三
「通信が聞こえなかったか」
IDを読み取った電子ドアが開くや否や、半年前に再任された四代目室長、右京奏の冷ややかな声と視線があった。
獅堂はひやっとして姿勢を正した。確かに緊張感の欠けた態度で入室し、ここにくるまでの時間もそれなりにかかってしまった。
今回もまた誤報だろう、そんな気の緩みがあったのは確かである。
が、室内は異様な緊張に満ちていた。パソコンに張り付いて、リップマイクで忙しなく言葉を交わしている調査課の専門員。大きなディスプレイには、英字と暗号めいた数記号が途切れなく流れている。
獅堂にもすぐに、今回の召集が――いつもと違う、極めて緊迫した状況下でなされたものだということが理解できた。
「申し訳ありません」
椎名は、即座に姿勢を正して敬礼した。
右京はそれでも冷ややかな眼差しを緩めないまま、すぐに形良い背を向ける。そして、
「NAVIの動きはまだつかめないのか」
「すいません、もう少しかかりそうです」
パーティションの向こうから聞き慣れた若い声が返ってきた。そして、ひょいと姿を現した声の主を見て、獅堂は驚いて眉を上げた。
「滝沢……?」
滝沢が身につけているのは、事務用の制服ではない。獅堂たちと同じ、紫紺にエンブレムの入った、オデッセイパイロット用フライトスーツである。
その姿にも驚いたが、この――緊急呼び出しの場に、新人の滝沢が招集されたのもまた初めてのことだった。
滝沢は獅堂に目をやり、少しいたずらっぼい目になった。
「データの解析結果は、リサーチセンターにも転送してくれ」
右京は傍らの専門員に一言声をかけると、自らもテーブルに歩み寄り、開かれたパソコンに視線を落とした。
まだ、獅堂と椎名だけは、何が起こったのか理解できないままでいる。
が、疲労と苛立ちを滲ませた指揮官の横顔には、おいそれと声をかけられない雰囲気が漂っていた。
―――右京さん……。
その横顔を見つめながら獅堂は、いつものように、複雑な感情を覚えていた。
きっちりと襟の詰まったシャツにネクタイ、階級が刺繍された白のスーツ。ここにきて随分になるが、右京がその上着を脱いだ姿を、獅堂は一度も見たことがない。
鋭角に尖った頬から顎、冷たい目。
肩も腰も、上着を着ていてもはっきりと判るほど――少し心配になるくらい肉が落ちている。
―――身体の方は、大丈夫なのかな……。
この女上司が、約二年もの間消息を断っていた理由を知っている獅堂には、ここ最近の右京が、ひどく無理をしているように思えてならなかった。
陸海の幕僚からは、何かにつけて突き上げられ、空自からは蛇蠍のように嫌われているという。日本の防衛の顔となって、世界に対峙する――その心労がいかばかりのものか、一パイロットの獅堂には想像さえできない。
そのせいもあるのだろうか。本当にいきなり、天の要塞に戻って来た指揮官は、獅堂がよく知っていた頃の右京とは、何かが微妙に違っているような気がした。嫌な言い方をすれば、防衛庁の意図どおりに動く、忠実かつ冷酷な指揮官になってしまったようだった。
個を殺し、組織の中に、埋没してしまったようにさえ見える。
―――この人も……楓や、嵐と、同じはずなのに。
未練だと判っていても、つい、獅堂はそんなことを考えてしまっていた。
右京が、防衛局調査課の指示の元、兄弟二人を追う立場になったことが、まだ納得できないままでいた。
―――あいつらの気持ちを、……室長なら、判ってやれるはずなのに。
再任に先立ち、右京は記者会見を開き、そこで、ベクターであることを告白した。
その直後の騒ぎは、今思い返しても胸が悪くなるものだったが、騒ぎは、意外なほど早期に沈静化した。
世論が、右京の存在を支持しはじめたからである。
故右京総理の人気が、死後になって再燃したのも大きかったのだろうが――、やはり台湾有事時、右京がとった行動や判断が、近年、評価されつつあったのが一番の要因だった。
右京を、再びこの地位に押し上げた者の動機がなんであれ、確かにそれは、彼女自身の身柄を守る意味で、最も安全な方法だったと、獅堂は思う。
いくら特異な体質を持っていようと、すでに日本の顔となった女に、どの国も手を出すことはできないからだ――。
楓が――この世界で、どうしても掴めなかった居場所を、右京は自らが戦って勝ち得た。
そして今、自らの保身のため、右京は――かつての同胞を切り捨てるつもりなのたろうか……。
―――莫迦なことを……自分は、
右京には右京の考えがある。そう思い直し、獅堂は苦く唇を噛んだ。
いずれにしても、獅堂の指揮官への信頼は変らない。それだけは確かで、隊に従事している以上、大切なのもそれだけだ。
立ったままの獅堂の隣に、すっと近寄ってきた滝沢が声をひそめて囁いた。
「もしかしたら、今日はアニバーサリーになるかもしれませんよ」
「どういうことだよ」
獅堂は眉をしかめたが、滝沢は、横顔で微笑してくれただけだった。
その滝沢に、パソコンを叩きながら右京が声を掛ける。
「滝沢、二人にフライトコースを説明してやってくれ」
まだ何が起きたかも説明されていないのに、いきなりフライトコースもないだろう。さすがに獅堂はむっとしたが、
「……滝沢も、今回はパイロットとして現地へ飛ぶということですか」
初めて口を挟んだのは椎名だった。
「鷹宮の代わりだ」
右京の答えはあっさりとしている。
獅堂は、今度は本当に驚いていた。
「ちょ……、ちょ、待ってくださいよ、鷹宮さんの代わりって」
唖然としつつ思わず反論してしまうと、黙したままの右京に代わり、
「俺だってフューチャー対応機の操縦資格くらい持っますよ。元々俺、東大で、嵐さんとフューチャーの開発に加わってたんすから」
滝沢がむっとしたように口調を荒げる。
「いや、でもな」
獅堂はただ困惑した。
いくら、操縦資格があるといっても――こんな、素人を。
「獅堂一尉、今、そんなことはどうでもいい」
手元のパソコンを叩きながら、そう口を挟んだのは、先ほどからリップマイクでどこかと連絡を取り合っていた本庁派遣の専門員の一人だった。ずっと英語だったから、無論獅堂にはその意味が判らなかったのだが。
降矢龍一。
冷たい目をした男である。ここでは、ある意味右京より恐れられている男。
口髭を生やし、やや長めの髪は、天然なのか緩いウェーブがかかっている。いつも暗い色身のスーツを着て、正直、若いのか年なのか判らない。
右京がいなければ、実質彼が特務室のリーダーになる。噂によると本省では有名な――生え抜きの諜報員で、入庁以来、ずっと電波部通信課で勤務していたという。
何カ国にもわたる言語を母国語レベルで喋れるらしいが、実は日本語が喋れないんじゃないか――と獅堂などは皮肉なことを思ってしまう。
とにかく無口。彼が右京以外の人間と喋ることは殆どない。たまに聞く口調はいつも抑制されていて、言葉に、まるで感情が伴っていないように思える。
その降矢が顔をあげ、いつものような感情のない目で右京を見上げた。
右京と降矢。
見ようによっては、ある意味、ものすごく雰囲気の似通った二人である。そして、見るからに相反した――上司と部下。互いに信頼しあっているようには、どうしても見えない。
なのにこの長身強面の男は、いかなる時でも右京の傍から離れないのである。
「情報分析終了しました。データ的には、ほぼ、七割の確率で一致しています」
「そうか」
「転送します」
立ったまま画面を見つめる、右京の眼は冷静だった。そして、ゆっくりと顔を上げ、後から入ってきたパイロット二人に視線を向けた。
「つい数分前、北アメリカ航空宇宙防衛コマンドから連絡が入った。今から一時間前、オホーツク海、日本領海ぎりぎりのポイントで」
この瞬間を、次に出るはずの言葉を、かつて、獅堂はずっと期待していた。そして、今では、――複雑な思いを抱くようになっていた。
まさか。
獅堂は、とっさに握り締めた自分の手が震えるのが判った。
「台湾有事に現れたそれと、同レベルのエネルギーを持つ青い光の集合体が現れた。現在、ロシア空軍が海域を封鎖して調査中だ。――長官がロシア政府と折衝しておられる。許可が得られしだい、我々も現場へ向かう」
淡々と言う右京の声が、ひどく遠くに聞こえていた。