十


 ランチルームに入った瞬間無意識に、一際背の高い、姿勢のいい後姿を探している。
 獅堂は思わず苦笑を浮かべた。
―――馬鹿だな、自分も。
 いつもの癖だ。
 昔からの癖。昔はそれと気づかなかった。でも、今なら、はっきりと認識できる。――迷ったとき、心に苦しみを抱いたとき、こうやって、いつも鷹宮の姿を探してしまうのだ。
 鷹宮は、もうオデッセイには戻らない。
 それは、昨夕、右京から直接聞かされた。
 プロジェクトを降りた以上、所属の違う鷹宮が、オデッセイにいる理由はもうなくなったらしい。
 ああ、そうか――と思った。
 それを最初から知っていたから、だから椎名は、忙しい時間を縫って鷹宮を見舞いに行ったのだし、もう少しいてやれ、と言ってくれたのだ。
「本人の希望だ、地上勤務に戻りたいという意向を汲まれてのことだろう」
 右京の説明はそれだけだった。
 特務室内での引継ぎも済んだらしく、部屋にあった荷物も、何時の間にか整理されていた。
 もう――随分前から、決められていたかのようにさえ思える。
 獅堂一人が、あるいはかやの外だったのかもしれない。
「獅堂リーダー」
 コーヒーだけをトレーに載せ、ぼんやりと席に着こうとしたところを、呼びとめられた。
「松永……リーダー?」
 獅堂は、少し意外な気持ちで振り返った。
 鷹宮に代わって、新生オデッセイ・雷神のリーダーに任ぜられた、松永陣。
 千歳基地出身の、二等空佐である。
 小柄な男で、背丈は獅堂とほとんど変わらない。その松雄が、日に焼け尽くした顔をほころばせて立っている。背後には、これは旧オデッセイからの知り合い、三輪・ロバートの姿も見える。
 松永と獅堂とは、オデッセイ−eになって初めて顔をあわせた間柄だった。
 同じオデッセイにいても、レスキュー専門の二人と、獅堂が接する機会は殆どない。親しみを込めて挨拶を交わすことはあっても、私用で話をすることは滅多にない。
「どうしました。ランチだというのに、浮かない顔デスネ」
 長身のロバートが、茶目っ気たっぷりにウインクしてくれた。
「先日は、鷹宮さんの見舞いに行ってくれたそうですね」
 松永はそう言い、獅堂の対面に腰掛けた。
「自分たちも昨日、行ってきました。喜んでましたよ、鷹宮さん」
「……そうですか」
 戸惑いながら、獅堂も手を掛けた椅子を引いて着席する。
 鷹宮とは、少し気まずい別れ方だった。逃げたのかもしれない。と、オデッセイに戻ってからふと思った。
 鷹宮が、初めて自分の過去を打ち明けようとしていた。それを――受けとめられずに、結局は逃げてしまったのかもしれない。
 それが、鈍い悔いとなって、胸の底にくすぶり続けている。
「花が、飾ってあったのが、驚きデシタネ」
 ロバートが、紙コップのコーヒーを飲み干してから言った。
「鷹宮リーダー、生き花のたぐいは一切飾らないヒトなのに。獅堂リーダーからもらうと、別ナンダカラ」
(―――何の花でしょう。好きな色です。)
 そう言って、差し伸べられた白い腕。
「花が……駄目なんですか」
 獅堂は呟いた。
「お前、お喋りがすぎるぞ」
 松永はそう言って横目でロバートを睨み、獅堂に視線を戻して苦笑した。
「花が、特別どうこう言うんじゃないんですよ」
 松永の、顔の黒さに埋もれてしまいそうな――小さな目が揺れている。
「――鷹宮さんは、ああみえて、……自分の目の前で、命の火が消えて行くのが耐えられない人なんです。例え、それが花であっても」
「………」
「だから、活花に限らず、いずれ切えてしまうものは、一切身の回りに置こうとしない。あの人はそういう人だから」
「…………」
「信じられないでしょうがね、普段が目茶苦茶な人だけに」
 冗談めかして松永は笑ったが、獅堂は笑えなかった。
 獅堂にも、それは――判るような気がした。
 鷹宮は優しい。あれほどクールで、時に冷酷に見えるのに、優しすぎる内面が時に痛い時がある。
「丁度良かった、実は鷹宮さんの忘れ物を取りに、今から部屋に行くところなんです。獅堂さん、ご一緒しませんか」
―――何故、自分が…?
 松永の心中を図りかね、わずかに躊躇し、それでも獅堂は頷いていた。


                 十一


「鷹宮さんとは、千歳で何年か一緒でね……かれこれ、長いつきあいになりますが」
 廊下を先立って歩きながら、松永がそう切り出した。
「嫌になるほど冷静な人ですが、あの人が、本気で取り乱した姿を、一度だけ見た事がありますよ」
 あなたは、もっと目にしているかもしれませんがね。
 そう付け加えて、少しだけ振り向いて松永は笑った。
「一年前の……例の事件の時ですよ」
 そして、笑ったままの目が、すっと細められる。
「あれはすごかったデスネ、あの阿蘇さんの部屋に飛び込んで、温厚な鷹宮さんが、殆んどケンカしてましたカラ」
 松永の隣を歩くロバートが口を挟む。
「阿蘇さんの顔が見ものでしたね」
「でも、最後は、鷹宮さん、土下座したそうですヨ」
―――土下座……?
 獅堂は驚きを隠しきれずに、少し慌てて面を伏せた。
―――それは……辞表を出した時のことを言っているのだろうか。
 あの時。
 自分がしでかした罪の後始末を、椎名と鷹宮にしてもらった。もし、あの時、二人の助け舟がなかったら――。
 獅堂は、この手で、大切な部下の将来を奪っていたことになる。
「鷹宮さんにとって、あなたはいつでも、特別なんですね」
 松永の声が、どこか遠くで響いている。
 鷹宮は、自分を庇って辞表を出した。
 あの時も同じだ。
 もう何年も前の、テストフライト。
 死を覚悟して、目を閉じた時――どうしても、対人戦で、ミサイルのスイッチが押せなかったあの日。
 あの時も、いつも。
―――鷹宮さんは、自分を庇って、


                ※


『――獅堂!』
 その声が、椎名のものか、鷹宮のものか、右京のものか……。
 それすら、もう獅堂には判らなかった。
 視野が狭窄し、呼吸が、肺で焼け付いている。
 海と空が逆転し、方向感覚は全くなくなっていた。
 白煙、そして炸裂音。キャノピーの上で火花が散り、獅堂は堅く眼を閉じた。衝撃と共にシートが揺れ、身体ごと浮き上がる。頭部がヘッドアップディスプレイに激突した。
 閉じた視界にも炎が瞬くのが判り、全てが白昼の世界に包まれる。
 死んだ――。
 獅堂は思った。
 これが、死の瞬間なのか。
―――これが。
 しかし、獅堂は眼を開けていた。生と死の、認識すら持てない一瞬。視界に映ったのは、横転して、機首から海へ突っ込んでいく――ユーロ2000の改良機だった。
 獅堂が追い、そして追われた、延長線上に等しく死を見つめていた――あの、領空侵犯機。
 尾翼から、荒れ狂う黒煙と、そして炎の柱を噴出している。
―――自分、が……。
 ミサイルを、打ち込んだのか?
 いや。
 獅堂の手は、とうにスイッチから離れている。
『獅堂さん、生きてますか』
 鷹宮の声だった。
 鷹宮が。
 獅堂は悟った。
 鷹宮が、獅堂の背後に回って侵犯機を撃墜したのだ。
 あの瞬間、鷹宮機はどのポイントにいたのか、――判らない、しかし、それはまさに神業に近い反撃だった。
 鷹宮機もまた、敵機を引き付け、応戦していたはずなのだから。
「……鷹宮さん」
 獅堂は叫んだ。声にならなかった。
 足が、今さらのように震えている。
「鷹宮さんっ」
 もう一度叫んでいた。
『はいはい、お互い、きっちり生きてますね』
 どこかふざけたような、からかうような、それでいて、優しい声が返ってくる。
 獅堂は、眼の奥が痛くなった。
「鷹宮さん……自分は、」
 後は言葉にならなかった。鷹宮は自分を庇った。――その意味は、獅堂にも理解できる。
 命の重みに負けてしまった自分を庇い、運命の引き金を引いたのだ。獅堂が受けるべき遺恨、苦痛の全てを、その瞬間、鷹宮が引き受けた。
『……あなたには、まだ、泥を被るのは早すぎる』
 鷹宮は静かな口調で、そう言った。


 その時。
 鷹宮は、たった一機で、敵機二機を撃墜していたのだった。
 獅堂は、それを後から知った。
 航空自衛隊のパイロットで、戦闘ステージを経験したのは、椎名、鷹宮、獅堂の3人しかいない。しかし。
 実際に、その手で――人間の命を奪ってしまったのは鷹宮しかいない。

 

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