七


 考える間はなかった。
 敵機の速度は、マッハ0.87、高度七千フィート、真正面から接近してくる。
 すでに、視認できるまでの距離に近づきつつある、5機編隊。
 彼等が単なる偵察でなく、明確な攻撃意思を持っているのは、明らかだった。
 全身黒色で、国籍を示すマークはない。
 しかし、型は、あきらかにドイツで開発された、ユーロフュチャー・2000の改良型。ドイツで独自開発されたフューチャー式エンジンを有しており、獅堂たちのXXには及ばないものの、攻撃に関してはあなどれない性能を備えているはずだ。
―――また、この型の戦闘機か……。
 操縦桿を握る獅堂の脳裏には、何年も昔の、あの日の悪夢が蘇っていた。
 確かあの時も、唐突に襲い掛かってきたのは、ユーロフューチャー・2000だった。初めての戦闘ステージ、そして――追い詰めながらも、最後の引き金が引けなかった屈辱。
 今、あの時よりもさらに、状況は悪化している。
 三対五、しかも、滝沢には戦闘ステージの経験はない。それどころか、緊急発進の経験さえない。――明らかな劣勢。
 劣勢というより、むしろ逃げるしか生存の可能性はないと言える。
 が、獅堂は、その場に留まり、応戦することをすでに決意していた。
―――滝沢には、一人でこの局面を切り抜けられない。
 回線が途絶えた時点で、右京は異変に気づいたはずだ。
 領空侵犯機の存在は、レーダーサイトが把握していると信じたい。
 すぐに、オデッセイから応援が来る。いや、千歳か三沢からも部隊が到着するだろう。五分――それだけの時間を切り抜けられれば、攻勢は一変する。
 それまでの間に、滝沢が撃墜されれば、それはもうしょうがない。運命と言うほかない。
 獅堂は操縦桿を引き、機首を向かってくる敵機に合わせた。
 雨粒が激しくキャノピーを叩く。最悪のフライトだな、椎名が呟いた言葉。獅堂は苦笑した――全く、その通りだよ。
 視界の端に、椎名機が、右旋回で上昇していくのが映った。
 椎名もまた、獅堂と同じ判断をしたと判る。いや――初めからそうすることは判っていた。
―――椎名さん、無理だけはしないでくださいよ。
 獅堂は心の中で呟いた。
 ここで、こんな所で命を落とすほど、椎名のそれは安くはない。
 待っている人がいる。守らなければならない人がいる。
 そして――自分にも。
 獅堂は眼を細め、刹那に脳裏に浮かぶ面影を、眉をしかめて追い払った。
 滝沢のEXを視認する暇は、もうない。
「上手く逃げろよ、滝沢」
 できるだけ高度を保ち、隙を見てこの海域を離脱すること。それが、滝沢がすべきことの全てだ。頭のいい男だから、それくらいは理解しているはずだ。
 下手に戦闘に絡めば、滝沢ばかりか全員の命取りになる。
 その時。
 唐突に、ヘッドアップ・ディスプレイの画像が点滅し始めた。
 敵機と、同僚機を示すマークが、同時に瞬いて点灯している。
『獅堂さん、椎名さん、緊急回線を開きました!』
 滝沢の声が、復旧した回線を通じ、ヘッドフォンから届く。
 その声が激しく興奮しているのは、恐怖からなのか、回線を復旧させたことからなのか。
『さすが天才、よくやった。ここはいいからさっさと離脱しろ!』
 間髪入れず椎名の怒声が響いた。
 余裕を失っていることが判る声。獅堂の体内に、冷たいものが流れ出す。
『獅堂、上の3機は自分が引き付ける、下を頼む』
「了解」
『滝沢が離脱し次第、自分たちも脱出する。いいな』
 敵機は、上空と、低空、2つに分かれて標準を獅堂たちに合わせつつあった。
 弾頭シーカーが、敵機の赤外線を感知しつつある。獅堂はフューチャーの出力を最大にし、一気に距離を詰めていった。


                八


「回線はまだ、戻らないのか」
 降矢は、怒声に近い声をあげた。
 午後五時十八分。
 青雲と白虎は、すでにオデッセイを飛び立っていた。
 駐機場では、後方支援部隊として、北條と大和、そして真田と明見を飛び立たせるべく、今、フル回転で緊急発進準備が進められている。
 降矢は時計を見た。
 三機が消息を絶ってから、すでに三分が経過している。現場海域到着まで、最速で飛んでも、約七分。
 現場に一番近い千歳基地へも応援を頼んだが、――最新鋭機同士の戦闘となれば、千歳基地が所有している機では、正直威嚇程度の効果しかないだろう。
 空気の抜けるような音がして電子ロックが外れ、扉が開いた。
 眉をしかめ、降矢は振り返る。
 この特務室の、ロックを外せるIDを持った人間は限られているからだ。
 目に入ったのは、すらりとした長身。日本人離れした長い脚を持つ男だった。
「鷹宮……?」
 降矢は、思わず呟いていた。
 この男は、すでに退艦したのではなかったか。
 見慣れたオデッセイの隊服姿で、いつものように、きれいな所作で敬礼し、鷹宮は静かな目を、降矢の背後に立つ右京に向けた。
「雷神に出撃命令を、それから私に、現場の指揮を取らせてください」
「現場の状況に応じて、雷神は出す、しかし、お前に指揮を取る資格はない」
 それに答える右京の声は、ひどく静かだ。
 黒い皮手袋を締め直し、鷹宮は僅かに微笑した。
「行かせてください、私はまだ、今の時点では、特務室の所属です」
 その透明度を増した男の肌を、降矢はただ、無言で見つめた。
 電波部で初めて同僚になった美貌の元パイロット。彼が諜報と情報分析において、卓越した能力を有していることは知っている。
そして一昨年、その男を襲った非情な運命も、現役を退く事になった病のことも知っている。
 おそらく――年度内には退職を余儀なくされるほど、その病が進行していることも。
「最悪の場合、パイロットへの攻撃許可は私が出します。あなたの権限を、今だけ私に委譲していただきたい」
「……駄目だと言っても無駄のようだ」
 女指揮官の口調に、初めて人間らしい感情が滲んだ気がした。
 少し意外な気がして、降矢は向かい合う双方に視線を向ける。
 が、右京の眼差しが柔らかくなったのは、ごく一瞬のことだった。
「いいだろう、鷹宮二佐、現場の指揮はお前に任せる、ただちに雷神と共に、現場に飛べ」
「ありがとうございます」
 鷹宮は背筋を正して敬礼した。
―――なんなんだ……この二人は。
 降矢は眉をひそめる。
 右京と鷹宮、見つめ合う二人の眼に、他人には理解できない何かがよぎり、そして静かに消えた気がする。
「最後の仕事が、レスキューか、これも何かの因果だろうな」
 右京は目をすがめ、呟くようにそう言った。
「そんな事態が起きていないことを祈りますがね」
「絶対に誰も死なせるな」
「了解」
「お前もだ、鷹宮」
 それに返ってくる返事はなかった。
 降矢が次に顔を上げた時、特務室から、鷹宮の姿は消えていた。
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