五
　

　ロープは、風と波に面白い様に弄ばれていた。
「くそっ……」
　松永は何度目かの舌打をする。
　放り投げては、引き上げる。一体何度、焦れる様なこの単純作業を繰り返しただろう。
「頼む、獅堂リーダー……」
　かじかむ唇でそう呟き、ディスカバリーの底部ハッチから殆ど限界まで半身を乗り出して、救援ロープを投げ続ける。
　海面までは、およそ10メートル。これ以上救難機で荒れた海に接近することは不可能だった。　
　ぎりぎりまで接近した状態でホバリングし、底部ハッチから、救命浮輪を先端につけたロープを投げる。
　できることは、それしかなかった。
「獅堂さん、頼む、浮輪に気づいてくれ」
　松永はうめいた。
　獅堂は、荒れ狂う波に晒されながら、殆ど奇跡的に潮に流されず、海上に浮いた状態でとどまっている。
　爆発し、粉砕されたフューチャーの翼部分に、その身を預けるようにして。
　さらにその翼は、巨大な流氷の間に挟まれた状態で、時折波を被りながらも、それでもバランスを保ち続けている。　
　意識は、まだあるように見えた。腕と、そして上半身全体を使って、自分の命を支える翼に、必死でしがみついているようだった。
「獅堂さん！！」
　松永は怒鳴った。しかし、声は風にさらわれる。
　時折獅堂の顔があがり、周囲を振返るようにも見えたが、頭上のディスカバリーには、一向に気づく気配がない。
―――やはり、見えて、いないのか。
　暗然たる思いで松永は眉をひそめた。
　音は聞こえるだろう、時折真上に眼を向けるのがその証拠だ。
　頭上に、何かがあるのはおそらく獅堂も察している。しかし、それが何なのかわからない、そんな感じだ。
　事故のショックで目をやられたのかもしれない。どの程度の怪我はわからないが、――パイロットにとっては、命よりも大切な視覚。
―――もし、
　もし、生きて、救出できたとしても……。
　苦い思いが、松永の胸にうずく。
　最初はロバートが、命綱を腰に巻き、ロープを使って海面に降りる予定だった。が、すぐにそれは無理だと判断せざるを得なかった。
　余りにも強すぎる波と風。危険すぎた。ロバートまで遭難する可能性が出てくる。
　松永は苦渋の決断をした。浮輪を繋いだロープを、獅堂が気づくまで投げ続けるのだ。
　それを獅堂に取らせ、引き上げる。それしかなかった。
　しかし獅堂は、いまだに手元に向かって投げ続けられる浮輪に気づかない。硬い浮輪は、何度も獅堂の肩、手に当たっては滑り落ちた。しかし、獅堂の反応はない。おそらく……凍りつく海水の冷たさに、感覚が麻痺しているのだろう。
　松永は辛抱強く、投げたロープを引き上げ、そしてまた投げ続けた。手は寒さにかじかみ、吹き付ける海水が眼に染みた。
「松永リーダー、後方上空、敵機、接近中」
　殆んど怒鳴るような、ロバートの声が背後で弾けたのはその時だった。
「なんだと？」
　松雄は振り返る。ハッチから顔を覗かせたロバートは、すでに顔面を青白くさせていた。
「とにかく、上へ来てくだサイ！」
　獅堂の位置を確認し、松永は焦燥を噛み締めつつ、引き上げられたロープに身を身を任せて機内に戻る。
　コクピット、すでにディスプレイに向かっていたロバートは、食い入るように、画面上を踊るシンボルマークを見つめていた。
「どういうことだ」
　焦れた松永がそう聞いた時だった。
『松永！敵の照準は、ディスカバリーだ、すぐにその場を離脱しろ！』
　ヘッドフォン越しに、鷹宮の厳しい声が飛んだ。
「鷹宮さん？」
『急げ、ロックオンされたら、ディスカバリーでは逃げ切れない』
　鷹宮さんは何処にいるんだ？
　咄嗟に松永はそう思っていた。
　理由はない、しかし、鷹宮はもう、スカイキャリアにはいない気がした。
　どちらにしても、迷っている暇はなかった。松永は操縦席に戻り、操縦桿を握った。
「ロバート、推進システム出力最大、五秒以内に現ポイントを離脱する」
「でも、それジャ、獅堂さんは、」
「急げ、この場で被弾したら、海上にいる獅堂リーダーも無傷じゃすまない」
　緊急発進システムが稼動したため、底部ハッチが急速に締まっていく。振り返った松永の視界から、波に晒された獅堂の姿が消えていく。
―――獅堂リーダー……。
　松永はたまらず目を閉じた。
　ロバートはもう、何も言わない。
　ハッチが閉まり、ディスカバリーは急上昇に転じた。
　遠ざかる海面に向け、松永は静かに敬礼した。
　自分たちが離脱すること、それが獅堂の、確実な死を意味していることを――。
　今までの経験から、松永もロバートも知りぬいていた。

　
　　　　　　　　　　　　　　　　　六


　自分の頭上にいた何かが、再び浮上して去っていったことを獅堂はおぼろげに察していた。
　眼が、見えない。
　それが、これほどまでに人を無力にするとは思ってもみなかった。
―――まだ、生きてるのか……。
　獅堂は自身に自問した。
　それでも、まだ。
―――人の命って、しぶといよな。
　獅堂は苦笑する。しかし、唇は凍りついて動かなかった。
　目の前で、墜落してきた敵機が爆発した時、オイルのような熱い液体が顔に降りかかった。眼をやられたのはその時だ。
　衝撃で身体が浮き上がり、そして再び獅堂は海面に叩きつけられた。全身の骨が砕けるような衝撃に、一瞬意識がふっとんでいた。
　気がつくと海中に沈んでいた。どれだけもがいただろう。何も見えない、呼吸もできない暗黒の闇の中、ただ、上へ、上へと上昇する。それだけしか考えられなかった。
　頭の中が、熱くなり、やがて白くなって、もう、駄目だと思った時、指先に何かが触れた。硬い――確かな浮遊物。砕けた機体の一部かもしれない。獅堂は必死にそれにしがみついた。もう、自力で泳ぐ体力が残っていないのは判っていた。そして……。
　そのまま、眼を閉じた。
　頭上に、救援機が到着しているのは判っていた。束の間の生への執着、しかし、全身は痺れ、かじかみ、暗黒の視野が自力でこの危機を切り抜ける可能性の全てを奪っていることを、否応なしに思い知らされるだけだった。
　そして、また一人、この場に取り残されている。
―――死ぬな、今度は。
　今はもう、痛みも苦しみも……何も感じない。
　ただ、眠かった。
―――疲れたよ、少しな……。
　もう随分長く、走り続けて来たような気がする。
　眠ろう、獅堂は思った。眠ろう、少しだけ。少しの間だけ。
　眼を覚ましたら。
　あいつが、起きていてコーヒーを淹れてくれる。
　煩げに髪をかきあげて、皮肉な微笑で、――絶対に素直に、おはようとは言わない唇。
　まだ寝てたのか、とか、いい加減に起きろよ、とか。
　そう言って、それから。だけど自分は、そういうお前が好きだから、
　だから、その唇に、キスするんだ……。
　楓。