十二
「鷹宮さんの……お父さんのことを、知っていますか」
獅堂が問うと、松永は、少し驚いた顔で振り返った。
二人で足を踏み入れた鷹宮の部屋――暗くてよく見えないが、そこにはもう、人が生活している雰囲気はない。
「……鷹宮さんから聞きましたか?」
逆に聞き返され、曖昧な表情のまま、獅堂は頷く。
「……そうですか」
ふっと息を吐き、松永はポケットの中から、カードキーを取り出した。
「鷹宮さんのお父さんは……北海道消防庁では、超がつくほどの有名な方でした。伝説的なレスキュー隊員としてね」
そう言って松永は、カードを壁についているボックスに差し込む。たちまち、暗かった室内に明りが灯った。
部屋の中は、きちんと片付けられていて、まるで鷹宮その人のように、一部の隙もなかった。
「機械のように冷静沈着、現場を黙視した瞬間に、救出までの時間とそれに掛かるリスクをたちどころに計算する。峻烈で、決して妥協を許さない――そういう方だったと、聞いています」
そう言いながら、松永は、鷹宮のデスクの引き出しを開け、ひとつひとつ、中をチェックしていく。
「そこには、人としての情はない。あるのは――ただ、一人でも確実に、命を救うということだけ」
災害時におけるレスキューの、基本ですがね。
自嘲気味に、松永は笑った。
「人間だから……なかなか、情を断ち切るというのは、難しいものです。多くの判断ミスによる二次被害は――ここから、起こる」
そして、次にクローゼットを開けた。
隅に――オデッセイの隊服が一式、掛けられたままになっている。
松永はそれを取り出し、手にとって、しばらく無言で見つめていた。
「……鷹宮さんは」
その背中に、獅堂は言った。
知りたい。
今、痛切にそう感じていた。
鷹宮の過去を、彼の心の底に巣食っている何かを。
もし、あの人が――それを、自分に受け止めて欲しいと願うのなら。
「火事で……ご家族をなくされたと、聞きましたが」
鷹宮が、いつもそうしてくれていたように。
いつも、受け止めてくれていたように。
松永は、鷹宮の制服を見つめたまま、動こうとしなかった。その背中に、夕色の影が落ちている。
「……生き残ったのは、奥様と鷹宮さんだけだったそうです」
ふっと軽く息を吐いてから、松永は続けた。
「亡くなったご長男と、三男は、後妻に入った母親の連れ子だったとか、――助けられた鷹宮さんが、唯一の実子だったんです」
それは――。
獅堂は、眼をしかめて押し黙った。
では、プロのレスキューであるはずの、父親が――選んだのは。
「その時、どういう状況で、何故、実子である鷹宮さんだけが助けられたのか……それは、プロのレスキューとしての判断だったのか、肉親の情だったのか」
松永はそこで言葉を切り、わずかに眉を寄せた。
獅堂もまた、何も言えないまま、足元に視線を落とす。
実の血を分けた子供を抱いて、後の命を――切り捨てた。
助けられた子は、そんな父親を、どう思うのだろうか。嬉しいのだろうか。悲しいのだろうか。一人だけ生き残った自分を恨んだりしないだろうか。
「さすがに当時は、色々噂されていました。むろん、それはプロのレスキューとしての、的確な……そして、非情な判断だった。そう、自分たちは信じていますが」
――もちろん鷹宮さんもね。
松永はそう付け加えた。
「家族という絆を犠牲にしても、冷静な判断で人命救助に徹した父親……彼が鷹宮さんを、プロのレスキューに育て上げた。それは」
松永はそこで、もう一度言葉を切った。
天の要塞に、夜の闇が、近づこうとしていた。
「獅堂さん、自分はね、鷹宮さんがオデッセイに召集されて……レスキューの第一線から退いて、本当によかったと思ってるんです」
隊服を元通りクローゼットに収めると、ふいに振り向いて、松永は笑った。
「鷹宮さんは優しい、優しすぎるくらいだ。花の命が枯れていくことさえ、あの人の心を傷つける」
どこか、遠くに向けられた男の目色は悲しげだった。
「なのに、同時にあの人は、完全無比のレスキューであろうとしている。獅堂さん、レスキューはね、救うだけじゃない、時には神になりかわって、人の命を切り捨てる。手を伸ばすか、伸ばさないか、人の死を賭けた残酷な決断を、強いられる」
松永の声が、厳しさを増した。
「それは、自分の手で、助かろうとあがいている命の火を消してしまうに等しいんだ。鷹宮さんは、父親の影を踏襲するように、鬼に徹した。父親の正当性を立証するためには、そうするしかなかった。あの人は、いつも苦しんでいた――本当に、救われたかったのは……」
何故、救うのか、何故――救われないのか。
「救いを求めていたのは、鷹宮さんの方なんだ……」
十三
「結局、何も見つからず……か」
椎名の乾いた声がした。
「まだ、諦めるのは早いですよ」
背後のモニターを睨みながら、滝沢豹がとがった声出す。
小型偵察機のコックビット。
獅堂は、かつて鷹宮の指定席だった操縦席で、トリガーを握っていた。
オホーツク海上空。
獅堂、滝沢、椎名の3人を乗せた偵察機は、高度1,000にも満たない超低空飛行を続けている。
ミッションネーム「KAEDE」は、この調査を最後に終結することが、正式に決められていた。
どの調査機間の結論も、所詮NAVIのもたらしたそれを、大きく外れるものではなかった。
引き続き、EURの動きを見守るというスタンスが、防衛庁上層部の出した結論だった。
「もう、十分だよ」
椎名は呟き、隣の獅堂を振り返った。
「オデッセイに帰還する。高度を上げて、右四五度に方向転換」
「了解」
上昇します。
そう言って、獅堂はトリガーを引きつける。滝沢も何も言わなかった。
ようやくロシア政府の許可が降りたのが先日のことだった。そして、現場周辺を探索すること、一時間。もう、何かが出てくる可能性が極めて乏しいことは――滝沢にも判っているはずた。
眼下に広がる、黒ずんだ海。流氷が太陽を受けて、無数の光を乱射させている。
―――この海に、青い光が現れた……。
獅堂は最後に、海面を見つめた。
でも、それは、お前じゃ、ないんだよな……。
フライトジャケットの胸ポケットに――今朝、右京から渡されたものが収められている。
獅堂は空いた手で、胸を押さえた。
もう、何処にもいない。
もう、戻らない。
もう、帰らない。
判っていたのに、未練などないはずだったのに、それでも一番こだわっていたのは、やはり自分だったのかもしれない。
「椎名さん」
獅堂は言った。
「針路変更して、少しだけ寄って行きたい場所があるんですが」
「何処だ?」
「……桜庭基地の……海岸です」
「………」
「椎名さん、自分も正式にこの任務から外れることになりました。最後にあの場所に行って、それをけじめにしたいんです」
椎名は何も言わなかった。
獅堂はオデッセイコントロール・ルームへの回線を開き、針路変更の許可を取った。
十四
「鍵を、返されました」
風が、獅堂の髮をなぶり、頬をなでた。
「鍵?」
日本海の、粗い波と、そして吹きつける風。
「楓と、自分が一緒に暮らしていた部屋の鍵です。あの事件の後、部屋の所有は防衛庁預かりになって……自分も、入ることを許されなくなりましたから」
楓が、一人で住んでいたマンション。そこに、獅堂が同居する形での結婚生活だった。
だから、法律的な所有権は――獅堂にはない。
「室長にか」
「ええ」
滝沢はブーツを脱いで、波打ち際を興味深気に歩いている。痩せた体がひどく華奢で、余計に子供じみて見えた。
「あの部屋を……今までずっと防衛庁が管理していた意味を……その時、初めて聞かされました」
今朝、一番に室長室に呼び出しを受けた。鷹宮、椎名と共に獅堂もまた、任を解かれることを通告され――そして、言われた言葉。
―――真宮兄弟の、失踪宣告期間が過ぎた。
※
「どういう意味です……」
聞きなれない単語に、獅堂は姿勢を崩さないまま、右京の顔を見下した。
デスクに座ったままの女指揮官は、相変わらず、感情の読み取れない眼をしている。
「日本の法律では、事故に遭遇した者が行方不明になった場合、失踪宣告という方法で、推定死亡が認められる」
そして右京は、淡々とした口調で言った。
推定、死亡……?
獅堂は、口の中で繰り返す。
「行方不明になった時から一年が経過したら、民法上、死亡したものとして扱えるということだ。一年は長い、そろそろ探索に見切りをつけてもいい時期だということだ」
右京の言いたいことが、ようやく理解できていた。
獅堂は暗い気持ちで眉をひそめた。
―――では、
では、楓は。
「日本国籍を持つ、真宮楓という男は死んだ。一年前の、あの日に遡って」
「………」
獅堂は静かに眼を閉じた。
「ただし、それを裁判所に訴えられるのは、親族等の利害関係人に限られる……獅堂、内縁の妻であった、お前もそれに含まれる」
「……自分は……」
「部屋に残された物品の相続、貯金や、著作物の印税、未払い給与の引渡し、という問題も絡んでくる。あのマンションも、いつまでも税金で遊ばせてはおけない。なるべく早く手続きを済ませて欲しい」
「…………」
そのひどく事務的な言いように、初めて獅堂は、強い憤りを覚えていた。
「部屋の鍵だ」
しかし右京は、そっけない口調で、胸のポケットから、小さな金属片を取り出した。
反論しかけていた獅堂は、思わずはっとして、口ごもる。
それは、獅堂が、楓と一緒に暮らしていたマンションの鍵だった。
「お前の荷物も、まだ残っていたはずだ。お前自身の所有物は、好きに処分して構わない」
机の上に乗せられたそれは、照明を受けて、鈍い光を放っていた。
「部屋を見れば、いや、いずれ判ることだから、言っておくが」
右京は言葉をきり、そこで、疲れたように嘆息した。
「防衛庁は、真宮兄弟が今まで地上に残した痕跡の全てを、徹底的にバイオシャワーで洗浄した」
「バイオ・シャワー…?」
獅堂は呟く。
「真宮兄弟の遺伝子一切を、この地上から削除するためだ。それがレオナルド会長の忠告で、アメリカ合衆国でも同様な処置が取られている。……あるいは、サンプルのひとつは残しているかもしれないが」
苦い口調で呟き、右京はまっすぐに獅堂を見つめた。
「真宮兄弟のクローンを、将来に渡って絶対に作らせないための措置だ、獅堂。クローン技術が夢物語ではないことは、お前にも理解できるだろう」
十五
「クローンか……」
椎名の呟きが、波音にかき消される。
「なんだか、……室長の言い草じゃないが、マジで夢物語みたいな話だな」
獅堂も笑った。
「あの二人の存在自体、夢物語ですよ。……とっくにね」
「EURも、真宮兄弟の細胞を保存しているはずだが」
「……ヨハネ博士の研究施設とともに、保管していた遺伝子情報は、全て焼失したっていうのが、向こうの公式見解らしいです……本当かどうか知らないっすけど」
「…………」
「それに、アメリカも日本も……多分、全ては消去してないんじゃないかと思いますよ。NAVIがベクターのクローンを作られるのを警戒して、クローンなんたらっていう特別立法……、作ったでしょ、先進国の殆んどがそれに批准してるそうなんですが、歯止めはあれだけですね、多分」
「……政治に興味のないお前にしては、よく覚えてるな」
「…………」
獅堂は黙った。
いつだって、無意識に、楓に関連することを探している自分がいる。
NAVIが立案した法律は、もし、特定の個がクローン体だと認められたら、被験者の身柄はいかなる国家も、組織も、それを実験体として拘束できない、という内容のものだった。
つまり、創り出された生命の人権を認め、以後、絶対に研究対象にさせない、という法律である。それがどこまで――有効に機能するかは疑問ではあるが。
「嵐と楓………もし、彼らのクローンを作ろうとする組織が出てきたとしたら……もう、彼らは完全な生物兵器ってわけか」
「………」
椎名の声を聞きながら、獅堂は、無言で波高の果てに視線を向けた。
楓が――例え、複製体であったとしても、もう一度、自分の目の前に現れてくれるのなら。
あの眼で、あの声で、あの唇で、もう一度、触れてくれるのなら。
いや――。
もう、見てはならない夢だ。
獅堂は、静かに首を振った。
右京の冷たさは、今思えば、ひとつの思いやりだったように感じられる。
自分が、これから見なくてはならないのは過ぎてしまった過去ではない。
―――未来だ。
「……鷹宮のことだがな」
椎名は波打ち際に向かって歩き始めた。
大きな背中に、翳ってきた空が影を落としている。
「あいつは……過労なんかで、入院しているわけじゃない」
獅堂は自分の胸に、冷たい石が、すっと入り込んでくるのを感じた。
どこかで、誰かが、そう言ってくるのを、待っていたのかもしれない。
「鷹宮は、優秀すぎるレスキューだ。レスキューとして、常に完璧であろうとする故に苦しんでいる。あいつは……いつだって、潜在的に死を求めていた」
「死を……?」
救いを求めていたのは、鷹宮さんの方なんだ………。
松永の言葉が胸をよぎる。
「鷹宮を、救ってやってくれ」
椎名はうめくようにそう言った。
胸の底にあるものを、搾り出すような声だった。
「自分が……ですか」
自分に、何ができるだろうか。
獅堂はうつむき、眉を寄せる。
あの時、楓一人救えずに、むざむざ手を離してしまった自分に何が。
「鷹宮の結婚話は、もうとっくの昔に流れている」
「え……?」
「鷹宮は被爆したんだ」
ヒバク?
言葉の意味が、すぐに頭に入ってこなかった。
椎名は、振り向いた。厳しい眼の中に、暗い悲しみが揺れていた。
「ヨハネ博士の研究施設で、鷹宮は原子力発電機を手動で止めた。……放射能防御服さえ着ずに、危険部位に素手で触れた。限界を超えて放射能を浴びた結果、今になって、やっかいな病気に見舞われている、多分、……長くは生きられない」