけ離れたものだったかどうかは、今となっては、もう推測する他ない。全てを胸に抱いたまま、あいつは逝ってしまったのだから」
「……そうですね」
 鷹宮は頷く。不思議なくらい静かな、そして素直な気持ちになっていた。
「奏さんを救おうとした時、あいつは火事で亡くした自分の子供の影を見ていたのかもしれない。……そうは、思わないかね」
「贖罪……ですか」
「何の罪をあがなおうとしたのか……いや、それこそもう、推測するしかないのだが」
 肉親の情に負けてしまったことへの罪だったのか。
 それとも、親として、救いきれなかった命に対しての。
 鷹宮は眼を閉じた。
―――父は……。
 後悔しなかった日はなかったろう。それが例え純粋な職業意識から導かれた結論であったとしても。
 まがりなりにも、自分だけを頼りに見上げる幼子の命を切り捨てた。癒される日などなかったろう。あの日から。 
「いい加減に自分を解放してやれ、鷹宮君。君は生きている。今、この瞬間、亡くなられたご家族の命を繋いで、生きている」
「………」
「そして、奏さんも生きている……君の、お父さんの命をついで」
 鷹宮は無言で、オデッセイで初めて対面した時の――右京の表情を思い浮かべていた。
 母方の苗字に変ってしまったから、実際、顔を見て初めて気が付いたのだろう。
 このことで、直接何かを話したわけではない。ただ、暗黙のうちに、互いの胸の内は理解しあえていたように思う。
「君も奏さんも、誰かの犠牲の上に生きている。その強烈な罪悪感が、君たちに――無意識に死に場所を探させていたのかもしれない」
「…………」
「潤一郎は、だから君と奏さんを、邂逅させたのだと思う。生きること、それは罪であると同時に贖罪だということを……死に場所を求めながら生きている、君たち二人に自覚させるために」
「…………」
「奏さんは、もうそれを知っている。……あとは、君次第じゃないかな」


                   三


「自分は、ここで待ってるよ」
 背後から、車椅子を押してここまでついて来てくれた椎名の声がした。
 獅堂は、見えない目でぎこちなく振り返った。
「鷹宮の病室はここだ。余り長い時間は話せないだろうし、終わるまで外にいてやるよ」
「そんな……別に」
「遠慮すんな、今のお前は、一人じゃ何もできないだろ」
 そう言って笑う椎名の声に、無理につくったぎこちなさがあった。
―――鷹宮さんは……。
 聞こうとして、獅堂は重苦しく口をつぐんだ。
―――悪いのか、そんなに。
 胸の中に、重苦しいしこりが膨らんでいく。
 再び車椅子が押され、目の前で、空気の抜けるような音がした。
 明かに今までと異質な空気が肌に触れる。等間隔で刻まれる電子機器の音。冷ややかな薬品の匂い。
 動いていた車椅子が止まり、背後の椎名が歩きだす。スリッパの音がする。
「鷹宮……、鷹宮、話せるか」
 椎名の、囁くような声が聞こえる。
 鷹宮の返事を、獅堂は焦れるような思いで、待っていた。
「獅堂を連れてきてやった、少しなら話せるか、いいよ、そのままの姿勢でいい」
 わずかに衣擦れの音がする、が、鷹宮の返事はないままだった。
 さらに車椅子を押され、獅堂の膝が柔らかなものに触れた。
―――ベットかな、と思った。
 気配で、鷹宮がそこに横たわっているのだと判る。
 椎名の足音が遠ざかり、部屋を去っていくのがわかった。背後で、扉が閉まる音がする。
「…………」
 息を吐く音、そして吸う音。
 電子機器の単調なリズム。それが感じることができるものの全てだった。
「鷹宮さん……」
 視線を定める事ができないまま、獅堂は小さく呟いた。
 あの死の海で、自分を抱いて守ってくれた人。命を賭して支え続けてくれた人。
 あの時の腕の確かさ、抱き寄せられた胸の温かさが、今も身体中に残っている。
 何も見えない。けれど、確かに鷹宮が笑ったような気がした。
「あなたに、触れたい……」
 獅堂は呟いた。
 触れたい、そして、確かに生きているという証を感じたい。
 二人が、あの死線を越えて、確かに今生きているという実感を。
 ゆっくりと探るように、獅堂は闇に向かって手を伸ばした。
 その手を、大きな手に捕らえられる。
「………」
 暖かかった。
 大きくて暖かな、男の手のぬくもりが、触れ合う手から、指先から、身体の隅々まで染み渡っていくようだった。
「鷹宮さん……」
 もう片方の手が、獅堂の頬に触れ、指が鼻筋をなぞって、唇に落ちる。滑らかで、少しだけ冷たい指先。わずかに、鷹宮の匂いがした。
 死ぬのか。
 唐突に、針に穿たれたような傷みが、胸に刺さった。
 死ぬのか、この人は、このまま――死んでしまうのか。
「鷹宮さん、」
 獅堂は鷹宮の手に自分の手を重ね、そのまま強く引き寄せた。
「……死なないで……」
―――楓の手を、
 こうして握り締めていたあいつの手を、自分は、あの時、離してしまった。
 もう、誰かの手を離したりはしない――二度と、絶対に。
「どこにも……行かないで……」
 頭の後ろに手を当てられて、そのまま獅堂は引き寄せられた。
 冷たい肌と、柔らかな髪が頬に触れる。
「……行きませんよ」
 耳元で、囁くような声がした。深みのある低音、穏やかで、優しい響きを含んだ声。
「どこへも行かない。だから安心して、あなたはあなたの空へ」
 優しく、そして何度も髪を撫でられる。
「帰ってください」
 一言一言、噛みしめるような口調だった。
 少しだけ、耳元の呼吸が乱れていた。話すのが――まだ、辛いのかもしれない。
 獅堂は頷く。頷いて、目を閉じ、鷹宮の手を力強く握り締める。
「離れていても、一緒ですから」
「…………」
「これからは、色んなことを……少しずつだけど、一緒に考えて、悩んで……背負っていきましょう、もう、一人じゃないですから」
「なんだかプロポーズされているみたいですね」
 少し笑いを含んだような声。
 獅堂は初めて微笑し、そのまま抱きしめる鷹宮の腕に、身を任せた。
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