七
「現場海域の状況は、まだ、何も掴めないのか」
右京の声を聞きながら、降矢は無言で、眉を寄せたまま唇を噛んでいた。
オデッセイの特務室。
未だ閉ざされた回線は復旧していない。
出撃した要撃戦闘機各チームの状況、そして現場で消息を絶った椎名、獅堂、滝沢の生死は、以前オデッセイには届いていなかった。
降矢は考え続けていた。
何故、青い光なのか?赤い光ではなく。
人為的なイリュージョン。それはレオナルド会長が言った言葉だ。
罠……なのか?
何のために?
フューチャーをおびき出すために?
「EUR……か」
思わず低く呟いていた。
今回の黒幕も、間違いなくそれ絡みだろう。――数年前、開発途中のフューチャーの情報を得ようと、無謀な攻撃を仕掛けてきた時のように。
あの事件の顛末は国防機密の中でも最大のトップシークレット扱いになっており、降矢でさえ詳細は知らされていない。が、ヨーロッパ連合が噛んでいたことだけは間違いないとされている。
―――それにしても、何故、今になって……。
降矢は、さらにきつく眉を寄せる。こんな戦闘をしかけてくる、EURの真意が掴めない。
―――我々と、今ここで開戦することに、一体何の意味があるというんだ……?
「右京室長、千歳基地の管制官から、連絡が」
スピーカーを通して響く、オペレーターの声。
「また侵犯機でも取り逃がしたか」
軽い舌打を漏らしながら、降矢は顔を上げてそう言った。
いえ、オペレーターが、即座に否定の声をあげる。
「NAVIの探索機が、管制官の制止を無視して、現場海域に突入したようです。どうしましょう」
「なんだと?」
降矢は立ち上がり、苛立つ思いを、握り締めたチェアにぶつけた。
「放っておけ、どうせ抗議しても理詰めで言い逃れる連中だ。危険な場所だという認識くらいはあるだろう」
そっけない声でそう言ったのは右京だった。
「しかし、」
言いかけた降矢は言葉を止めた。
初めて――妙だな、と気づいていた。
振り返って指揮官の横顔を見た時、この女もまた――同じ疑念を持っていると、降矢はようやく確信していた。
八
身体ごと、すくいあげるようにして抱きしめてくれる力強い腕。
まるで夢のようなその感覚が、束の間、獅堂の意識を覚醒させた。
切れるような冷たさを伴って、波が頬を叩きつける。知覚があるのはそこだけで、もう首から下の肉体を意識することはできなかった。
―――まだ……
生きている。
獅堂は朦朧としながら、自分の置かれた状況を反芻した。
―――まだ、自分は……死んでないのか。
「鷹宮……さん」
獅堂は呟いた。
聞かなくても、判る。見えなくても、判る。
これは夢ではなく、現実だ。
鷹宮だ。
鷹宮が自分を抱き、支えて、この波から守ろうとしてくれている。
「獅堂さん、しっかり」
耳元で響く懐かしい声。
―――懐かしいなんて、笑えるな。
獅堂は思わず苦笑する。別れたのは、一時間にも満たない前だというのに。
「すぐに救助が来ます。それまで、私につかまっていてください」
首だけをかろうじて動かし、獅堂は頷いた。
両腕の感覚はもうなかった。下半身は痺れ、こうやって生きて、海面に浮いていることさえ現実ではないようだった。
視覚は以前戻らない。
確かな生の証は、触れるほど近くにある冷たい頬と、そして凍える息遣いだけ。
「駄目だ……鷹宮さん……」
鷹宮の腕が、片手で獅堂を抱き、もう片腕で氷が張った海面をかき分けているのが判る。
薄氷が弾ける音。頬に当る息遣いが、荒く、冷たくなっていく。
「た、鷹宮さんの……身体が……」
獅堂は、きれぎれの声で、それだけを言った。
どうして、今、鷹宮がここにいるのだろう。ようやくそのことに思い至る。
駄目だ。鷹宮は今、普通の身体ではないのだから。が、腕を振り解きたくても、もうそれだけの力がない。それでも獅堂は、身体を引き離そうと抗った。
「……離し……て」
「人のことを心配している場合ですか!」
鷹宮の、腕の動きが、忙しくなる。
その時ようやく、獅堂の下半身が、海中で硬い異物に触れた。
氷をかき分ける音、砕ける音。不安定だった体勢が、少しだけ楽になる。
ぐっと身体が押し上げられ、鷹宮が、下から抱きかかえるようにして、自分の身体を支えてくれているのがわかる。
「今、浮遊物を確保しました。大丈夫、これで沈む心配はなくなりましたよ」
獅堂はようやく気がついた。今まで自分が支えにしていたものは、とっくに手元からなくなっていたのだ。意識を失い、沈みかけていた所を――鷹宮に救われたのだと。
「後は、救助が来るのを待ちましょう」
鷹宮の声が、かじかんでいる。
駄目だ……。
鷹宮さんは、死んじゃ、いけない…。
「自分が……」
獅堂は、自分を抱く肩に顔を預けて呟いた。
暖かかった。実際、二人の体温は尽き掛けていた。にもかからわず、鷹宮の体温が伝わってくる気がした。
「自分が、あなたの、傍にいますから……」
夢かもしれない。獅堂は思った。思いながら、うわごとのように呟き続けた。これは――もう、幻覚なのかもしれない。
「……これはらは、ずっと……自分が…」
「獅堂さん」
この声は、本当に鷹宮の声なのだろうか。
「判ったんす、……支えるとか、支えないとかじゃなくて……一緒に……笑って」
「…………」
「感じて、泣いて、喜んで、怒って、……はは……自分、弱いから、誰かを支えたり助けたりなんて、無理なんだけど」
「…………」
「……本当は、……それだけでよかったんだって……好きな人と一緒に……色んな事、感じるだけで……生きてるだけで……人は……」
「獅堂さん、」
「救われるんです……よね、鷹宮さん」
「…………」
「だから、生きて……ください、こんなとこで、あなたまで、巻き添えにしたくない」
「そういうことは」
鷹宮の、苦笑する気配がする。
「そういうことは、無事に戻ってから言ってください」
「だから」
もう、声が出ない。
「だから……鷹宮さん、だけでも」
「しっかりしてください!」
叱咤するように、一瞬強く身体を揺すられる。
「私一人だけ助かって、あなたがどうやって私を救ってくれるんですか!私は死なない、あなたも死なせない、二人で生きて、オデッセイに戻るんですよ」
そうですね。
獅堂は笑った。実際には、唇が動かなかった。
「それだけ喋れれば上等です。大丈夫、助かります」
獅堂は頷く。
力強く、頼もしい声。助かる、そうだ、自分は、助かる。そして…
―――藍……。
誰の声だったのだろう。
すこしハスキーな低音。冷たくて優しい声。世界で一番愛しい声。
―――藍。
自分を呼ぶ時の、少しくせのある響き。
その声に、誰かの穏やかな声が被さる。
ふいに、唇に、冷たくて、そして暖かなものが押し当てられる。
夢なのか、現実なのか、その区別のつかないまま、獅堂はその口づけを受け入れていた。
「獅堂さん……」
呟くような、囁くような――鷹宮の声がする。
そして、また、唇が触れる。
触れる度に、感覚がそこだけ蘇り、離れれば、消えていく。
「……鷹宮、さん」
獅堂は呟いた。
そうだ、これは、夢なんだ。
楓が去ったあの日から、別れた、最後の幸せな朝の情景から。
暖かなコーヒーの香り、温もりの残ったベット、キーボードを叩く音。
自分は、ずっと、――長い夢を見続けてきたんだ………。
十
「獅堂さん!」
鷹宮は、反応のなくなった獅堂の身体を力いっぱい揺さぶった。
もう、限界ぎりぎりの所で、かろうじて意識を保っていたのは判っていた。
それでも、体温が急速になくなっていくこの凍えた海の中で、眠ってしまうのは、確実な死を意味している。
「獅堂さん、駄目だ、起きてくれ、獅堂さん!」
口づけを繰り返すことで、獅堂の意識を覚醒させようと、鷹宮は何度も口づけた。かじかんだ唇、凍りついた舌で、何度も同じことを繰り返した。
獅堂の唇が、最後に何か呟いた。声は、耳に届かなかった。けれど動きだけで、それが自分の名前だったような気がした。
「獅堂さん――」
もう、動かない。
「獅堂!」
鷹宮は慟哭し、凍え固まったその身体を抱きしめる。
けれど激情に駆られたのは一瞬で、すぐに冷静に、獅堂の状態を分析するため、仰向けにして、その顔を観察した。
まるで微笑でも浮かべているような、穏やかな寝顔だった。
「…………」
鷹宮は目を細めた。
この人は、夢を見ているのかもしれない。そう思った。
夢で、この人は誰と邂逅しているのだろう。誰が、この人をこんなに穏やかに逝かせようとしているのだろう……。
獅堂の閉じられた睫に、眉に、薄氷が張っている。
黒髪が頬に張り付き、凍っている。
鷹宮は、指先でそれを払った。獅堂のこめかみが、わずかに痙攣にも似た反応を示す。
―――まだ、生きている。
まだ……。
逝かせない、どこへも。
鷹宮は、素早く周辺を確認した。
頭の中で、冷徹なレスキューマンとしての計算が始まる。
生存できるわずかな可能性を求めて、これからとるべき道を模索する。
元の場所からは大分流されてしまったが、ディスカバリーは、まだ、近くの空域にいるはずだ。
上空で繰り広げられていた空中戦は終結した。この静けさが、何よりそれを示している。
おそらく松永は、再び獅堂の探索を開始しているだろう。そして――予備の救援機で、消息を絶った自分を。
救難機、ディスカバリーが飛び去った直後、現場に到着した鷹宮の眼に入ったのは、すでに支えを失い、波に流されている獅堂の姿だった。
迷いはなかった。
鷹宮は、救援機を海上十メートルのポイントでホバリングさせ、ライフジャケットのストッパーを外して命綱を腰に装着した。
海中にダイブして、直接獅堂を救出する。もう、それしか方法はない。
敵機が再び急接近してきたのはその時だった。
照準は、鷹宮の救援機。操縦桿を握り、回避すれば、獅堂を見失ってしまう。
「っ……」
鷹宮は腰に装着したロックを外し、単独で飛び降りた。
予想以上に波は荒く、零下の水温は刺さるほどの痛みを伴った。どうやって獅堂の身体を捕らえたのか――気がつけば、自分の身体も獅堂ごと波に呑まれ、流されていた。
この人だけは、私が助ける。
その思いだけが、ただ、鷹宮を支えていた。
―――獅堂が、このまま海中で生存でき得る時間は……。
鷹宮は冷静に分析する。――おそらく、あと5分足らず。5分以内なら、蘇生の可能性がある。
自分たちの居る位置――鷹宮は舌打した。流氷が、邪魔をしている。この位置では、上空から見つけることは難しいだろう。
移動しなければ――
鷹宮は周辺を再度、見回す。
鷹宮の目に、周囲の氷を溶かしながら、白煙を上げている、フューチャーの残骸が目に映った。
その背後には流氷の壁。
あそこまで、泳いだとしても――。
助かる保証はまるでない。しかし、空からは確実に目標となる事故現場、そこで救助を待つのが、今の状態では、一番可能性のある方法だった。
そのポイントまでの距離と、獅堂を支えて泳ぐ自分の体力。水温の低さ。鷹宮は一瞬の内に、計算し、答えを出す。
そして、残酷な答えはすぐに出る。
―――もし……。
もし、このまま動かずに、ここにいて救助を待てば、鷹宮の体力ならば、あと三十分くらいは生きていられる。
その程度の時間があれば、ディスカバリーが自分たちを発見してくれるだろう。しかし、獅堂は確実に死ぬ。
より発見されやすいポイントに異動すれば、2人揃って助かるかもしれない。けれど、それはせいぜい十パーセントの可能性しかない。
そして、何より肝心なことは、この凍てつく海を獅堂を抱いたまま泳ぎきる体力が―――。
もう、今の自分にはないと、言うことだ。
「…………」
鷹宮は、苦い思いで目を閉じた。
たどり着く前に、力尽きるかもしれない。そうなれば、自分もろとも、確実に獅堂も死ぬ。ここで救助を待てば、より多い可能性で、自分だけは助かるだろう。
でも。
実際、一秒も迷いはなかった。あったとすれば、それは目標地点までの最短距離を再確認していたということだけだった。
絶対に、
鷹宮は、獅堂を抱いたまま、氷の海へと泳ぎだした。
絶対に、死なせない。