三
 

 全身を刺すような鋭い痛みで、獅堂ははっと我に返った。
 塩辛いものが、舌先に染みている。
 覚醒した瞬間、口から、鼻から、容赦なく海水が流れ込み、咳き込んで獅堂はもがいた。
 バランスが崩れ、刹那に全身が水中に呑まれる。
 両腕で海水をかきわけ、足で、重たくまとわりつく水を蹴る。
 本能だった。今、自分が何処にいるのかも認識できないまま。生きるために、必死で海面へと浮上した。
 荒い波が、常に身体を不安定に揺らしている。獅堂は波にさらわれないよう、必死に泳いでバランスを保ち続けた。
―――自分は……どうして?
 今の現状が認識できない。混乱する頭で、記憶をたぐる。
 ああ、そうだ。自分は――。
 被弾したのだ。
 滝沢機に気を取られすぎて、背後の敵の存在を忘れていた。
 あの瞬間。
 いきなり閃光が走り、機体が凄まじい衝撃で軋んだ。キャノピー越しに、火柱を吹く右翼を見たのが最後だった。
――緊急離脱ト、したのか…
 それも全くの無意識だった。反射的にイジェクトボタンを押し、自動離脱したのだろう。
 そして――海面に叩きつけられるように落下した。
 おぼろげながら、真っ暗な海面が迫ってくる情景を記憶している。しかし、意識として残っている部分はそれだけだ。
 フライトス―ツのライフ・ジャケットは、一定の衝撃が加われば、エアバックのように空気圧が加わり、パイロットが受ける衝撃を緩和する仕組みになっていた。それが、今は救命胴衣の役割を果たしている。
―――寒いな……。
 吐く息は白く濁り、海水の冷たさは痛みすら伴った。動かす手先に、砕けた氷がざらざらと当る。
 すぐに、その感覚すらなくなる。
 凍りついた零下の海。見渡す限りの流氷の壁と暮れはじめた夜の闇は、方向感覚すら奪っていた。
 数十メートル後方に、一際大きな流氷があった。
 その壁に激突するような形で、ノーズを半分海中に沈めたまま、獅堂の愛機が炎と煙を巻き上げている。
 初めて背筋に恐怖という冷たさを感じた。
 イジェクトできなければ、あの炎の中で、確実に絶命していただろう。
 紙一重、髪の毛一筋の、生と死の境界。
 とにかく、自分は命を繋いだ。けれど滝沢は、そして、椎名は。
 焦燥で胸が熱くなる。こんなところで、のんびりと救助を待っている暇はない。
 見上げた空――暗い闇と重い雲に覆われた空に、光の点が乱舞していた。
―――椎名さん、滝沢、
 祈るような思いで、獅堂は眼を凝らした。
 光の点は、一つ、二つではなかった。入り乱れて、時折夜空を震わせるようなオレンジ色の閃光が煌いている。
 獅堂は、ようやく眼を見張った。
―――応援部隊だ。
 ようやく――来た。
 青雲、白虎が、オデッセイから到着したのだ。
 上空では、おそらく今、熾烈な空中戦が繰り広げられているのだろう。
―――相原、北條、大和……。
 戦闘ステージに初めて挑む僚友に、胸が痛むような思いが走る。
 しかし――いつかは乗り越えなければならない壁。これからの日本を、防衛していく道を行くのなら。
 数的優位を保てば、形成は間違いなく有利になるだろう。
―――椎名も、滝沢も、これで助かる……。
 急速に身体の力が抜けて行くのが判った。不思議だった。こんなに寒くて、歯の根も合わない程なのに、眠い。気だるさが、腕に、脚に、全身に淀んでいる。
 その時。
 唐突に激しく瞬いた光の玉が、夜目にもそれと判る激しい火柱を上げて急降下してきた。
 それが空中で被弾した敵機なのか、同僚機なのか、獅堂には判らない。
 みるみる降下の速度をあげ、荒れ狂う黒煙、たぎる炎、機体の形、そしてキャノピー越しに、パイロットの姿まで視認できる距離に近づく。
 どうしようもなかった。
 逃れることも、確実に迫る死を、認識する暇すらなかった。
 獅堂の目の前で、巨大な白い火花が弾けた。


                 四


「EXと、椎名リーダーのフューチャーXXを無事格納しました」
 格納庫に待機していた若い隊員の声に、鷹宮は前面スクリーンを凝視したままで、頷いた。
「椎名リーダーが負傷していますが、滝沢は無事です」
 鷹宮は無言で、前後左右に目まぐるしく動く、敵機と僚機を示すシンボルマークを見つめ続けていた。
 自衛隊が発足して以来初めての、大掛かりな対人空中戦は、ようやく終結を向かえようとしていた。
 相原、名波は、何度も決めるべきところで、ポイントを外した。ベテランパイロットである、真田、明見もぎこちない動きで、何度も敵の標的にさらされる危険を味わった。――それも仕方ないだろう。何しろ初めての戦闘ステージなのだから。
 しかし、圧倒的な数と、そしてチームワークの差が、すでに勝敗を決めつつあった。
「鷹宮、獅堂は!」
 コックピットと格納庫を遮る扉が開き、椎名の、掴みかかるような声がした。
 鷹宮は振返った。椎名と、その背後に肩を落とした滝沢の姿がある。
 椎名の額には血の滲んだ包帯が巻かれ、右腕は簡易ギブスで固定されていた。
―――実際……。
 鷹宮は、ただ無言で目を細めた。
 実際、よく無事で、生き延びたと思う。
 椎名の機体は被弾していた。その壊れかけた機体を操縦し、一人で四機を引き付け、応援機が到着するまでの時間をかせいだのだ。
 救難機二機に援護されながら、スカイキャリアに引き上げられてきたXX機は、まさに瀕死の有様だった。
「どうなんだ。獅堂は見つかったのか」
 椎名は、鷹宮の横に立ち、食い入るように画面をを見つめる。
 そのフライトスーツは、おそらく被弾時、ヒートした電子機器で黒く焼け焦げたのだろう、すすのような汚れで覆われている。
「まだです」
 鷹宮は短く言い、眉をひそめた。
 冷静を装っても、実際、焦燥で胸が痛いほどだった。
 まだ、海面を探索している救難機、ディスカバリーからは、何の連絡もない。
「海上は、波が、高いです……」
 背後で滝沢が呟いた。
「空からの救出は、難しいと思います。でも、絶対に獅堂さんは大丈夫だから」
 そう言った滝沢を、初めて鷹宮は、厳しい視線で振り返った。
「それは、楓君が獅堂さんを助けに来るからですか、滝沢君。あなたはそう信じていたから、あの危険な状況で、現場を離脱せずに留まっていたのでしょう」
「……それは、」
 胸を衝かれたような顔をして、滝沢は黙った。
「なんだと……?」
 愕然とした顔で、椎名が振り返り、まるで獣のような呻き声を上げる。
「滝沢……貴様、」
「椎名さん」
 その腕を、鷹宮は押さえた。
椎名の体からは、今にも殴りかかろうとする殺気が滲み出ている。殴らせてやりたいのはやまやまだったが、腕を骨折しているかもしれない男が取るべき行為ではなかった。
「俺は……」
 滝沢は、呟いてうなだれた。
 幼げな顔が、本当に子供のように、くしゃくしゃに歪んでいた。
「俺は、そんな、つもりじゃ……」
「あなたが、嵐君と楓君に、特別の思い入れがあるのは知っています」
 鷹宮は、自分も、胸に込み上げてくる――たぎるような怒りを抑えながら言った。
「でも」
 そのまま滝沢に歩み寄り、力任せに肩を掴んだ。
「獅堂は、そのための道具じゃない!」
「…………」
 滝沢は、力なく膝をつく。そして、顔を両手で覆って肩を震わせた。
 静まりかえったコックピットに、レーダーの不規則なノイズだけが響いていた。
「くそっ……」
 椎名が拳で、スクリーンパネルを叩きつけた。
 鷹宮にもその気持ちがよく判る。何もできないもどかしさ。こうして時間が過ぎていく間にも、獅堂の命は――生存する可能性は、刻一刻と失われ続けているのだから。
『鷹宮さん、獅堂リーダーを発見しました!』
 突然飛び込んできた松永の声。
 鷹宮と椎名は、同時にスクリーンに飛びついた。
「状況は」
『波が高く、これ以上海面に接近できません。現在、ロープを使ってロバートが救出作業を試みていますが』
「生きてるのか!」
 椎名が叫ぶ。
『救出は、非情に困難です。獅堂リーダーは……』
 松永の声が、暗いものを含んで、言い淀む。
『眼を、やられています。殆ど何も見えてないようなんです』
「…………」
 椎名が息を引き、鷹宮は、黙って眼を閉じた。
 獅堂さん――。
『現場上空では戦闘が激しく、非常に危険な状況です。鷹宮さん、フューチャー各機に、この場所から敵機を引き離すように指示してください』
「場所は?」
 松永の声が、ポイントを告げる。鷹宮はすぐに応戦中のフューチャー各機に指示を出した。
「松永、決して無理はするな。救出が危険だと判断したら、すぐに退避しろ」
 椎名が、振り返る気配がする。鷹宮はそれを無視して続けた。
「隊員に二次災害を出してはならない。それは、獅堂も本意ではないはずだ」
 そして、リップマイクを引き剥がした。
「鷹宮」
「椎名さん、後は頼みます。状況を見て、フューチャーに指示を」
「鷹宮、お前は」
「小型救難機を使います。椎名さん、止めても無駄ですよ」
 椎名の手が、鷹宮の腕を掴んだ。
 見交わす互いの眼に、暗い炎が宿っている。
「正気か」
「私は、レスキューとして、行くんじゃない」
 鷹宮はゆっくりと言い、その腕を振り解いた。
「あの人を助けます。絶対に死なせない」
―――絶対に。
 形良い背が消えていく。椎名は――それをただ、見送ることしかできなかった。
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