獅堂は眠り続けていた。
 夜の闇なのか、死の闇なのか。その区別もつかないまま。
――藍……
 誰かが、自分を呼んでいる。
 この声……。
 獅堂は眼を開けようとした。しかし、重たくふさがれた瞼は、どうしても動かない。
――藍。
 額に触れる冷たい肌の感触。髪を梳き、絡めとる優しい指。
 楓。
 獅堂は呟いた。
 実際、それが言葉だったのか、思念なのか、わからなかった。
 楓、お前なのか。
――俺だよ。
 本当にお前なのか。
――相変わらず莫迦な女だな、何やってんだ、海水浴には早すぎるだろ。
 自分……死んだのか。
 微かに笑う気配がした。
――ばーか、悪運だけは強いんだろ、お前みたいな女は、そう簡単に死んだりしないよ。
 冷たい指が……頬をなで、そして、離れる。
――お前の手を、待ってる人がいるよ。
 楓……。
――もうちょっと、見てたかったけど、もういいよ……さよなら。
 楓。
――幸せにな、獅堂さん。
 夢だ、これは。
 獅堂は思った。自分はまだ夢を見ている。長い夢だった。
 そして、目が覚めたら。






act6 救済



                一


「獅堂さん……」
「獅堂」
 水面の向こうから呼ばれるような、ひどく緩慢で、遠い声。
 獅堂は、ゆっくりと、自分の意識が覚醒していくのを感じていた。
―――ここは…どこだ?
 そして、自分は。
「生きて……るのか、」
 唇が自然に動いた。自分の声が耳に響くのが不思議だった。
 真っ暗な視界。眼は、開かない。
 何か重いもので塞がれている。
 剥き出しの腕に触れる、さらさらとしたシーツの感触。この独特の――薬の染みた病の香り。
―――ここ……病院か。
「獅堂さんっ」
 いきなり肩を激しい勢いで揺さぶられる。
 ぎょっとして、獅堂は慌てて逃げようとした。
「こらっ滝沢、獅堂がびっくりするだろうが」
 椎名の声だ。
 獅堂は弾かれたように声の方へ顔を向ける。
「獅堂、まったく、お前って奴は……」
 椎名の声が潤んでいる。
「どこまで、人を心配させれば気がすむんだ。馬鹿野郎!!」
「獅堂さん、この何日か眠りっぱなしだったんですよ」
 滝沢も、泣きそうな声になっている。
「俺、獅堂さんの身になんかあったらどうしようかって、もう……」
「そんなに……寝てたのか、自分……?」
 獅堂は呟いた。
 信じられない。そんなに時間がたったなんて――感覚的には、ついさっきまで海中に沈んでいたような気がするのに。
 何が起こったんだ?
 一気に色んなことが押し寄せて、頭がただ、混乱している。
 獅堂はそっと、自分の眼のあたりに手を当てた。
 触れるのは幾重にも固く巻きつけられた包帯の感触だけ。
 それで――ようやく理解した。
 あの戦いと氷の海で死にかけたことは、夢ではなく現実だったのだと。
 そして……。
 あの懐かしい声と指の冷たさは、現実ではなく夢だったのだと。
(――――さよなら、獅堂さん……。)
「…………」
「獅堂、眼のことは心配いらない。オイルが眼に入って、一時的に眼が開かなくなってたらしい。楽観はできないが、失明の心配はないと言われた」
「……そうっすか」
 我にかえった獅堂は、ほっと息を吐き、肩の力を抜いた。
 失明の不安を感じる暇もなかったが、パイロットは廃業だろうな、とは、さすがに思っていた。視力が戻れば正直、嬉しい。まだ――まだ、空を捨てたくはない。
「ここ……どこの病院ですか」
「ああ……っとな」
 言葉を詰まらせた椎名が、一瞬躊躇する気配があった。
「……病院というよりな、聞いて驚くな。ここは――日本じゃない」
「NAVIのメディカルセンター。つまりスイスです。ジュネーブなんですよ、僕たちがいるのは」
 滝沢が後を続ける。
「……すっ、スイス?」
 思わず顔を上げ、素っ頓狂な声がでていた。
「な、なんだって、そんなとこに」
 オホーツク海で遭難して、どこをどう辿ったらスイスに行き着くんだ?
 起き上がろうとする、即座に、背中にひどい激痛が走った。
「っいてて……っ」
「だから、まだ無理はいけませんって」
 滝沢がそう言い、すかさず肩を抱かれ、そのままベットに押し付けられる。
 それがまた乱暴で、余計に背中が痛かった。
「あの時のこと、少しは覚えてるか」
 椎名の言葉に、獅堂は僅かに顎を引いて頷いた。
「お前と鷹宮を偶然発見し、なおかつ救助したのが、偶然現場に迷い込んできたNAVIの航空機だったんだ」
 どこか、苦いものを含んだような口調だった。
「あの荒れた海で、どうやってお前ら2人を無事に引き上げたのか、全くもって恐れ入る話だがな。今じゃ、お前の命の恩人が、レオ様ってわけだ」
「で、オデッセイには何も連絡しないまま、獅堂さんと鷹宮さん、NAVIの本拠地まで運ばれちゃったわけですよ」
 後からそれ知って、右京さんが怒ったのなんのって。
 滝沢の声は、それでもどこか、この状況を楽しんでいるように聞こえた。
 それより。
 獅堂は、覚醒した瞬間から気になって、それでも口に出来なかったことを――聞いた。
「……鷹宮さん、は」
 返事はない。
 獅堂は唾を飲み込んだ。
 心のどこかで、もう覚悟は出来ていた。
「椎名さん、……鷹宮さんは、」
「鷹宮さんなら、別の病室ですよ」
―――この声……?
 椎名でもない、滝沢でもない男の声。
 日本人にしては癖のある、が、外国人にしては流暢な日本語。
 獅堂は声のする方に顔を向けた。
「会いに行きますか、獅堂さん。少しの間なら、面会を許可しても構いませんよ」
「レオ……ナルド……会長」
 実際に会うのは、何年も前、楓の部屋で会ったあの日以来はじめてだ。
 あの時も、今も、この男が、自分に微妙な敵意を抱いているのは知ってる。
 獅堂は、わずかに緊張した。
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