act2 「現在と過去」


                  一


「またラーメンか、相変わらず身体に悪そうなもん食ってるな」
 獅堂は箸を止めて、声のする方に視線だけ向けた。
 見なくても、やや高めのハスキーな声だけで、誰が近づいて来たのかすぐに判る。
「っす」
 獅堂は軽く頭を下げ、同期入隊した元同僚――今は、目上の存在となった男に目礼した。
 二年前、オデッセイに新たに増設された要撃戦闘機チーム、白虎。 
 そのリーダー、名波暁――二等空佐は、鷹揚に頷くと、当たり前のように獅堂の対面に腰を下ろした。
 白虎のメンバー二人が、その後に続く。
 まだ何か続けたそうな名波から視線を外し、獅堂は傍らのコップを手に取って口をつけた。
 現在、獅堂の階級は、七波より二段階下の一等空尉である。
 パイロットとしての獅堂は、名波など問題にならないくらいの実績と評価を得ている、が、防衛大卒で、防衛庁幹部を父に持つエリート――名波暁は、階級面で獅堂を遥かに飛び越えてしまっていた。
 オデッセイ。
 昼時のランチルームは込み合っており、さざなみのような微かなざわめきが絶えなかった。それが、獅堂と名波が同席したことによって、一瞬だけ沈黙に変わる。
 獅堂藍と名波暁。
 空学以来の犬猿の仲――。
 誰もがそう思っていたし、実際、今でも、相性的には最悪の相手である。獅堂がそう思う以上に、おそらく名波もそう考えているはずだ。
「鷹宮さん、元気か」
 割り箸を割りながら、名波が言った。
 その口調に、軽い挑発がこめられている。
「さぁ……自分も最近は会ってませんから」
 それが挑発だと判るから、獅堂は何気なくやりすごす。
 長身の名波は、椅子に腰掛けても、獅堂を軽く見下ろすほど背が高かった。
 色白の肌に薄紅の唇、やや険のあるきつい眼差し。それが、じっと、獅堂の内心を探るように見つめている。
 冷たい沈黙の後、サラダを口に運びながら名波が言った。
「最近、よく地上に降りてるみたいだな、鷹宮さん」
「……そうみたいですね」
 その理由は、先週聞いたばかりだった。
 鷹宮の結婚。――しかしそれを、無責任な伝聞として言うつもりはない。
 当の鷹宮は、先週からずっと休暇を取っているらしい。
「マジで、何も聞いてないのか」
「……知らないっすよ」
 鷹宮の話題になると、いつものことだが、名波はむきになって絡んでくる。
「誤魔化すなよ、どうせプライベートで会ってんだろ?」
「いや、会うことはないっすよ」
「おいおいおい、とぼけるなよ」
 ただでさえ聞き取りやすい名波の声が、一段と大きくなった。
「お前が、いつ鷹宮さんのものになるかって、随分前から基地内の噂の的だぜ?何をいまさらもったいぶってんだ」
 獅堂はただ溜息を吐き、冷めた丼をトレーに乗せた。
 ランチルーム中の隊員たちが、聞き耳を立てて静まり返っている。
 白虎チームの隊員二人が、名波につられたように強張った笑い声を漏らした。
「それとも、まだ昔の恋人に操でも立ててんのか。なんとか楓とかいう、頭のいかれた犯罪者によ」
「…………」
 黙っていると、名波は肩をすくめ、大げさに首を振った。
「よせよせ、一年以上も行方不明で、生きてたって刑務所行きだろ、そんな男、もういい加減に忘れちまえよ」
 獅堂は少し顔を上げ、じっと名波の顔を見つめた。
 ただ、静かに見つめていると、男の怜悧な瞳が、わずかに揺れる。
「な、何だよ、本当の話じゃないか」
「そのへんにしとけ、名波」
 凛と響く、豊かな低音の声がした。
 箸を止めた名波の、その白い顔が、たちまちぱっと紅潮する。
「椎名……一佐」
 近くにいた誰かが小さく呟いた。
 ランチルームの入り口に、椎名恭介率いる、チーム黒鷲の面々が立っていた。
 静まり返っていた隊員たちの間に、ため息にも似たどよめきが起こる。
 現在、オデッセイが抱える要撃戦闘機パイロットの中では最年長、最も信頼され、最も尊敬を集める男。
 椎名恭介。
 椎名は要撃戦闘機チームの編成隊長であり、有事には作戦の指揮にも当たる。オデッセイの中枢として、室長・右京の片腕とも言うべき立場なのである。
 昔と変わらず、可能な限り常に3人で行動を共にするチーム黒鷲。
 明神 小次郎。元千歳基地の要撃部隊編成部長。
 真田 謙信。元小松基地のエースパイロット。
 椎名率いるこの3人が揃って歩くと、誰しもある種の畏怖を覚えずにはいられない迫力があった。
「名波、……貴様、悪ふざけもたいがいにしろよ」
 真田の、怒りを含んだ声が響いた。
 名波は、憮然としてうつむいている。ここで素直に謝ったりしないのが、この男の――妙に性根の入っているところである。
 おそらく、自分の父親の立場や階級が、名波を支えているに違いない。
「まぁ、いいじゃないか」
 が、椎名は、厚い唇に、苦い笑みを浮かべて言った。
 そのまま、ゆっくりと、名波と獅堂が向き合う席に歩み寄ってくる。
「名波、お前はどうして、そういつも獅堂に絡むんだ」
「いや……別に」
 名波は、目を逸らしながら、やはりふてぶてしくそれに答えた。
「そんなに獅堂が好きなのか、こいつはかなり鈍いから、屈折した方法じゃ伝わらんぞ」
「は――はぁ?」
 叫んだのは名波だったが、それは同時に、獅堂の心の声でもあった。
―――し、椎名さん……知ってるくせに、言うにことかいて、なんつーことを……。
「小学生のガキだな、好きだからいじめたくなる」
 が、椎名はさらに追い討ちをかける。
 口の中で、何か意味不明の言葉を呟き、名波は紅潮した頬のまま立ち上がった。
「行くぞ!」
 慌てて、チームの二人が席を立ち、その背中を追う。
 失笑とどよめきがやがて引いて、ランチルームはいつもの賑わいを取り戻した。


              二


「驚きですよ、椎名さんが、あんな嫌味を言うなんて」
 獅堂は、食後のコーヒーを飲みながら、非難をこめてそう言った。
 対面に座る椎名が、少しだけ眉をしかめる。
「お前さ、ラーメン食った直後に、コーヒーなんて普通飲むか?胃が悪くなりそうだ」
「いやぁ、自分は雑食っすから」
「にしても、身体に悪いだろ」
「おやじくさいなぁ、椎名さん」
 笑おうとして、獅堂は、唇が動かないことに気がついた。
(――食パン一枚の朝食はやめとけよ。身体に悪いから)
 低い、抑制の効いたハスキーな声。
 あの夜の雨の音。
 笑顔、声、指の形。冷たかった肌の感触まで、昨日のことのように思い出せる。
「獅堂………?」
「あ、いえ」
 ぱちん、と自分の頬を叩き、曖昧に笑ったまま、獅堂は勢いよく残りのコーヒーを飲み干した。
「名波さんが自分に嫌味を言うのは……ほら、鷹宮さんのことがあるからなのに」
 そして、言い訳がましく呟いた。
 このあたりの名波の感情は――いまひとつ理解できないが、つまりはそういうことなのだろう。
 まだ名波は、鷹宮のことを慕っている。いや、それだけは――獅堂には計り知れない、男同士の世界なのだが。
「あんな風に挑発しないでくださいよ、後でねちねちやられるのは自分なんすから」
「ま……俺から見れば、名波が好きなのは、間違いなくお前だと思うがな」
 定食を食べ終わった椎名は、ナプキンで軽く唇の端を拭ってから、そう言った。
 げほげほと獅堂は咳き込む。
 真田と明神は、別のテーブルに座を取って、まだ食事の真っ最中だったが、彼らもわずかに苦笑しているようだった。
「そ、そりゃですね……多分、本気で嫌われてはないと思いますけど」
―――だからって、好きってのもないだろう、と思う。
 獅堂は軽く咳払いをした。
「とにかく、名波さんの意地悪は今に始まったことじゃありませんから、放っておいても大丈夫ですよ」
 答えの代わりに、沈黙があった。
「………?」
 獅堂は沈黙の意味をはかりかね、けげん気な視線を、椎名の端正な眼差しに合わせる。
 軽い苦笑の後、椎名は低く呟いた。 
「……いや、変わったな、と思ってな」
「変わった?」
 それは――自分のことだろうか?
 意味が判らず、獅堂はただ眉をひそめて椎名を見つめる。
「いや……」
 椎名は苦笑して、視線を逸らした。
「それよりお前、一度家の方に遊びに来いよ。せっかく東京に出てきたのに、獅堂が来ないって、理沙の奴、ぼやいてたぞ」
「自分は………」
 獅堂は、少し笑って、視線を下げた。
 うつむきながら、いつものように、胸の奥が締め付けられるような痛みを感じていた。
「自分は、……まだ、倖田先輩に合わせる顔がないっすから、自分のせいで、椎名さんは」
「まだそんなことを、あれはな」
「いや、言わないでください」
 椎名が言おうとしている言葉は、予測できる。
―――あれは、自分が決めたことだ。お前が気にする必要はない。
 そう言おうとしてくれたのだろう。
 今から約一年半前、真宮楓の国外脱出に絡み、獅堂は、重大な軍規違反を犯してしまった。
 自分だけで負える責任ならまだいい、――そこに、北條、大和、相原まで巻き込み、あわや、三人に、取り返しのつかない泥を被せる寸前だった。
 三人を救ってくれたのが――ここにいる椎名と、そして鷹宮だったのである。
 椎名と鷹宮。二人が、自らの管理責任だと上に直訴し、結果――。
 鷹宮はいったん辞表まで出し、椎名は、当然上がるべき役職を失った。減級処分と、昇進の見送り。それが椎名に与えられたペナルティだった。
「獅堂、理沙ならむしろ、喜んでるよ」
 コップの水を飲み干した後、椎名は静かな声で呟いた。
「喜ぶって……そんな、喜べるわけないじゃないっすか」
 夫の昇進がふいになって――それで、あの、勝ち気な女性が悔しがらないはずがない。
「いや……そういう意味じゃなくてな、」
 椎名の目が、ふいにすっとすがめられた。
―――椎名さん……?
「獅堂、実はな」
 右手首を震わす刺激と共に、小さな――ごく小さな発信音が鳴ったのはその時だった。
 腕時計型の通信システム。オデッセイクルーは全員、時計代わりにそれを右腕に装着している。
 音は、獅堂のものと、椎名のものと、鳴ったのは全くの同時だった。そしてそれは、二度、小さく鳴ってすぐに消える。
 即座に椎名は立ち上がり、トレーを持って振り返った。
「悪い、急な用事が入ったんで先に行く。ブリーフィングは、俺抜きで進めておいてくれ」
 背後の真田にそう言って、獅堂を見て目配せした。
 獅堂もまた、すぐに席を立って、椎名の後から歩き出していた。
 発信の音種だけで、それが何を意味しているのかすぐに判る。
「……また、衛星でも落っこちたかな」
 廊下を急いで歩きながら、椎名が、眉をしかめて呟いた。
「…………」
 獅堂は、何も言えなかった。そうであればいいと思うし、そうでなければいいとも思う。
「随分久しぶりの召集になるな、いつ呼ばれても緊張するが」
「…………」
「……光の巨人……か」
 椎名が呟いた、それが正式なプロジェクトチームの名前だった。
 真宮楓、嵐、姿を消した二人を探すために、立ち上げられた特別プロジェクト。
 オデッセイに備えつけられた特務室自体、そもそもこのプロジェクトのために作られた特別対策室なのである。
 一年半前、忽然と姿を消した真宮楓と嵐。
 公には、行方不明、とされているが、その実――彼等が大気圏を出て、外宇宙へ消えた可能性があることは――防衛庁の中では、極秘中の極秘扱いとされていた。
 目撃したのは、獅堂、鷹宮、そしてその場に居合わせた救出チームの面々だけ。
 全員に厳しい緘口令が引かれ、二人の兄弟は、崩壊した城――ヨハネ・アルヒデドこと姜劉青が所要していたノイシュバシュタイン城の崩落事故の際、行方が判らなくなった、という形で処理された。
 だから、今でも二人は――公式には、事故による行方不明のままなのである。
 その裏で、調査チームが、極秘裏にオデッセイ内に発足した。
 本庁防衛局調査課から派遣された専門員から成り、そして実地探査に向かうパイロットとして――獅堂、椎名がそのメンバーに選出された。
 オデッセイの新室長となった右京もまた、就任と同時に、そのチームにリーダーとして参加することとなっていた。
 獅堂も詳細は知らないが、同盟国である米国は無論のこと、事情を薄々察しているヨーロッパ、アジアの各国もまた、二人の兄弟を探すべく、独自に探索を続けているらしい。
 真宮楓が、行方不明のまま、日本の検察に起訴された理由はそれもある。
 日本政府は、もし――この地上のどこかで、真宮楓が発見されたら、国際犯罪条約により、強行に身柄を拘束するつもりなのである。
―――楓……。
 八方塞がりの現実を思う度、獅堂は胸が痛くなる。
 なんのために、日本政府が、アメリカが、――各国が、二人の探索を続けるのか、その理由はひとつしかない。
 世界は――核をも上回るエネルギーを秘めた、強大なあの光の力を、畏れつつも求めているのだ。
 戦争の道具として、いや、ベクターの大量死で急速にNAVIが失速した現在、国際取引の――最大のオプションとして。
 先ほど鳴った独特の呼び出し音は、プロジェクトチームとして、緊急召集されたことを意味している。
 チームが発足して約一年。緊急の呼び出し音が鳴ったのは、まだこれで三度目だった。
 パイロットである二人が呼び出されたということは――間違いなく、航空機で現場に向かわなければならないような、何かが起きた、ということである。
「鷹宮さん……」
 ふと、獅堂は呟いていた。
「ん?」
「あ、いえ、鷹宮さん、地上にいるのに……どうするのかな、と、思いまして」
 鷹宮もまた、チームの一員なのである。ただし、パイロットではなく、防衛庁からの派遣専門員、という身分ではあるが。
「さぁ……どうかな」
 椎名には珍しく、どこか曖昧な声が返ってくる。
 獅堂は少し不信を感じながらも、
「鷹宮さん、結婚されるそうですけど」
 ここ数日、胸の片隅に引っかかったままになっていた言葉を口にしていた。
「結婚……?」
 片眉だけ上げ、椎名は素っ頓狂な声を出した。
「椎名さんも、知らなかったんですか」
「いや……、そういや、断りにくい縁談が進んでるって言うのは聞いたことがあるけどな」
「そう……ですか」
 それも、獅堂には初耳だった。
「あいつ……ちょっと体調崩しててな」
「体調?」
 意外な言葉に、思わず大きな声をあげると、椎名は言いにくそうな目になって首筋を掻いた。
「まぁ、夜遊びがすぎたんだろうよ、地上で検査入院中なんだ。もしかして、それも結婚のためなのかもしれないが……」
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