六


「点滴を受けながら眼が醒めるというのは憂鬱なものです。昔……こんな風に目覚めたことが、一度だけあります」
 鷹宮の静かな声が、緩やかな風に流れていく。
 思いのほか風は穏やかで、午後の陽射しは暖かかった。
 獅堂は、数歩先を進む鷹宮の背中を見つめていた。
 病棟の屋上は、鷹宮と同じ衣服をまとった入院患者と、その家族とおぼしき人が、いくつかのグループを作って点在している。
 十月も、今日が最後の休日となる。
 空は高く、つき抜けるほど青かった。むしろ黒ずんですら見えるその青さに、獅堂はふと、眩しくなって目を逸らした。
 時折聞こえる子供の歓声以外には何も聞こえない。静かすぎる空間が、広がっている。
 歩きながら、獅堂は上着代りに引っ掛けていたシャツを脱いだ。
 鷹宮は、薄手のガウンを肩に掛けている。
 先だって歩く形良い背中が、意外なほど痩せて見えた。
―――鷹宮さん、
 獅堂は思わず声を掛けたくなって、その衝動を気恥ずかしさと共に飲みこんだ。
 何故か、このまま鷹宮が、ふいに遠くに行ってしまうような気がした。
 傍らのベンチに、胸に幼子を抱いた女性が、うつむいたまま座っている。女性の隣には二つか三つの幼児が座り、小さな足をばたつかせている。
 何気なく獅堂が目をやると、どうやら授乳の最中らしかった。
「幸せな情景ですね」
 鷹宮の背中が、呟いた。
 そのまま、屋上の端まで行きついた。
 眼下に広がる広大な敷地が見渡せる場所で、二人は立ち止まり、同じ空に視線を馳せた。
「先日、テレビで……こんなニュースを耳にしました」
 遠くを見たまま、鷹宮は、まるで独り言を言っているような口調で続けた。
「一ヶ月の乳児と、三歳の幼児、彼等の母親が二階で共に就寝していました。深夜、その家から出火し、火は、あっという間に二階の彼等を取り囲んだそうです」
「…………」
―――何の話だろう……。
 黙ってそれを聞きながら、獅堂はわずかに眉を寄せる。
「母親はベランダに顔を出したものの、結局は逃げ切れませんでした。下では、飛び降りろ、と近所の人たちが大声で呼びかけていましたが、母親は飛び降りることができなかった。―――焼け跡からは、母が、二人の子を庇って、折り重なる様に焼け固まった焼死体が見つかりました」
 獅堂は目をすがめた。
 地上を離れていると、世間のニュースがひどく遠いものに感じられる。余りに哀しく、痛ましい話だと思った。
「私は、こう考えます。もし、あの場にいたのが、母親ではなくプロのレスキューだったとしたら」
 鷹宮は、まだ、遠くを見つめたままだ。
 ひどく寂しい横顔だった。
「一ヶ月の乳児の脳は、ベランダから落ちる衝撃に、おそらく耐えられないでしょう。その意味では、すでに、ベランダ以外の逃げ場を失った時点で、乳児は死んだものの見なすべきだった」
 鷹宮は――何が、言いたいのだろう。どうしてこんな話を続けたがるのだろう。
 獅堂は、わずかな不安を感じて唇を引き結んだ。
「でも、三歳の子供なら、十分に生存できる可能性はあった。母親はこうすべきでした。一ヶ月の子を諦め、三歳児を抱いて、ベランダから飛び降りるのです。そうすれば、むざむざ3人もの犠牲者を出さずにすんだ」
 そして鷹宮は、初めて獅堂を振り返った。
 見下ろす眼には、感情を押し殺した冷たさがあった。
 獅堂はただ、戸惑った。
 それは、そうだ――そうかもしれない。でも、
「母親は……プロのレスキューじゃない」
 獅堂は、言葉のひとつひとつを、慎重に選びながら口にした。
「その状態で、冷静な判断なんて、誰にだって出来ないです。それに、」
 二人の子のうち、一人を切り捨てることが――。
「母親に、そんなことができるなんて、思えない」
「その母親が、訓練と実績を積んだ、プロのレスキューだったとしたら、どうでしょう」
「…………」
「彼女は、この状況をどう乗りきるべきか知っていた。だとしたら、……どういう選択をするでしょうか」
 それでも。
 獅堂はうつむき、そして苦い思いで口を開いた。
 子を産んだことのない獅堂には、判らない――でも、愛する者を見殺しにできない気持ちだけはよく判る。
「子供と……その場に、残るしかなかったような気がします…」
「それが、真っ当な神経を持つ、人の親の取るべき道でしょうね」
 微かに笑い、鷹宮は頷いた。
「一人のレスキューマンがいました。彼は、その道にかけては徹頭徹尾プロだった。常に状況を冷静に分析し、一人でも多くの人命が助かり、かつレスキューに、決して二次被害が及ばない方法を選択した。……彼の判断は、時として非情であっただけに、プロとしては、彼の右に出るものはいませんでした」
 一際強く吹いた風が、鷹宮の柔らかな髮を揺らした。
「ある日、いつものように深夜勤務を終え、帰宅した彼のアパートの前に、黒山の人だかりができていました」
 火災でした。
 そう続けた鷹宮の頬骨に、睫が彩る影が瞬く。
「彼には妻と、小学2年生の長男を筆頭に、3人の子供がいて…、燃盛るアパートに取り残されたのは、不幸にも彼の家族だけでした」
 獅堂は、鷹宮の次の言葉を待った。しかし、鷹宮の横顔は動かなかった。堅く引き結んだ唇が、何か内面にこみ上げてくるものと、闘っているように見えた。
「彼は、人の親としての道よりも……プロの、レスキューマンとしての道を選びました」
 それは、鬼にしか出来ない命の選択でした。
 そう言ったきり、黙ってしまった鷹宮の背中を、獅堂はただ見つめた続けた。


                 七


 風が、少しずつ肌に沁みはじめていた。
「鷹宮さん……」
 獅堂は鷹宮の背中に声を掛けた。
 その隆起した肉体をかすめるようにして、風が、鷹宮の体臭を運んできた。それは、薬の染みた、病を患う者特有の香りを含んでいた。
 獅堂は胸の底から涌き出てくるような、かすかな不安を呑み込んだ。
―――鷹宮さんは……本当にただの、過労なのだろうか……?
「鷹宮さん」
 もう一度、今度は強い口調で呼び、動かない男の腕に手を添えた。
 指先に触れた肌は、氷のように冷たい。
 その冷たさに、心臓が一瞬止まったような衝撃を感じた。
「部屋に戻りましょう、鷹宮さん。体に障ります」
「大丈夫ですよ」
 軽く首だけ傾けて、鷹宮は薄く笑う。
 それまでの、鬼気迫る――とでも言うべき気配が、その瞬間すうっと消えた。
 そして、穏やかな表情が戻ってくる。
「せっかく来てもらったのに、つまらない話をしましたね」
「いえ……」
―――それは……。
 プロに徹したレスキューとは。
 鷹宮の父のことなのだろうか。室長を助けるために、死んでしまったという。
 だとしたら、火災に巻き込まれた家族の中に、鷹宮も含まれていたことになる。
―――父親に、選択された子供というのは、では……。
獅堂は、その残酷な想像に、ただ、眉根をきつく寄せてうつむいた。
 それ以上は、聞けないような気がした。
 胸に抱いた暗い炎を吐き出すような、鷹宮の告白。それを――受けとめられる、それだけの自信が、今の獅堂にははない。
「獅堂さん、あなたはいつまで、青い光を待ちつづけるつもりですか」
 階段を降りる途中、背後で鷹宮がふいに言った。
 屋上にいた時と打って変わったような、穏やかな口調だった。
「待ってる……ように、見えますか」
 苦笑して、獅堂は答えた。
「今日、滝沢にも同じようなことを言われましたよ。待つとか、待たないとか、もう自分は、そんなことに拘っているつもりはないんですが」
「滝沢君は、なかなか面白い子ですからね」
 鷹宮が笑う気配がする。獅堂はようやくほっとした。
「あいつ、自分に、楓を待っててやれって言うんですよ。ガキのくせして生意気っていうか」
「彼は、あなたと真宮君の関係に……きっと、何かを見出そうとしている」
「……え?」
 獅堂は立ち止まった。
 思わず振返ったとき、背後の階段、その数段上にいた鷹宮の影が、ふいに被さってくるような気がした。
 反射的に伸ばした手が、鷹宮の腕を抱いていた。
「………」
 薄い衣服を通して、はっきりと感じられる筋肉の硬さ。
 身構える暇もなく、ごく自然にまわされた腕に、腰を抱かれ、引き寄せられた。
「た……」
 抗議の声より早く、唇が、寄せられる。
 しかし、それは、頬に触れる寸前で、不思議な静かさで止められた。
「……無防備にも、ほどがありますよ」
 冗談めいた笑いを浮かべ、鷹宮は、すっと手を離した。
「私が結婚するからって、気を許しちゃいけません」
「………」
 獅堂はそれには答えず、鷹宮から眼を逸らすと先だって歩き始めた。
 本気なのか、嘘なのか。誤りなのか、真実なのか。
 鷹宮はいつもそうだ。こういう人だと判っている。それなのに、今日はむしょうに、からかわれた事が腹立たしい。
「もう、忘れることです。過去のことは」
 静かな声がした。
 獅堂は足を止めていた。
「滝沢君は、何か広いヴィジョンで、あなたたち二人の邂逅を待っている。そこに何かしら、大きな意義を見出そうとして――でも、私は違う」
「………」
「私は、あなたのことだけしか考えていない」
 深く胸に沁みる、優しさの溢れた声。
「どこに居ても、あなたの幸せを祈っています」
 振り返れなかった。振り返れば、そのまま、抱きしめられてしまうような気がした。
「忘れることです、過去のことは。私も忘れます、まだ……、多少の努力は必要ですが」
―――結婚、おめでとうございます。
 獅堂は、掠れた声でそれだけ言った。
「お幸せに、なってください」
「あなたも」
 

 

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