八


「NAVIの、レオナルド会長と回線が繋がっています」
 内部回線から、新人オペレーターの声がした。
 オデッセイのオペレーションルーム。その奥に設けられた特務室。
 その日も獅堂、椎名、そして滝沢をはじめ、プロジェクトチームの面々が、右京によって呼び集められていた。
 数日前、オホーツク海上空で、唐突に現れ、消えてしまった青い光の集合体。
 昨日、防衛庁長官から、正式に「レベル3」の通達が降りた。
 ミッションネームは、「KAEDE」。
 その光の正体を掴むのが、目下先決事項となる。
 獅堂はもとより、椎名、滝沢も通常任務を半分に減らしての対応となった。事件終結後、一年――未確認生命体の情報がもたらされる度に、常に発動されたレベル1〜5の緊急配備。3の通達は、今回が初めてだった。
 青い光――その調査結果が、今、防衛庁のリサーチセンター、ペンタゴンの科学特捜班に先駆けて、スイスに本拠地を構えたNAVIから届こうとしていた。
「さすが、天才の集合体だな。彼らが本気になったら、国の官僚組織などかなわないということか」
 椎名が、腕組したまま、自嘲気味に呟いた。
「ある意味、危険な集団ではありますよ、油断はできない」
 静かな声で、そう言ったのは降矢だ。
 NAVIは、もうかつてのような、アメリカ合衆国に従属した人権擁護組織ではなかった。
 潤沢な資金と人材を元に、スイスに広大な一都市を築きあげ、そこを拠点に活動する巨大企業である。
 レオナルド・ガウディーがその代表であり、設立の発起人だった。現在では特殊法人"NAVI"に名を変えた組織の会長職につき、運営の一切を取り仕切っている。
 立場は、全くの中立。どの国の、どの軍事方針にも左右されない。報酬で動く、プロの科学者集団。あらゆるジャンルに対応でき、的確な研究成果と、アドバイスを売りにしている。
「彼らを、そこまで追い込んでしまったのは我々だ、それを忘れない事だ」
 画面を見つめながら、冷めた声で、そう言ったのは右京だった。
 降矢は少し鼻白み、そのまま不機嫌そうに口をつぐむ。
―――我々……か。
 聞いていた獅堂は、ふと寂しさを覚えていた。
 別に、在来種とベクターを、分けて考えているわけではない。
 でも、右京の言い方は――自分は、在来種側の人間で、NAVIとは、――楓や嵐とは別種なのだと、そう言っているようにも取れた。
 その時、コントロールパネル中央に設けられたスクリーンに軽いノイズが走り、レオナルド・ガウディーの顔が映し出された。
 どこか女性的な優しい面立ち。輝くような金色の髪は肩まで伸び、病床時、極限まで痩せた頬は、いまだ戻りきらず、鋭角なラインを描いている。
 会長という職にふさわしく、かっちりとしたグレーのスーツ、シルバーのネクタイを身につけている。
 スクリーンから、獅堂に眼を向け、レオナルドは薄く微笑を浮かべた。
「結論から言えば、あの光は、楓のものではありません」
 すこし訛った、けれど流暢な日本語が流れ出す。
「むろん、姜劉青のものでもない……我々は、そう結論づけました」
 ふっと、全員の肩から力が抜けるのがわかる。
 獅堂も同じだった。決して期待していたわけではない、それでも、万が一の可能性は捨て切れていなかったのかもしれない。
 それに、何より恐ろしいのは、まだ生き残っている最後の完全体――姜劉青が、覚醒したのではないか、ということだ。
 彼の存在は、いまだEURが完全に隠蔽している。公にはヨハネ・アルヒデドとして通し、かつての戦争犯罪者「姜劉青」と同一人物である――という、アメリカ合衆国の主張を、頭から否定し続けている。
「とはいえ、映像の分析だけしかできない以上、光の成分を正確に割り出すのは不可能です。とりあえず、映像分析から割り出せる最大限のデータを転送します。そちらの調査の参考にでもしてください」
「滝沢、すぐに確認しろ」
「今、届きました」
 デスク上のノートパソコンに転送されたデータを、滝沢が真剣な目で見つめている。
「99%の確立で、例の光と同一規模の面積と光度を持っていると……なっていますが」
 指先で、忙しくキーボードを叩きながら、滝沢の声が戸惑っている。
「どういうことだ、レオナルド会長」
 降矢が口を挟む。その声に明らかな不審が混じっている。
「我々の予想では」
 レオの声は、この混乱を楽しんでいるかのようにさえ聞こえた。
「これは、人口的に、台湾有事に現れた光を真似て発光させた……イリュージョンではないかと思うのです」
「イリュージョン?」
 素っ頓狂な声を上げたのは、滝沢だった。
「エネルギー派の比較データを見ればわかります。オリジナルの、爆発的なエネルギー量には遠く及ばない。そもそもあの光を正確に合成し、再現するのは、今の科学では不可能だ。あれは、オリジナルの映像を真似て人口的に作りあけたもの。言わばイリュージョンであると、我々は分析しています」
「なんの、ために……?」
 椎名が呟く。
「あの力を、再現しようと実験を繰り返している組織がある、そういうことか、レオナルド会長」
 言葉を繋いだのは、それまで無言だった右京だった。
 画面の中の、美貌の男が薄く笑う。
「イエス、さすがはミセス奏。お元気そうでなによりです」
 傍で聞いてもはっきり判るほど、それは皮肉なものいいだった。
「僕は、危険人物を、わざわざ社会復帰させてしまったのかな、ミセス奏。非常に残念だ、あなたがよもや、軍に復帰されようとは……」
「NAVIには感謝している。が、それは私の公務とはなんら関係ない」
 右京の声は冷静なままだ。
 レオは、失笑でもするように、肩をすくめた。
「それだけでなく、楓を追う側に回るとは、夢にも思っていなかった。失望しましたよ、あなたには、心からね」
―――イリュージョン……。
 獅堂は、レオの言った言葉の意味を考えていた。
 そんな真似をするのは、またしても、EURなのだろうか。かつて、真宮嵐と真宮楓を拉致し、強引にあの力を復活させようとした時のように。
「光が、本物だという可能性は、本当にないんですか」
 滝沢だった。
「君は……新人のアナライザーですか?」
「滝沢豹です」
 ああ、と頷き、レオは少し含みのある笑みを浮かべた。
「聞いていますよ、君のことはね。ぜひNAVIに入っていただきたかった、在来種であっても、有能な人材は貴重ですからね」
 話のなりゆきを見守っていた獅堂は、初めて視線だけ動かして滝沢を見た。
 日本で最高峰の大学の理工学部をスキップで卒業し、真宮嵐の再来とまで言われて防衛庁に入隊した天才。彼が、非認定ベクターだというのは、実のところ、公然の噂である。
 レオの口調に、どこか皮肉な色があるのは、そういった事情を知っているからだろう。
「光が、イリュージョンだったという証拠は?」
 滝沢は、食い下がる。
「ひとつには、現場海域に残留熱の痕跡がなかったこと。そしてもうひとつは、光の発生した前後の動きが、世界中の衛星、レーダー…そのどれにもキャッチされなかったこと」
 レオナルドは、淡々と説明していく。滝沢はそれに耳を傾け、キーボードを叩きながら、また何かレオナルドに問いただす。
 超越した頭脳を持った者同士の、冷たい火花が散るような対話だった。
 最後には滝沢が黙り、レオナルドは余裕の微笑を頬に刻んだ。
「獅堂さん」
 ふいにそのレオナルドに声を掛けられて、獅堂は片眉を上げて、スクリーンに浮かんだ一見優しげな顔を見た。
「あなたは、まだ、楓が帰って来ると信じているんですか」
 穏やかだが、どこか冷たい声だった。
 獅堂はそれには答えず、硬質な輝きを持つ、青い瞳を見つめ返した。
「そろそろ、別のものに眼を向けた方がいいと思いますがね。鷹宮さんも、それから椎名さんも、このミッションを退くと聞きました。あなたも、もう過去にとらわれない生き方をするべきでしょう」
「余計なお世話だ」
 獅堂は言った。自分の意思でこの任務についているわけではない。
 レオは苦笑する。
「もし、今、楓があなたに語り掛けることができるとしたら、きっとそう言うと思いましてね、気に障ったのなら、謝ります」
「……別に」
 不愉快なわけでも、怒りを感じたわけでもない。
 こういう公の場で、かつて何度も繰り返された尋問、楓とのプライベートな関係を告白することの強要。揶揄、嘲笑……。
 もう、気持ちが麻痺してしまった。何も感じない様、心が武装しているだけかもしれない。
 それよりも、レオが発した、それから椎名さんも、という言葉が引っかかった。
 獅堂は椎名を見た。その視線を逸らさず、椎名もまた、獅堂を見つめた。
 真直ぐすぎる眼に浮かんだものを見た時、獅堂は全てを悟っていた。
「右京さん」
 レオは最後に言った。
「まだ、人類は決して安全圏にはいませんよ。かつて、私があなたに申しいれた……例の忠告は、実行されているでしょうか」
「………」
 表情を変えないまま、右京は微かに顎を引く。
―――忠告………?
 二人の会話の意味は、獅堂には判らない。おそらく、椎名も。
 しかし滝沢だけは、難しい顔で眉を寄せている。
「油断はしないことです」
 通信はそこで切れた。


                九


「引退……されるんですね」
 獅堂は静かに呟いた。
 オペレーションルームを出て、椎名と肩を並べて廊下を歩いている時だった――何も言おうとしない椎名の心中が、胸に沁みるような気がした。
「ああ」
 穏やかな肯定が返ってくる。
 不思議と驚きはなかった。
 いつか、――それも、きっと遠くない未来、こんな日が来ることが判っていたからかもしれない。
「家族のため、ですか」
 椎名は、何も言わない。
 獅堂も、それ以上何も聞けなかった。
 空が好きで――空に憧れてパイロットになった。けれど、知っている。いつまでも出来る仕事ではない。体力、気力、そして年々急激な速度で進化していくハイテク化に対応する能力……。
 それらの内、どれかひとつ欠けても、空の現代戦を勝ちぬいてはいけない。
 殆どのパイロットは、進退を自らの意思で決める。メイン推力がジェットエンジンからフューチャーに切り替わった時、パイロットの3分の1が引退を決めた。
 誰もが、いつかは辿る道。獅堂にもいずれ、その時は来る。遅いか早いかだけの違いだ。
 けれど――。
 獅堂は、わずかに眉を曇らせる。
 椎名は、まだ、引退を決めるには若すぎるような気がする。
「時々……手が痺れるんだ」
 ふいに、椎名が口を開いた。右腕を持ち上げ、その特手首あたりに視線を落としている。獅堂には、一瞬、その言葉の意味が理解できなかった。
「……二ヶ月ほど前からかな、……医者に行ったが、神経痛の一種だと言われた。極度の緊張状態が続いたことが原因らしい。今のところ操縦に支障はないが、多分、来春の健康審査でエリミネートされるだろう」
「そんな――」
 獅堂は、動揺して言葉を失った。
「そうなる前に、自己申告して花道を飾ることにした。かっこ悪いからな、エリミネートなんて」
「待ってくださいよ、別の医者には行ったんですか、治る可能性は、本当にないんですか」
「あいつさ、泣くんだよ」
 追いすがる獅堂に、前を行く椎名は、低い声で言った。
「自分が、パイロット辞めて、地上勤務に変わるって言ったら、泣くんだよ。あいつ」
「…………」
 椎名の妻。
 旧姓、倖田理沙。
 気が強くて、姉御肌で、それでいて、――結構もろくて、色んな事を我慢していただろうと思う。獅堂が知っている倖田理沙とは、そういう女性だ。
「今まで、泣き言ひとつ言わなかった理沙がさ。肩震わせて、顔くしゃくしゃにして……泣くんだよ。その時、思った。こんなになるまでこいつ、ずっと我慢して、待っててくれたんだなって」 
 椎名の拳が、胸元で握られる。
「オデッセイに戻ってからは、殆ど地上に戻れなかったからな。よくて、月に一度……くらいだったか」
 連日のホットスクランブル。加えて演習、そして後輩の指導―――この一年、椎名がオーバーワーク気味だったのはよく知っている。
 それに、獅堂が引き起こした事件の後始末。家庭を顧みる暇など、おそらくなかったはずだ。
「最近な、空にいても、やたらあいつと、子供の顔が目にちらつくんだ。前はそんなこともなかった。どんなに気がかりなことがあっても、――あいつの出産が迫ってる時だって、コックピットに座った瞬間何もかも頭からすっ飛んでた。いや……パイロットなんて、そんなものだ」
 そうじゃなきゃ、駄目なんだよ。
 振り返った椎名の口元には、苦い微笑が浮かんでいた。
「獅堂、俺は空を捨てる。このミッションが、お前と一緒に飛べる最後になる」
 空を、捨てる。
 椎名の言葉が、いつまでも胸に残る。
 空を捨てる、捨てて、一体椎名に何が残るのだろうか。
 家族……。
 それが、自分の翼と引き換えに得たものであったとして――決して後悔しないと言い切れるのだろうか。
 獅堂には判らなかった。
 夕方から、アラートにつく事になっている椎名と、ゆっくり話す時間はもうなかった。
 椎名は腕時計に目をやり、一瞬躊躇したが、立ち止まった。
「真宮楓のこと……だがな」
 突然、その名を出され、獅堂は一瞬狼狽した。
「まだ、……忘れられないか?あいつのことを」
「………」
「忘れることだ」
 ひどく断定的な言い方だった。椎名らしくない、冷たさすら含んだ響きだった。
「残酷なようだが別れたことは間違いじゃない、自分は今でもそう思っている。あの時のお前たち二人は若すぎた。いい意味でも、悪い意味でも」
「椎名さん……」
 椎名の口から、楓と自分のことを、直接言われたのは初めてだ。
 しかも何故、こんな時に。獅堂は戸惑い、立ちすくんでいた。
「……蓮見のことだ。室長が植物状態だった時、あの男は、ずっとNAVIの病院に貼りついてたらしい。あいつ、言ってたよ。今、傍にいてやらないと、室長が――二度と戻ってこなくなるような気がしたって……野生のカンだな」
 椎名は、淡々とした口調で続ける。
「蓮見は何もかも棄てた、――でも、お前には空を捨てることができなかった」
 獅堂は無言でうつむいた。
 それは――もう、何度も何度も繰り返し考え、何度も何度も悔いたことだった。
 自衛隊を辞めて、一民間人として、楓の傍にいてやることができれば――あるいは、あの顛末だけは避けられたかもしれないのに。
「…………」
 獅堂が黙っていると、ぽん、と優しい手に肩を叩かれた。
「勘違いするなよ、自分はその選択が謝っていたとは思ってない、むしろ、正しかったとさえ思ってる」
―――正しい……?
 意外な言葉に驚き、獅堂は、ふと顔を上げる。
「地上に降りれば、お前は、生涯後悔を背負って生きることになる。そのことを――お前も、そして真宮楓も判っていたはずだ」
 椎名の声が、静かに胸に落ちてくる。
「……自分を犠牲にして一緒にいても、結局は駄目になっただろう。ジレンマだ。それは、二人で成長しながら乗り越えていくしかない。……お前はな、……まだ、子供だったんだ、獅堂」
「…………」
「お前に真宮が抱いていた孤独は支えきれない、それと同じように、真宮も、お前の失った翼の代わりにはなり得ない……それはな、今、真宮が戻って来たとしても、何も変らないと思うよ、俺は」
 椎名は言葉を切り、そこでひとつため息をついた。
「でもな、獅堂、俺たちの翼は永遠じゃない。力を失ったあと、自分に何が残るのか……お前もそれを、考える時期にきてるんじゃないか」


 

 

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