「獅堂さん、本当にもう、楓さんは戻って来ないって信じてるんですか」
滝沢の声が追いすがる。
「諦めるんですか、それでいいんですか」
偵察機で帰艦している途中から、滝沢が、自分に何か訴えたがっているのは判っていた。
獅堂は、ヘルメットを脱ぎながら、足早にダラーを降りた。
今は、滝沢のロマンチックな幻想につきあっている暇はない。
右京の所へ行き、一刻も早く、休暇の許可を得るつもりだった。
「獅堂さんってばっ」
「うるさい」
顔を上げて、睨みつける。幼さを残した滝沢の瞳に、微かな反感の色があった。
「あいつは、もう、戻らない」
獅堂はゆっくりと、言った。滝沢にではない――自分自身に言い聞かせた。
「自分は、もう」
これで、
「あいつを、待たない」
―――これでいいんだよな、楓……。
act4 蒼光
一
―――鷹宮さんが、オデッセイに戻っている?
獅堂は、殆ど駆け足で通路を突っ切りながら、気ぜわしくフライトジャケットを脱ぎ棄てた。
つい先ほど、偵察機を滑り込ませた駐機場で、出迎えにきた整備士たちが、
「鷹宮さん戻ってますよ」
と、椎名に声を掛けていた。
椎名より先に、「どこにいるんだ」と声を荒げて聞いたのは獅堂だった。
「退艦前の最後のあいさつだそうですよ。今……あちこち回ってると思うんですが」
その言葉が終わるより先に駆け出していた。
―――鷹宮さん……。
(――先月、あいつは慢性骨髄性白血病だと、診断された。)
椎名の言葉が、苦すぎる現実となって胸に繰り返し、響き続ける。
―――どうして何も言ってくれなかったんだ……どうして、
放射能防御服。
一着しかなかったそれを、獅堂に強引に着せてくれたのは鷹宮だった。
結果、獅堂は助かり、鷹宮は――不治の病に冒されている。
自分を助けるために――あの人は、また。
また、取り返しのつかない泥を被ってしまったのか。
(――あいつの場合、じいさんが北欧の人らしくてな……遺伝子レベルで一致するドナーが出てくる可能性は、ほとんど……ゼロに近いそうだ。)
「鷹宮さんっ」
オペーレーションルームにも、特務室にも、その見慣れた長身はなかった。
獅堂はIDの入力ももどかしく、雷神チームの待機所の扉を開けた。そこには、様々な救難機が格納されており、チームの休憩所も設けられている。
「鷹宮……」
ばっと弾かれたように、鷹宮から身体を離す若い女性職員。
今年オデッセイに上がってきたばかりの、新人オペレーターだ。
休憩所。狭い室内に、作戦用のデスクと、簡易椅子が無造作に置かれているだけの部屋。
松永たちは何処へいったのか、室内にはその2人しかいなかった。
何が起きていたのかは、想像するまでもない。
獅堂は、しばし呆然と立ち尽くしていた。
「獅堂さん、どうしました」
椅子に腰掛けたままの鷹宮は、少し驚いたような眼をしている。
見慣れた隊服姿。一部の隙もなく整えられた髪。
少し面やつれした感はあるが、そのせいもあって一層怜悧さを増した輪郭。形良い口元には、どこか楽しげな笑いが滲んでいる。
先日病院で感じた、儚さと痛さは、何処にもない。クールで、思いっきり人をくった笑顔。
「し、しし、失礼しますっ……っ」
そう言って、獅堂の横をすり抜けるようにして駆けて行くオペレーターの、うつむいた頬が、羞恥で赤く染まっていた。
「……何をやってたんですか、何を」
獅堂は、ようやくそれだけを言った。
あきれて、それ以上、言葉が何も出てこなかった。
こんな肩透かしがあるだろうか。この上なく深刻になっていた自分が莫迦みたいだ。
「見ての通りですよ」
顎の下で、指を組み合わせ、鷹宮は優雅に長い足を組んだ。
「結婚したら、こんな遊びも当分できませんからね。どうか大目に見てください」
そう言って、微笑する。
「…………」
どう、リアクションしていいか判らず、獅堂はただ、視線を伏せた。
まだ。
―――まだ、この人は、自分に嘘をつくつもりなのだろうか。
最後まで、本心を見せてはくれないつもりなのだろうか。
判っている、病名を聞けば、間違いなく獅堂自身が――責任を感じるからだ。鷹宮はそういう男だ。いつだって、何も言わずに、ただクールに笑っている。
「……もう、いいっすよ」
獅堂は、うつむいたままで呟いた。
「………」
「もう、無理するのはやめてください、じ、自分は……聞いてますから」
笑みを口の端に刻んだまま、鷹宮が表情を止めた。
「し、椎名さんに……全部……」
後は、言葉にならなかった。
獅堂はそのまま、唇を噛んだ。ぎっと椅子を引きずる音。うつむいたままの視界に、近づいてくる鷹宮の影だけが映る。
―――自分は、この人に何ができるんだろう。
それを見つめながら、獅堂は自分に自問していた。
謝罪も同情も――決して受け入れらないことは知っている。だから今、それを女々しく口にするつもりはない。
でも、何かを返したい。
この人に、―――自分は、何を返してあげられるのだろうか?
「確かに私は、今、病んでいますがね」
静かなため息と共に、声がした。
「結婚が流れたのは、都合のいい口実ができたと言う程度のことです。正直、気乗りはしませんでしたから」
そのまま獅堂に背を向け、部屋の隅の、コーヒーサーバーを手に取る。
「椎名さんが、どんな大げさなことを言ったのか知りませんがね。たいした病気じゃないんですよ」
鷹宮が――問いただしたところで、否定するのはわかっていた。獅堂は黙って首を左右に振る。
「た、鷹宮さんの、お父さんの話も……聞きました」
「…………」
沈黙が、胸に刺さる。
「あなたの苦しみを、もし、自分が少しでも背負えるのなら、」
「獅堂さん」
穏やかな、それでいて芯のある口調で、鷹宮は獅堂の言葉を制した。
「もう、いいんです」
そう言って微かに笑った横顔に、疲れにも似た色が滲んだような気がした。
「私は、父の正当性を、身を持って証明しようと思っていたのかもしれません。どんな時でも、例え肉親を救う時でも、冷静に状況を分析する非情なレスキュー。それが私の父でしたから」
「………」
「父が手を差し伸べたとき、私は――それは、絶対に自分に向けられたものではないと、思っていました」
鷹宮は、何を見ているのだろう。と、獅堂は思った。
暗い横顔は、今、何年も前の情景を――劫火に燃える家族の姿を見ている――そんな気がした。
「父は平常から、義兄と義弟に優しく、私には厳しかった。寂しくはなかった。子供心にも、父の立場というものが私には判っていましたから」
―――楓……?
ふと、獅堂は眼をすがめた。
決して許されない罪を背負っている男の眼差し。
それは、かつて何度も目にした楓の眼によく似ていた。
そこに――最後まで獅堂が立ち入ることを拒否していたあの眼に似ていた。
「だから、父が真っ先に私を……抱き上げてくれるとは、……思ってもみなかった」
優しさゆえに――自分を責めるしかない鷹宮が、今の獅堂には確かに楓と重なって見えた。
「あれは、レスキューとしての、命の選択だったのか、それとも……肉親としての、情に負けてしまったのか」
鷹宮の横顔に、影が落ちた。
獅堂は黙って見つめ続ける。そして、待ち続ける。もう――決して、逃げたりはしないと、自分に言い聞かせながら。
「私は、信じていました。父は、あの際にもプロのレスキューに徹したのだと。年長の兄が、自力でベランダから飛び降りる可能性に賭け、当時七つだった私を抱いたまま、ベランダの柵を伝って脱出した。義弟は――その時、すでに自力呼吸が止まっていた。まだ、数ヶ月の赤ん坊でしたからね」
鷹宮はそこで、言葉をきった。
カップに移したコーヒーを口元に運んで、それから大きく息を吐く。
「でも……それから五年して、父は死にました。およそ自分の生き方とは相反した死に方で」
それは、
はっとして、獅堂は口を開きかける。
滝沢が言っていたことだろうか。
水難事故にあった室長を救うために。
「降り続いた雨で川の水は増水し、おまけに父は訪問先でアルコールを口にしていました。にも係わらず、激流の中に、父は衣服のまま飛び込んだ」
鷹宮は顔を上げ、静かな眼で獅堂を見つめた。
「家族すら、冷静に見殺しに出来た父が、友人の子供のために――死ぬと判って身を投げた。私にはわからなかった、その時の、父の気持ちが」
いや、認めたくなかったんです。
鷹宮は苦笑した。深い皺が、寄せられた眉根に刻まれる。
「父は、あの日、やはり肉親としての情に負け、私を助けたのかもしれない。そのために――その贖罪のために、死を選択したのだとすれば、だとしたら――助けられた私もまた、許されない存在だということになる」
「それは、違う」
「違うかもしれません、でも、私にとっては、そうなんです」
緩やかに、けれどきっぱりと否定される。
「もう……疲れました」
そう言って鷹宮は、ようやく表情を緩めて笑った。見ている方の、胸が痛くなるような笑顔だった。
「疲れました、答えを求め続けることにも、誰かの命を切り捨てることにも」
獅堂は無言のまま、眼を閉じた。
今、支えを必要としているのは、自分ではない。
いつも、いつも支え続けてくれた人に、今、自分が報いられるものは。
「自分では……」
獅堂は口を開いた。
「自分では、貴方の支えになれませんか」