Final  夢の終わり




                                     



                  

お父さん。
ようやく判りました。
私がなんのために、生まれてきたのか。





「そうだ、それを至急鷹宮に転送しろ、鷹宮はまだ沖縄だ、急いでくれ」
 それだけ言って、右京奏は少し急いで携帯電話を切った。
 携帯使用可、となっている通路とは言え、病院の中である。
 防衛庁から配布された緊急連絡用の通信機は作動させたままだった、が、右京は極力、地上ではそれを使わないようにしていた。
 今日のような休暇の日。
 こうして平服姿でいる間は、できる限り、周囲の者に注目されないよう努めているからだ。
 携帯を収めながら待合室に戻った右京は、少しだけ不審に思って腕時計で時刻を確認した。
 定期検診のために訪れた、東大医学部附属病院である。医師のはからいもあって、特別に右京一人のために、この時間は貸切になっているはずだった。
 簡単な予診のあと、大抵はCTスキャン、MRIと、ベルトコンベア―に乗せられるようにして次々と検査を受けることになるのだが、今日は、どういう事情か、三十分以上も、この人気のない待合室で待たされている。
「…………」
 オデッセイへ向う定期便は、午後二時には新東京国際空港から離陸する予定だった。
 午後は、すでに予定が山積みだった。隆也・ガードナーを巡る調査は、今、大詰めの段階を迎えようとしている。実際、一刻の猶予もない。
 右京は、すでに本庁から内々に解任を申し渡されていた。新任の室長が派遣される前に、なんとか先手を打っておかないと――。
「…………」
 あの男はどうしているかな、とふと思った。
 結婚している相手を、あの男、というのもなんだが、もう、一ヶ月以上会っていない。
 右京の夫、蓮見黎人。
 これもまた右京が内々に知っていることだが、来春、蓮見は、警視庁捜査一課に異動になる。当の本人が知らないことを、右京が知っているというのも妙だから、それは一言も漏らしてはいないが。
 距離は近くなる、が、捜査一課の忙しさは右京もよく知っている。四月になれば、ますます二人にとってプライベートな時間はなくなるだろう。
―――このままで……いいのだろうか。
 右京は、ふと目を細めてそう思っていた。
 何かを求めて、再び天の要塞に足を踏み入れたはずだった。そしてその何かは、いずれ達成されるだろうという気がする。
 が、……本当にそれが、自分の戦う目的だったのか、と今はどこか判らなくなりかけている。
「蓮見さん、一番の診察室に入ってください」
 ふいに、扉が開いて、すっかり顔なじみなった看護士から声をかけられたのはその時だった。




「妊娠されていますね」
 驚きは不思議となかった。まるで予想もしていなかったのに、信じられないくらい静かな気持ちだった。
「……今、8週くらいでしょうか、まだ、確定的にそうだとは言い難い状況ですが」
「…………」
 右京は黙ったまま、向かい合って座る医師を見つめた。
 死んだ父と、同じ年代の医師だった。いつも穏やかな喋り口で、決して感情を表に出さない人だった。が、その男が、今はわずかに眉をくもらせている。
 妊娠の告知というよりは、癌の告知のような――そんな空気が、二人きりの診察室にたちこめている。
 実際それは、ベクターの女性である右京にとっては、死の宣告と同じだった。
 かつて、大多数のベクターを一気に淘汰し、そして終焉を迎えつつある自殺種子HBH。
 それが今だ、ほぼ100%の確率で発症するのが、女性の妊娠時だからである。
「……蓮見さんのような避妊の方法で妊娠する確率は、ほとんどゼロに近いのですがね。奇跡のような受胎だと思います。いや……あなたのお辛い立場は、理解しているつもりですが」
 医師は、少し言いにくそうに口ごもった。
「どうしましょうか、あなたの身体のことを考えると、処置は一刻も早い方がいい。今、NAVIが開発した新薬で、HBHの発症は相当の確率で抑えられると聞いています、まだ落胆してはいけません」
 医師はそこまで言いかけ、わずかに口元をほころばせる。
「……そんな、目をしてはおられませんね」
 右京は頷いた。
 あれだけ畏れていたことが、今、現実として目の前につきつけられている。
 初めて父から、自らの身体の秘密を聞かされて――以来、ずっと怖かったことが。
 月経がきたときも、初めて異性に身体に触れられた時も、初めて――人を愛した時も。
 なのに、今、不思議なくらい怖さも恐れも、不安さえもない。
「紹介状を書いていただけますか」
 右京は静かな口調で言った。
 闘いだ。
 と、右京は思った。
 これは――新しい時代と私との、闘いだ。
「……どうなさいますか」
「その時がきたらNAVIのメディカルセンターへ移ります……HBHの治療も、出産も」
 医師は、暗い目になって黙る。
「全て、そちらでお任せしようと思っています。今までお世話になりました。お手数をおかけしますが、最後までよろしくお願いします」
 頭を下げながら、ようやく右京は理解した。
 この――戦いの果てにあるものを見るために。
 私は、このために、この世に生まれてきたのだと。




 マンションのエントランス前に立っている男を見て、右京はただ眉をひそめた。
「……よう」
 軽く手を上げたものの、男の目は完全に怒っている。
 その理由も全て、右京は知っているつもりだった。そして、その怒りを解く術がないことも。
「まるでストーカーだな」
 右京は素っ気無く言い、男の傍を通り過ぎようとした。
「理由を言えよ」
「手紙で送ったとおりだ」
「またそのパターンか、お前の考えはみえみえなんだよ」
 腕をつかまれる。
 その懐かしい温もりに、不覚にも胸が詰まった。一瞬、何もかも棄てて、その腕の中に飛び込んでいきたい衝動にかられる。
「……離婚してほしい」
 右京は、手紙で書いたのと、同じセリフを繰り返した。
「今度は、私自身の意志で決めた、悪いとは思っている」
「今度は何を抱えてる」
 意外なことに、蓮見の声はさほど怒ってはいなかった。
「何も……」
 逆に、右京は困惑した。むしろ、何もかも見抜かれているようで、その方が恐ろしかった。さりげなく視線を逸らし、掴まれた腕をやんわりと振り解く。
「何もない、ただ、少し一人になりたくなった」
「辞表、出したんだろ」
 隠してもいずれ判ることだろうとは思っていた。が、早すぎる。
―――桐谷さんか。
 右京は苦い気持のまま、眉をひそめて頷いた。
「仕事も辞めて、それで一体お前は、どうするつもりなんだ」
「…………」
 黙ったままでいると、蓮見が溜息をつく気配がする。
「もう一度聞く」
「…………」
「何を抱えてる、今度は一体何があった」
「…………」
 これが蓮見以外なら、百通りもの言葉で誤魔化す自信があった。いや、蓮見に対しても、そうできるとつい先ほどまで信じていた。
 なのに、ほぼ二ヶ月ぶりに対峙する夫を前に、不思議なほど何も言えなくなっている。
 同じマンションの住人が、いぶかしげに二人を振り返りながら、エントランスの中に消えていく。
「……とにかく、中で話そう。離婚届は持ってきてくれたのか」
 右京はなるべく冷静に言った。
 その瞬間、蓮見に殴られるかもしれないと思ったが、確かに怒りをにじませたものの、蓮見は何も言わなかった。




「結婚してる相手の部屋にあがるのが初めてってのも、なんだよな」
 靴を脱ぎながら蓮見がぼやく。
 その声を愛しく思いながら、右京は先にたって部屋にあがり、上着を脱いだ。
 地上に戻った時にだけ使う部屋。普段、右京家の世話をしている老婦人がまめに掃除をしてくれるため、いつ戻っても、綺麗に片付けられている。
「何か、作ろうか」
 と、つい普段の口調で言ってしまい、その緊張感のなさに、右京自信が呆れていた。
「……いや、いいよ」
 妙に静かな声だった。
 蓮見はそのままリビングのソファに座る。上着も脱がないまま、まるで他人の部屋に上がったような、いごこちの悪そうな顔をしていた。
「いつまで、仕事は続けるんだ」
「……今、桐谷さんに引き継ぎをしている。後任が決まり次第、ということになる」
「そうか」
 沈んだ声でそう言い、蓮見はスーツの胸ポケットから、茶封筒を取り出した。
 それは、そのまま、右京が手紙の中に同封したものだった。
 蓮見はそれを、テーブルの上に広げる。
「……書くもの、貸してくれ」
「…………」
 右京は無言で、棚の引き出しからボールペンを取り出した。
 座ったままの男が手を伸ばす。
 その指の一本一本が愛しかった。手も。
 顔も、目も。
 話し方も、うつむいた顔も。
 何もかもが、不思議なくらい。
「……下手な字だな」
「うるせぇよ」
 蓮見は、自分の名前を書き、そして、ポケットから取り出した印を押す。
「……書いたよ」
「ありがとう」
 折りたたんだ紙を手渡される。
 右京はそれを受け取った。冷静に受け取ったつもりで、指がわずかに震えた気がした。
「それ、いつ出すんだ」
「……明日……」
 オデッセイに戻る前に。
 そう言いかけた言葉が、何故か上手く繋がらない。
「………………」
 そのまま、片手で口元を押さえていた。
 ふいにこみあげてきた何かの感情に突き動かされ、男の傍らに立ったまま、動く事ができなかった。
「……言えよ、奏」
 声と、そして体温が近くなる。
「…………」
 信じられない。
 妙にぶれる自分の視界が。
「…………なんでそこで、お前が泣くんだ」
 それは、絶対に有り得ない。
 なのに、肩を抱かれて引き寄せられた途端、言い訳しようのないものが、一筋だけ頬を伝った。
「……俺は、そんなに頼りないか」
「………………」
 そうじゃない。
「俺は邪魔か」
 そうじゃない。
「………一人で、解決しなきゃ、いけないことなのか」
 そうじゃなくて。
 右京は唇を震わせた。
 ずっと張り詰めていたものが、あっけなく壊れそうになる。
「お前は帰ってくるよ」
「………?」
「お前は、絶対に帰ってくる」
 その言外にこめられた意味を悟り、右京は、はっとして顔をあげた。
「産めよ、反対なんか最初からしない、お前は元気な子供を産んで、帰ってくるんだ、そうだろう?」
 蓮見の目も、声も、全てを覚悟しきった人のそれだった。
 右京は逆に狼狽し、その視線から逃げようとした。
「…………桐谷さんか」
「東大病院のドクターからだ、お前を説得してくれって電話があった」
「………………」
「無駄だって、即座に切っちまったがな」
 その時の医師の驚きが目に浮かぶようだった。
 右京はわずかに笑い、そして、再び顔をそらしていた。
「連絡くらいあると思ってたが、まさか、離婚届が送られてくるとは思わなかった」
「…………悪かった……」
 蓮見の腕を振り解き、背を向けようとして、右京はそのまま床に膝をついた。
 立てなかった。足に力が入らない。
「お、おい大丈夫かよ」
 泡を食ったように慌てた蓮見が、膝をついて肩を抱き、「せ、洗面器……」ときょろきょろ周辺を見回している。
「……大丈夫……」
「え?」
 右京は無言のまま、男の胸に額をあずけた。
 ここが自分の居場所なのに、最初からそれは決まっているのに。
 どうしていつも、ここから――遠ざかろうとばかりしているのだろう。
「……相変わらず一般常識にうとい女だよ、ゴム印は受け取ってもらえねぇんだ、離婚届は無効だよ」
「知らなかったのか、先月法改正されて、印ならなんでも正式に受理されることになったのを」
「えっっ」
 蓮見が慌てて、右京がまだ手にしているものを奪おうとする。
「莫迦……嘘だ」
 ようやく右京は微笑した。
 そして、まだ震える指で、薄い紙を引き裂いた。
「……言ってもいいか」
「言えよ、最初から言えっていってるだろ」
「…………恐いんだ」
「…………」
「怖くなる、お前を失うことを考えると、……怖くて、後悔しそうになる」
 一度溢れた言葉は、あとは、堰を切ったようによどみなく流れていく。
「産むと決めた自分を……後悔してしまいそうになる、そんなのは私らしくない、そうだろう?」
「…………」
「……怖いんだ……蓮見……」
 ずっと堪えていた感情も、抑える術もないままに、溢れていく。
「……死にたくない…………」
「…………」
「死にたく、ない……生きたい……」
 強く抱き締められて、そのまま、流すだけの涙を流した。
―――蓮見……。
 愛しているから。
 こんなに、今、自分の命が、ここにいる命が愛しいから。
 生きたい、何年でも、何十年でも、この人と一緒に生きていきたい。
「死なないよ」
「…………」
 力強い声だった。
 まるで、それで何もかも上手くいくと、錯覚してしまいそうになるほど確信に満ちた声。
「お前は、死なない、お前はそんな病気にあっさり負けるような女じゃない」
 うん―――。
 震えながら、右京は頷いた。うん。
 肩を抱かれて、引き離される。額を合わせ、蓮見は力強い口調で言った。
「生きて帰って来い、右京奏!」
「…………」
「忘れるな、お前は自分の戦いに勝てる女だ、絶対に、負けない女なんだからな」




「……仕事辞めるんなら、一つだけリクエストがあるんだけど」
 髪を撫でながら、蓮見が呟いた。
「何……」
 その腕に頭を預けたまま、右京は目を閉じていた。
 初めての、一人きりではない寝室。けぶるような月が、静かに室内を照らし出していた。
 少しだけ眠たかった。不思議だった。今夜は――夢も見ずに眠れそうな気がする。
「髪、伸ばせよ」
「……髪……?」
 右京はわずかに目を開けて、少し上にある男の顔を見た。
 いつも短く切っている髪。それをどうこう言われるとは、思ってもみなかった。
「いや、今もいいんだけどさ、長いのが好きなんだ。こう……指にさらさらっと」
「…………ふーん」
 その、さらさらっと、に、ひっかかるものを感じ、右京は冷たい目色で男を凝視した。
「そういえば、どこかの誰かさんが、そんな綺麗な髪だったな」
 一瞬けげんそうな目になった蓮見が、たちまち狼狽を顔に浮かべる。
「…………えっ……いや、こ、小雪は関係ないだろ、この際」
「小雪さん?私は宇多田さんのことを言ったんだが」
「………………」
「決めた、髪は一生伸ばさない」
「ちょ、待てよ、な、何もそこまで……」
 莫迦男。
 右京は顔をそむけたまま、思わず含み笑いを漏らしていた。
「生まれる子供が不憫になってきた、こんな間抜けな男の遺伝子を受け継ぐことになるなんて」
「わ……悪かったな」
「しっかり教育しないといけない、私は教育ママになるかもしれない」
「……一人っ子はかわいそうだぜ」
「いいよ……できるだけ……努力する」
「どうした……眠いのか?」
「……うん…………」
 本当に眠かった。
 心地良い体温と鼓動を感じながら、右京は静かに目を閉じた。
 夢を……。
 随分長い、夢を見ていたような気がする……。



                  ※



――――ねぇ……麒麟の首は、何故長いの?

「ばーか、幼稚園で習わなかったのか、ほら、ああやって高いところの葉っぱを食ってるだろ?昔、キリンの首は短かったんだ。それがな、高いところのものを食べるために、ちょっとずつ長くなってな」
「そうじゃない、後天的に獲得した特長は遺伝しない。それは遺伝子学の常識だ」
「お、おい、子供に……なにも、そこまで説明しなくても、」
「進化に理由は存在しない。いや、あるのかもしれないが、それは、人には絶対に解明できないし予測もできない。とんでもなく無駄なものも、この世界には遺伝されて存在している。強い者が、便利なものが生き残るだけが進化ではない。共存できるものだけが、この世界で生き残っていくんだ」

――――共存ってなぁに?

「強いものと弱いもの、それぞれは、互いを意識しながら間違いなく相互に影響を受け合っている。それが人を進化させる。異種のものを排除する考え方は間違っている。人という種が、やがて訪れる滅亡の未来を生き抜く方法はそれしかない」
「あのなぁ……どうしてキリンの話が、そこまでとんでもなく飛躍するんだ、せっかく動物園に来てるっつーのに」
「そうだな、そろそろ休憩するか」
「よーし、じゃ、メシにするか、今日はお父さんが作ってきたからな」



                ※



「蓮見さん……」
 蓮見奏は、はっとして目を開けた。
 今のは……夢だったのだろうか。
 何の夢だったのだろう。
 自分の幼い頃の夢だったような気もするし――。
「奏、」
 手を握って、覗き込んでくれている男。
 生まれて初めて愛した男。
 どこまでが夢で、そしてどこまでが現実なのだろう。
 朦朧した意識の中で、右京はふとそう思った。
 ひょっとして、今までのことは全て、このわずかな間に見ていた夢なのかもしれない……。
「大丈夫か」
「…………」
 この手の暖かさと、そして力強さ。
 これだけは、確かな現実だ。
「……大丈夫だ」
 右京はようやく頷いた。
 唇から出た言葉は、風のように力なく流れていくだけだったが、見下ろす男の顔に、確かな安堵の色が滲んだ。
「こっちじゃ、無痛分娩が普通なんだってな、よかったな、痛くないそうだぜ、全然」
「…………」
 握られている手に、力を込めて、わずかに頷く。
「……傍にいてやりたいけど……お前が断固拒否してるって言うから」
「当たり前だ、あんな所を人に見られてたまるか」
 思わず強い言葉が漏れた。
 ようやく、男の顔に微笑が浮かぶ。
 その手から、指から伝わる温もりが、今、生きていることを確かに実感させてくれた。
 そう、これが確かな現実だ。今が、生きてきた全ての証。
「……楽しかった」
 蓮見を見上げながら、右京は自然に呟いていた。
「なんだよ、それ」
「……自分の人生に、あんな時間があるなんて想像してもいなかった……ありがとう」
「…………」
「本当に……ありがとう」
 めくるめくように過ぎていった数ヶ月、あれは――本当に現実のものだったのだろうか。あんな日々が、本当に自分に訪れてくれたのだろうか。
 朝、一緒に目覚めて、なんでもなく過ごす一日に、かけがえのない幸せがあることを、どうしてそれまで気付かなかったのだろうか。
 がつん、と額を叩かれて、唖然としたのはその時だった。
「莫迦野朗」
 いっそう強く手を握られて、恐い顔に見下ろされる。
「そんなセリフはな、八十、九十まで生きて、棺桶に入る前に言いやがれ」
「……そうだったな」
 その根拠のない自信に、どれだけ救われてきただろう。
 苦笑して、最後に軽く唇を合わせた。
「待ってるからな」
 右京は頷き、その長い指を口元まで持ってきて、唇を寄せた。
「蓮見さん、その髪、邪魔になるから結んでおきましょうね」
 背後から、看護士が近づいてきて、伸びすぎた髪を結ってくれる。
 扉が目の前に迫っている。
 心配そうに見送る人々が、しだいに遠ざかっていく。
 大丈夫だ、私は絶対に。
 絶対に――生きて、戻ってくるから。




「大丈夫だ、蓮見さん、ミセス奏は、確かにHBHを発症しているが、今の医療水準なら、高い確率で症状の激化を抑える事ができる」
 蓮見は閉められた扉を見ながら、背後に立つレオナルドガウディの声に頷いた。
「100パーセントの保証ができないのが残念だ、出産後の治療を考えると帝王切開も不可能だった……この出産さえ、無事に乗り切ってくれれば……」
「わかってるよ」
 蓮見は振り返り、大丈夫と言いつつどこか不安気なレオの肩を軽く叩いた。
「あいつはこんな所で死ぬような女じゃない」
「蓮見さん……」
「あいつは絶対に帰って来る、自分自身の戦いから」



 HBHの医療チームに合流するために階段を降りながら、レオナルド・ガウディはふと思った。
 これからの世界は、どうなっていくのだろう。
 真宮博士の予言どおり、ベクターと在来種、二つの異種は競争的共存状態に入った。
 ベクターは、ゆるやかに、ではあるが自殺種子の洗礼を乗り越え、少しずつ増殖を続けている。
 これから、平行線グラフのような種の繁栄が続くのかもしれないし、そうでないかもしれない。
 異種の者との相互作用により、人という種の細胞内部は変わっていく――それは、はるか未来、どのような進化を人類にもたらすのだろうか。
―――その答えが……
 宇宙へ生きる道を見出そうとした研究者たちの、求めていたものなのだろう。
 この――確実に滅亡することがわかっている、青い惑星から飛び立つ事ができない人類が……。
 人という種が持つDNA――その、自己複製体としての生命の宿命が、宇宙を目指すのは必然とも言えるのだから。
 その意味で、ベクターの完全体と呼ばれる蓮見奏が、在来種との間に子供を設けたことは、一種のパラダイムシフトと言えるだろう。
 生まれてくる子供に、どんなDNA配列が隠されているのか、正確には誰も予測できない。生物の進化の過程における突然変異が、誰にも予想できないように、である。
 特に、人類にとって、全く未知の遺伝子をもった蓮見奏の子供ならなおさらだ。
 が、実際のところ、蓮見奏が無事に出産を終える可能性は、その夫に告げるには極めて残酷なほど低かった。おそらく、どちららかは――。
「…………」
 院内用の携帯電話がポケットでふいに鳴る。
 それを耳に当てると、階下で待機している男の声が耳元で弾けた。――何やってんだ、莫迦、早くもどってこい。
 こんな言い方をするのは、今のNAVIには、たった一人しかいない。
「オーケー、今行く」
 レオは苦笑して電話を切った。
 最悪の結末を予想したレオは、すでに母子を対象としたSPBの専門チームも待機させていた。
 それは、蓮見奏も、そしてその夫も承知している。
 なのに、不思議なほど悲愴な雰囲気はそこにはなかった。先ほどの電話の声――今や医療スタッフの実質的なリーダーとなった真宮楓とはじめ、誰の目にも、この闘いを勝ち抜こういう熱い意気込みが溢れている。
 奇蹟か……。
 新しい種が誕生する時に、必ず起こる淘汰の波。
――――それを……生き残るか、どうかは……。
「神のみぞ、知るか」
 レオは微笑した。
 予測はできない。
 人が持つ生の力とは、決して人の力で把握できるものではないのだから。
 いずれ、獅堂藍も、真宮楓の子供を産む時がくるだろう。
 新しい種との、共存と繁栄。
 その遥か未来に――人は……。
 行く事ができるのだろうか。
 あの空へ。
 天空の彼方へ。







 私は……夢を見ている……。
 長い長い夢だった……。





―――奏、お前は絶対に子供を産んではいけないよ。
―――どうして……?


「血圧、下がってます」
「蓮見さん、しっかりして、大きく息を吸って、吐いて」


―――お前はね、普通の身体ではないのだよ。
 お前の身体はね、子供を授かったと同時に、病気になってしまうのだよ。
―――死ぬの……私……?



「胎児の心音が聞こえません」
「危険な状態です」
「バイタル低下、心拍が平均を割りました――呼びかけにも答えません」
「蓮見さん、しっかりして!」



―――死ぬの……私……?



「蓮見さん、しっかりするの!あなたが諦めたら、お腹の赤ちゃんも死んじゃうのよ!」
「自然分娩は無理です、帝王切開に切り替えますか」
「心肺停止――蓮見さん、蓮見さん!」






――――死にはしないよ。



 お父さん……。



―――奏、人が、自らの遺伝子を後世に残そうとするのは、人の持つ種としての宿命のようなものだ。


 お父さん……。


―――お前もいつか、誰かを愛し、その人の子供を産みたいと願う時がくるだろう。それは人として当然の願いなのだ。だから私は、あえて、この事実を公表しないと決めた。


―――その時を恐れてはいけないよ、奏。


―――人の生きる力は、意思の力は、誰にも予測することはできないのだから。
 



「まて!胎児の心音が」



 私はこの夢から目覚める。
 この終りのない悪夢の終焉が、すぐ目の前に迫っているから。
 光。
 私を見つめる人々、待っているあなた――光。
 光、ただひとつの希望。
 この子はきっと、人類の希望、新しい時代の……。



「……パラダイム……シフト……」


「今、何か言いました……」
「戻りました……、心臓、血圧とも、あがっています!」
「奇蹟だ……有り得ない……」
「あと少しだ、頑張ろう、みんな!」



 歓声が聞こえる。新しい命の声が聞こえる。
「右京さん」
「室長!」
「奏、」
「蓮見さん」
 獅堂がいる、楓もいる、嵐も――鷹宮も、そして。
 眩しい光、目も眩むほどの――
「よくやったな」
 この手のぬくもりと、確かな声。
「もう休んでいいんだぞ。目が覚めたらな、これまでと違う毎日が待ってんだ、今はな、ゆっくり休んでいいからな」
 頷いて、右京はゆっくりと意識を手放す。
 もう、戦いは全て終わったのだから。
 もう二度と、あんな悪夢は見ないのだから。
 そして、新しい時代がくる。


 誰も予測さえできない。
 新しい、世界。
 新しい……命の戦い。
 目が覚めたら。
―――目が、覚めたら……。





























天空の彼方 完








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