三
「鷹宮さん」
申し訳程度に病室の扉をノックして、獅堂はすぐに扉を開けた。
都内にある国立の総合病院。
一年前の事件の後、獅堂も何日かここに入院していたので、勝手はよく判っていた。
「獅堂さん」
「おう、獅堂」
ベッドに半身を起こし、微笑している鷹宮。
そして、その傍らに腕組みしたまま立っている椎名。
二人が同時に声を掛けてくれる。
「あれ、椎名さんも?」
獅堂は少し驚いて、眼を見開いた。
椎名が休暇を取っていたことは知らなかった。が、自分に許可が降りたくらいだから、椎名もまた、休みを取っていたとしても不思議はない。
「なんだ?お邪魔か?」
椎名は腕を解き、彼らしからぬ悪戯めいた眼差しになった。
「ばっ……、椎名さんまで、そんな莫迦なこと言わないでくださいよ」
獅堂は、扉を後ろ手に閉め、持ってきたものを出そうかどうか躊躇した。何の気なしに買ってきたものだが、椎名の前となると、さすがに少し気恥ずかしい。
「いい、匂いがしますね」
鷹宮が微笑んだまま、そう言った。
「さ、差し入れです。あ、違う、お見舞い」
獅堂は、小さな花束を差し出す。
途端に椎名が吹き出した。
「お前……たかが花ひとつに、何赤くなってんだよ」
「べ、別に、こういうシチュエーションに慣れてないだけっすよ」
そういいながら、獅堂は、ますます自分が赤面していくのを感じた。
何か、いつもと勝手が違う。
鷹宮が――あまりに静かな表情を浮かべているからかもしれない。
「ありがとう、後で看護士さんに頼んで、飾ってもらいますよ」
鷹宮が腕を伸ばしたので、獅堂は、その傍に、少し躊躇しながら歩み寄った。
「何の花でしょう。いい色ですね」
「はぁ……」
何の花かは、知らない。
それより、薄いモスグリーンの病院服から伸びた腕。その、意外な白さに獅堂は驚いていた。
「鷹宮さん、過労だって聞きましたけど……」
「ええ、少々無理がたたったようで」
鷹宮はそう言って、額にかかる前髪をかきあげた。
いつも、一部の隙無く整えられている髪が、額に無造作に零れ落ちている。それが鷹宮の顔を、いつもより幼くさせていた。
「夜遊びがすぎたのかな、いい加減年を考えなきゃいけませんでしたねぇ」
そう言った鷹宮は、普段とおりの表情で楽しそうに笑う。
が、ずっとオデッセイに常勤だった鷹宮が――夜遊びなどする間がなかったことは、獅堂もよく知っていた。
「倒れついでに、色々検査してもらってるんだとよ。な、」
獅堂の不安を察したのか、椎名が横から声をかける。
鷹宮は軽く頷き、
「今週中には退院です。余計な心配をかけましたね」
そして、また静かな眼で微笑する。
「はぁ……」
獅堂は、眼のやり場に困り、うつむいた。
今日の鷹宮は、妙に静かで、そして優しすぎる気がする。声も、顔も、しゃべり方も、笑い方も。
いつものように、クールに、辛らつに、からかったり誤魔化したりしてほしいのに。
「……確かに、ご結婚されるんなら、よく、調べてもらわないと」
そしてうつむいたまま、無意識にそんなことを口にしていた。
「結婚……」
椎名が呟く声がする。
「ああ、どこかのお喋りに聞いたんですね。滝沢君かな」
鷹宮は、少し意外そうな眼をしたものの、すぐにゆったりとベッドの背に身体を預けた。
「お、おめでとうございます」
「ありがとう」
さらりと、答えられる。
「鷹宮の嫁さんになるってのも、なんだか不幸な選択だよな」
苦笑交じりの、椎名の声がした。
「どういう意味でしょう。こんないい男をつかまえて」
「よく言うよ、自分で」
獅堂はただ、黙っていた。
二人の会話が、味気なく意識の表面を滑っていく。
―――やっぱ、真面目に結婚するのか……。
心のどこかで、否定して欲しいと思っていたのかもしれない。
鷹宮への微妙な感情は、一年前にきっばりと棄てている。
なのに――これは何の未練かな、と思う。
椎名の結婚を聞いた時とはまた違う感慨。上手く――自分でも言い表せない。
「青い光が、」
鷹宮の声が、獅堂を我に帰らせた。
「青い光が、現れたそうですね」
覗きこむように、綺麗な瞳が自分を見つめている。獅堂は唇を引き結んで頷いた。
「ええ、今、筑波のリサーチセンターで、映像の科学分析をしてもらってます。ロシア政府の許可が降りなくて……結局、現場には飛べなかったんですが、映像だけは入手できましたんで」
「NAVIにも調査を依頼中だ」
椎名が付け加える。
「獅堂と海域ぎりぎりまで飛んでみたけどな、残存物質は何もないようだった。探査衛星に残された映像が全てだ」
「どんな?」
「光が……」
獅堂は、会議室で見た映像を思い出すように眼をすがめた。
「海上からふいに現れて、一気に加速するよう膨らんで、そのまま……」
生命を持ったもののように、上空に消えていった。
「どう思いましたか?」
鷹宮の問いかけに、獅堂はただ、首を左右に振った。
「ただの自然現象かな、と思いました、あれが真宮だったら……あまりにSFじみてますよ、現実には有り得ない」
自然現象、軌道を外れた衛星の墜落。今まで、疑惑の持たれたケースは何度かあった。
無駄な期待は、もう、したくない。
「万が一、あれが……例の光と同じものだったとしても……」
椎名が唇を軽く噛み、少し言い悪そうに言葉を繋いだ。
「そこに、真宮兄弟が絡んでいると判断するのは、非現実すぎるだろう。現時点で、地球上のどの探査衛星も二人を発見していないし、彼らを保護したという報告もない」
「これだけ、世界中に監視の網が張られている上に、嵐は……ただの身体じゃない。二人が、地上にいるなら、とうに発見されているでしょうしね」
獅堂が後を続けた。
そうだ、と、自分に言い聞かす。
彼らは、戻ってきてはいけない、戻れない存在なのだ。あの時、地上を捨てざるを得なかったように。今でも、彼らの安住の地は地上にない。
しかも――嵐は、重症の病を抱えたままだ。
彼らが地上に戻ったとしても、その行く末に、明るい未来は用意されていない。
嵐は死ぬ。そして、楓は拘束される。
今、沈黙を保っているEUR、その代表科学者でもある姜劉青も、再び楓を狙って動き出すだろう。アメリカ合衆国も黙って見過ごしはしない。再び戦争の火種が地上に落ちる。
嵐と楓は――。
戻ってきては、いけないのだ。それが現実だ。
沈黙が、病室に落ちた。
四
「じゃあ、自分はそろそろ帰るかな」
椎名はそう言って、壁に寄りかかっていた身体を起こし、組んでいた腕をほどいた。
話もつき、というか、真宮兄弟の話題が出たことから、どことなく空気が湿ったものになっていた。
「あ、自分も、」
と言いかけた獅堂だが、椎名はそれを、どこか優しい眼で遮った。
「お前はもう少しいてやれよ、たまにしかない休暇だ。鷹宮も寂しいだろうし」
「はぁ、それは」
それはかまわないが、椎名の、どこか意味ありげな視線がひっかかる。
確かに休暇はたまにしかないが、来週には退院するなら、それほど別れを惜しむ必要もないのに――。
「じゃ、ゆっくりな」
獅堂が辟易していると、こちらを見ようともせずに、椎名は背を向け、そのまま足早に出て行った。
鈍い獅堂でも不審を感じるほど、妙に不自然な態度である。
―――気をつかわれた?
とでも言うべきなのだろうか。少しの間、閉められた扉を見つめた後、獅堂は急速に気恥ずかしくなった。
もしかして、椎名は――鷹宮と自分の間に起きた過去のあれこれを、聞かされているかもしれない、そう思ったからだ。
「ああ、えーと、……何か、飲み物でも買ってきましょうか」
「私はいりませんよ」
「あ、……そうですか」
鷹宮はベットの背に身を預け、片腕を立てて指で軽く顎を支えている。
怜悧で深い光を湛えた瞳。いつもより雰囲気が柔らかく感じられるのは、髪のせいだけではない。
「座りませんか?」
「え、あ、はい」
自分が立ったままだということすら、念頭になかった。獅堂はベット脇に置いてあるパイプ椅子を、少し、離してから腰掛けた。
「もう、体調とかはいいんですか」
「ええ、すっかり。後は検査だけですから」
鷹宮は笑う。その開いた襟元から、きれいなラインを描く鎖骨が眼に入った。
その肌が、やはり思いのほか白いのに、獅堂は少し戸惑っていた。
「結婚式って……いつなんですか」
「ああ、式は……」
鷹宮は、ふっと視線を窓の方に逸らした。
「式は挙げません、入籍だけですまそうかと」
「それは、……寂しいですね」
「女性からみれば、そんなものでしょうか」
「……まぁ、そんなものだと思います」
何を言ってんだ?自分は。
会話しながら、何故か戸惑いばかりが大きくなる。
「いや、本当言えば、戦々恐々としてるんですけどね」
こちらに向けた表情を崩して、鷹宮は笑った。静かな眼差しから、人をくったような、いつもの鷹宮に戻っていた。
「基本的に女性は苦手なんです。それに、あなたへの想いが断ち切れなくて」
「は……っ?」
獅堂は、げほげほと咳き込んだ。
ふざけているのか、本気なのか、感情の読めない瞳が、笑みを浮かべ、じっと見下ろしている。
「肝心な時にあなたの名前を間違って呼んだら、どうしようかと」
「な、何、言ってんですか」
咳き込みながら、眉を上げて抗議する。
「鷹宮さんが、自分の名前を呼んだことなんて、一度もないじゃないですか」
鷹宮は黙った。
―――あれ……。
男の表情に、真剣な影が落ちている。
―――何か……へんなこと、言ったかな。
自分が発した言葉の意味が判らず、獅堂もそのまま、黙ってしまった。
風の音だけが窓を揺らした。秋の終り、今朝のブリーフィングで、気象予報士から台風が近づいていると警告を受けたことを、獅堂はぼんやりと思い出していた。
「少し……外に出てみませんか」
やがて鷹宮が、静かな声で言った。