リーダー機である椎名機が、国際緊急周波数でメッセージを送信し続けている。
(――貴機は日本の領空を侵犯しつつある。ただちに退去せよ。)
(――ただちに退去せよ。)
 透明なキャノピーからは、鷹宮が操縦する二番機が、国籍不明の侵犯機に向かってボディランゲージを繰り返す光景が見えていた。
 翼を左右に揺すって――「退去せよ」のサインを送り続けている。
 侵犯機が、万が一国際周波を受信できない場合に備えてのサインである。
 それらの光景と状況を再認識しながら、獅堂は機体を左旋回に入れた。
―――落ち着け、……落ち着け。
 先ほどから、何度となく言い続けてきた言葉を繰り返す。
 動悸が苦しい。
 呼吸すら、まともに出来ているかどうか自信がない。
 ここは太平洋上空。高度三千フィートの超低空飛行の世界。
 旋回の度に、空と海が逆転する。
 まだ、手になじみきらない新型フューチャーSS機のトリガー。
 今、獅堂が乗っている機は、入隊以来慣れ親しんできたトムキャットやイーグルではない。
 日本の大学生、マミヤランという天才科学者が開発した……新型エンジン、フューチャーを搭載した、世界初の要撃型戦闘機なのである。
―――くそっ…。
 あまりにぎこちない旋回に、獅堂は思わず舌打ちした。
 信じられない、頭ではもっとスムーズに動けているのに!
『こちらリーダー機、鷹宮、右旋回でブレイクしろ!』
 椎名の緊迫した声が、ヘルメットに装着されたヘッドフォン越しに響いた。
 ブレイクとは、この空域から緊急に離脱しろという意味である。
『こちら二番機鷹宮、当機はブレイクせずに、一番機、三番機の援護に回ります、どうぞ』
 が、それに対する鷹宮の声は、不思議なほど落ち着き払っている。
『こんな経験、滅多にできるもんじゃありませんからねぇ』
 正直、いっぱいいっばいの獅堂には、ふざけているとしか思えないようなセリフだった。
『だったら、急上昇で高度三万フィートまで上昇しろ、後方上空から、もう一機こっちに来てるぞ!』
 椎名の声には余裕がない。
『おやおや、お仲間の到来ですか』
『獅堂、お前は、俺から離れるなよ!』
―――また来たのか!
 それは、獅堂機のレーダーにも映し出されていた。
 点滅しながら接近してくる四角いシンボルマークが――ひとつ。
 僚友機でも、識別された航空機でもない。明らかな――領空侵犯機のマーク。
 手袋の中で、指先が汗で濡れている。
 これで向こうも三機、こちらも三機になる。数の上では同等だ。しかし――。
 不利だ。
 獅堂は流れる汗に目をすがめ、前を行く椎名機の尾翼を見つめた。
 まだ、数にして三回目のテスト・フライト。
 はっきり言って、接近戦になった時のマニュアルはないに等しい。
 確かに、機体の性能だけを取れば、紛れもなくこちら側が上だろう。現時点で、世界最高峰の攻撃力とマッハを持つ最強の戦闘機。極秘裏に開発されたエンジンを搭載した最新型機。
 ただし、完成していれば、の話である。
 今、獅堂たち三人が機乗しているのは、試作品なのだ。
 演習飛行を繰り返し、少しずつバグを取り除いている最中なのだ。
 それは同時に、今までの操縦常識を覆す、フューチャーに順応するパイロットの育成も兼ねたものでもある。
 つまり、戦闘機も試作品なら、パイロットも試作品。
 航空自衛隊要撃戦闘機パイロット、中部航空方面隊百里基地第七航空団所属の獅堂藍。
 同じく同所属の椎名達彦。
 救難機パイロット、北部航空方面隊千歳基地第二航空団所属の鷹宮篤志
 新たに航空自衛隊の管轄部局として発足した、空の要塞オデッセイ。そのパイロットとして、最初に選ばれたのが、彼ら三人だった。
 オデッセイ正式発足前、三人に与えられた重大な仕事が、新型戦闘機、フューチャーのテストだったのである。
 そしてその日。
 いつもと同じ、三機でフォーメーションを組んでのテスト・フライトの最中に――椎名機のレーダーがそれを捕らえた。
 無許可の、国籍不明機二機。
 こうした場合、航空自衛隊である三人のパイロットが取るべき手段は決められている。
 警告を繰り返し――最悪でも威嚇射撃。
 いくら領空を侵犯されても、相手にあからさまな攻撃意思がない限り、決してこちらから攻撃してはならないからである。
 が、それは、実際の戦闘ステージになれば、極めて危険で、あまりにも非現実的な規則だった。
 仮に相手が攻撃意思を持って仕掛けてきたとしても、極端な話、相棒が撃墜でもされなければ手が出せない。それが日本が定めた専守防衛という理屈の現実なのである。
 最初に接近してきた侵犯機は二機。
 しかし、その二機は、ほぼ同じ速度で、高度だけをわずかに高く保ち、逆に獅堂たちを追って来た。警告しても、逃げるどころか、逆に影のように追ってくる。
『高度は上げられませんよ』
 鷹宮の声がした。
『わかってるよ、ちくしょう』
 椎名が答える。
 敵機に囲まれ、上から押さえつけられるようなフォーメーション。高度を上げれば、当然失速するから、急接近した機体同士が激突しかねない。
『みっともないが、今はケツを振って逃げるしかない、といっても、簡単には上に上がれそうもないがな』
 その声を聞きながら、今更のように、獅堂は思い出していた。
(―――新型機の情報は、極秘扱いだ。)
 テストフライト初日に現れた、右京という女性指揮官が、言っていた言葉。
(―――いいか、くれぐれも国籍不明の侵犯機に注意しろ、お前たちの情報は、常に狙われていることを忘れるな。)
 一見して、フャーチャーの外観は通常の戦闘機と変わらない。が、離着陸時、そして攻撃前後の加速と操縦方法に、革命的な変化がある。
 その手の内だけは――今、さらすわけにはいかないのである。
 いわんや、撃墜され、メインエンジンを奪われることだけは絶対に許されない。
『獅堂!何をやってる、高度チェック!』
 椎名の声で、獅堂ははっとして我に返った。慌てて高度チェックする。機体角度が下向きになりすぎている。
―――空間失調……、
 蒼い空と蒼い海。どこまでも続く青の世界。
 獅堂はぞっとした。このまま飛び続けていたら、確実にバーディゴーに入っていただろう。いや、すでに半ば入りかけていたのかもしれない。
 再度、椎名の怒声が耳元で弾けた。
『こうなったら、攻めて活路を作るしかない。交戦規則スリーだ、すぐに体制を整えろ』
『獅堂さん、いつもの演習と同じですよ』
 優しい響きを含んだ、鷹宮の声。
 違う。
 獅堂は額を冷たい汗が伝うのを感じた。
 初めて、人相手に、実戦を経験する。
 それが、これほどの恐怖を伴うものだとは、思っても見なかった。



 ……死ぬな。
 獅堂は氷のように冷めていく頭で、そんな不思議な思いにとらわれていた。
 延長線上に、確実な死があった。
 自分ではない、相手機の――パイロットの死である。
 獅堂機は、前方を低空飛行で旋回し続けている敵機を、完全にロックオンしていた。あとは握りこんだボタンを親指で押すだけだ。
 奇妙な現実感のなさ。たったそれだけのことで、人一人の命が確実に消える。
 椎名機が、右翼から白煙を上げて海上に降下していくのを視野にいれたのが――もう永遠のように遠い過去に感じられた。
 時間にしたら、一分にも満たないというのに。
『自分は大丈夫だ、敵をひきつけたまま、この空域を離脱する』
 が、すぐに届いた力強い声に、獅堂はほっと胸をなでおろした。あの程度の被弾なら――椎名であれば、乗り切れる。そう信じていたから心配はしていなかったが。
『鷹宮、獅堂を援護しろ、当機は電力保持のため回線を切る』
『了解』
「自分なら、大丈夫です!」
 2人の先輩パイロットの交信を耳にしながら、獅堂は叫んだ。
 鷹宮は、獅堂より五千フィート上空で、後から飛来した侵犯機を引きつけているはずだ。
 敵機、三機の内、一機はすでに消えている。おそらく椎名機を追ったのだろう。
 残るは二機、鷹宮が応戦している機と、獅堂がロックオンしている機。椎名を攻撃したのは、獅堂と対峙する機のパイロットだった。
 むろん、ロックオンしても、攻撃などできない。この場合、獅堂のロックオンには威嚇という意味しかない。
 椎名機が攻撃を受けた時点で、専守防衛の壁は崩れた――が、まだ、攻撃について政府の許可が降りないからである。
―――いつまで、こんな鬼ごっこを続けなきゃならないんだ。
 歯噛みするような気分で獅堂は思った。
 オデッセイとの回線は開きっぱなしだが、いまだに何の指示もない。
 緊張のあまり、汗が、額から目に流れ込む。
 ロックオンを維持したまま、敵の背後を確実に追い続ける。慣れない操縦席で、それは極度の緊張を強いられる作業だった。一瞬でも気を許せば間違いない、今度、攻撃されるのは自分の機である。
 獅堂は眼をすがめることで、滲む視界を拭おうとした。
 じりじりと――焦れるような思いでディスプレイのシンボルマークをじっと見つめる。
―――鷹宮さん……許可が降りたら、攻撃、できるのかな。
 そして、緊張の極みの中で、ふと、そんなことを思っていた。
 鷹宮とは、命を奪うことを、何よりも嫌う人だ。
 殺すより、救いたいと言った。そのために、あれだけの腕を持ちながら、第一線である戦闘機パイロットを選ばずに、救難機のパイロットとしての道を選んだのだ。
(――私は、臆病な人間ですから)
 そう言って微かに笑った、どこか影を含んだ横顔が思い出される。
『こちら、オデッセイの右京だ。リーダー機、応答しろ』
 深い低音がヘッドフォン越しに、ようやく届いた。
 ほっとしながら、獅堂は、ほとんど呼吸すら忘れている自分に気がついた。
 目の前には、左右に機体を振って、獅堂から逃れようとする侵犯機が見える。が、わずかでも気を許せば、逆の立場になるのは獅堂の方なのである。今は、それが現実で、それが全てだ。
『こちら二番機、リーダー機は右翼に被弾、西北に旋回して逃れました。パイロットは無事です』
 鷹宮の声がした。
 どうしてこの人は、こんなにいつも冷静でいられるのだろうか。そう思いながら、獅堂はリップマイクを素早く引き付けて叫んだ。
 何故――右京は、その一言を言わないのだろうと思いつつ。
「こちら三番機獅堂、攻撃許可を!」
『侵犯機の国籍は?』
「不明です。認識マークなし」
『機種はなんだ』
「ユーロF2000、かなりの改良型ですが、ベースは間違いありません」
 数秒間、じりじりするような沈黙があった。
「攻撃許可を!」
 獅堂はもう一度叫んだ。
 敵機が赤外線追尾式ミサイルを椎名機に向かって打ち込んできた時点で、本来なら交戦規則スリーは解除され、攻撃に規制はなくなるはずだった。
 しかし、このテスト・フライトにおける実戦は、すべてオデッセイの指示のもとに行うよう、フライト前から厳密に言い渡されている。この三機に、現時点でのトップレベルの国防機密が納められている以上、うかつに手の内をさらすことはできないからだ。
 それは獅堂も承知していた。
『浜松基地から要撃戦闘機部隊が緊急発進している』
 右京の声が、重かった。
『もう五分もすれば到着する。それまで持ち応えて、自己責任で戦闘ステージは回避しろ』
―――馬鹿な……。
 絶望的な思いに囚われながら、それでも、獅堂は力なく答えた。
「三番機、……了解」
 その一瞬。
 獅堂の追う侵犯機が、銀色の機体を翻し、旋回しながら急上昇に入った。
 判断と、トリガーを操る指先と、そして機体の反応に、獅堂が想定していたものと、0.1秒程度の誤差があった。
 それは致命的なミスだった。
 獅堂は右に急旋回し、すぐに急上昇してその影を追った。照準を外されれば、今度は逆に、侵犯機が、牙を剥き出しにして襲い掛かってくる。
 急激な旋回にGメーターの指針が跳ね上がっていく、4Gを越えた時点で、もはや首を振って相手機を確認することもできなくなる。
「くっそぉ…っ」
 腕がしびれ、汗が眼に流れ込む。息が詰まり、視界が狭窄していく。
 延長線上に見えた、確実な死の影。
 それは、自分自身に落ちてくるものだったのかもしれない。
『獅堂さん、攻撃しろ!』
 声が、聞こえた。
 レーダーは、まだ侵犯機を射程圏内にロックしている。
 鷹宮の声だ。鷹宮は今、どれくらい離れた場所にいるのだろう。そんなことすら判らなくなっている。
『自己責任とは、自らの判断で攻撃しろという意味だ、獅堂さん、撃つんだ』
「…………」
 判っている。いくら――機体の秘密を守るためとはいえ、撃墜され、メインエンジンが敵の手に渡るのではなんにもならない。
 自己責任、右京の言う意味は理解している。
 でも――。
 親指が、ミサイルの発射ボタンにかかっていた。押せばいい。力は、そんなに必要ない。
 相手が死ぬか、自分が死ぬか。
 互いに戦闘モードに入った時から、その先は見えていたはずだった。最初から、それだけの未来しか用意されていなかった。
 確実な死。
 殺すか、殺されるか。
 相手は何歳くらいだろうか、男だろうか女だろうか、家族は、恋人は、子供はいるのだろうか――。
 余計なことが、頭の中で膨れ上がっていく。
―――駄目だ……!
 その刹那。
 急上昇からさらに機体をねじるようにひねって、急降下に転じた侵犯機。
 開発途中の機体、そして訓練途中のパイロット。現時点の技術で確実に追尾することは不可能だった。
 そのわずか一秒にも満たない時間で、獅堂は自分の死を悟った。
 最後の引き金を引けなかった。それが全てだった。
『獅堂!』
 その声が、椎名のものか、鷹宮のものか、右京のものか…
 それすら、もう獅堂には判らなかった。
 獅堂―――
 獅堂さん……。
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