エピローグ




                                     



                  一  




「獅堂、少しいいか」
 右京に直接呼ばれたのは、随分久しぶりのような気がする。
 定刻より遅れ気味でブリーフィングに向かおうとしていた獅堂は、少し驚いて足を止めていた。
 オデッセイ。
 通路ですれ違いざまに声をかけられ、獅堂は右京の自室へ招きいれられた。
 相変わらず、女性らしさの欠片もないプライベートルームである。というより、生活観さえ感じられない。
 見渡す限り書棚が並び、中に収められているのは電子ファイルと書物ばかり。
「……どうした」
「あ、いえ」
 まぁ、獅堂も人のことは言えない。
 獅堂の場合、その本すらない、まさに何もない部屋なのだが……。
 室内の中央に備えつけられた、いかにも来客用の応接セット。
 そこには、意外なことに先客が座っていた。
「よう」
 ソファにふんぞりかえったまま、煙草を口元から離し、軽く右手をあげたのは桐谷だった。
「お久しぶりです」
 獅堂は内心驚きながら敬礼する。
 あの事件以来だから、もう二ヶ月ぶりになる。
「元気そうだな。死にかけたわりには」
 桐谷は、再び煙草を口にはさみながら、そう言ってにやっと笑った。
「お、おかげさまで」
 どうもあれ以来、いや、そもそも昔から、獅堂はこの男が微妙に苦手だ。苦手というか、色んな意味で警戒している。
 少し身を引いて、獅堂は右京を見た。
 右京は自分の机――プライベートルームにもかかわらず、執務室と同じ机に座り、すでにパソコンを開いている。
 ということは、自分に用があるのは右京ではなく、どうやらこの桐谷らしい。
「なんですか、今から演習コースの確認なんですけど……」
 先にブリーフィングルームに行った大和と北條が、多分苛々しながら待っているはずだ。
 そのまま机の上に視線を落とし、獅堂はふと眉を上げた。
 防衛庁公式の辞令書である。その中ほどに右京奏という字を認めた時、桐谷の手が、その紙をひょい、と掴み上げた。
「右京、交付式は省略だ」
 桐谷は立ち上がり、それを無造作に右京のデスクに放り投げる。
 右京はわずかに目礼を返したようだが、反応はそれだけだった。
―――右京さん……また、出世でもすんのかな。
 獅堂が、そう思った時、
「で、獅堂、お前にちょっと相談なんだが」
 桐谷は軽く咳払いして、言った。
「相談……っすか」
 首をひねりながら獅堂は気が付いた。桐谷の咥えている煙草には、火がついていない。
 どうやら最初から、火をつけずに唇に挟んでいただけらしい。
「お前、四月には百里に戻ることになりそうだが……それは知ってるな」
「はぁ」
 その異動は、後輩に道を譲るつもりもあって、獅堂自ら希望したことでもあった。
「で、住むとこはどうすんだ」
「ああ、前のアパート、相変わらずかりっぱにしてんで、そのへんは」
「……あの部屋だがな」
 再度咳払いをして、桐谷が続けた。
「あの部屋?」
 獅堂は眉をしかめる。
「お前と真宮兄が住んでいた部屋だ。防衛庁で買い取ったのはいいが、買い手がつかない」
「はぁ」
「バイオシャワーの一件を近所に見られたのがまずかったかな、何か、事件があった部屋だと思われているらしくてな」
「…………?」
 桐谷は何が言いたいのだろう。獅堂は首をかしげる。
「で、お前よかったら、もう一度そこに住まないか」
「えっ」
 一瞬驚いて、
「無理ですよ」
 獅堂は即座に答えた。
「あのマンション、意外に高いんです。楓は特許成金だから、ああいうとこ、あっさり買えたりもしますけどね。自分にはとても」
「何も買い取れとは言わん、賃貸で、家賃は給料からさっぴいてやる」
「それにしても、安くはないですよ。だいたい独身で住むには広すぎて」
 桐谷は、再度軽く咳払いし、腕を組んだ。
「実はな、装備局の開発計画課に、臨時のSEを、一人いれることなってな」
「はぁ」
「フューチャーを民間航空機に搭載していくにあたって、システム変更できる人材が早急に必要でな。滝沢のバカはあっさり辞表を出しやがるし、嵐の復帰もまだまだ先になりそうだし、で、レオナルド会長に頼んで、優秀な人材を一人、週に二日程度、派遣してもらうことになった」
「……?」
「つまり、そのエンジニアがこっちにいる間だけ、その部屋を使わせてやればいい。家賃は二人で折半する、ということで」
 どうだ?と、覗き込むような目で桐谷が言う。
 獅堂は、不審を感じつつ右京を見て、驚いた。
 視線はパソコンに向けたままだが、右京は明らかに笑いを噛み殺している。
―――室長……?
 こんな上司の表情を見たのは、正真正銘初めてだ。
 獅堂は、ますます困惑しつつ、首をひねった。
「それは……まぁ」
 思い出がある部屋ではあるし、住むことには抵抗がない、ただ――他人が一緒となると。
「楓に、一応断っとかないと……」
 右京が急に吹き出した。獅堂がびっくりして顔を上げると、
「鈍いのも、いい加減にしろ!」
 桐谷に、背中を思い切り叩かれた。




                 二




 軽く息を吐いて、獅堂は駅の構外へと続く階段を駆け下りた。
 頬を刺す外気はまだ冷たい。暦では、冬はとっくに終ったはずなのに、外には小雪がちらついていた。
 戻り寒波って奴だな。
 獅堂はフライトジャンバーのポケットに両手を入れながらそう思った。
 この寒さが過ぎれば、待っているのは本格的な春の陽射しだ。
 長かった……。
 本当に長い冬だった。
 でもそれも、あとわずかであっけなく終わる。
 冬は――人生の冬は、きっとまたくるけれど、もう、憂う必要はない。
 知っているから。それを乗り越える術も、そしてその先に新しい世界が待っているということも。
 階段の下には、見慣れた街並みが広がっていた。
 夕暮れ。
 駅周囲は仕事帰りのサラリーマンで溢れている。
―――あいつ……このへんに、適当にいるって言ってたけど。
 不安にかられて視線を巡らせたが、目指す相手はすぐに見つかった。
 歩道沿いの銀杏の木の下、少し前かがみの姿勢で立っている。――黒皮のハーフコートに身を包んだ長身の男。
 男はポケットに両手をつっこんだまま、寒そうに白い息を吐いていた。
「よう」
 駆け足で歩み寄った獅堂は、そう声をかけて、右手を上げた。
 一瞬動きをとめた男が、静かに振り返る。
 その目を、薄茶色のサングラスが覆っている。
 顔をあげた楓はサングラスを外し、ふと眩しげな表情になって、きれいな眼をすっと細めた。
「悪い、待たせたな」
「俺も今来たから」
 会話はそれだけで、すぐに楓は足元の鞄を持ち上げ、歩き出した。
 傍目にも重たそうな旅行鞄。そして、相変わらずの細い手首。
 ベクターが力持ちなのは知っているが、つい、自分が持ってやろうか、と、声をかけてしまいたくなる。
「いつまでこっちにいられるんだ?」
「さぁ、状況しだいだろ」
「そっか、1日くらいゆっくりできたらいいな」
 そう言いながら、獅堂は自然に足を早めた。いつも楓と外出する時の癖――が、今日の楓の歩調は、逆に驚くくらい緩やかだった。
「…………」
「何?」
「あ、いや」
 こういった人ごみの中では、いつもなら、肩を並べるのさえ嫌がられるのに――。
 目線が同じすぎて、逆に獅堂が恥ずかしくなる。
「……なんだか、久しぶりに会うような気がしないか?」
「久しぶりなんだよ、実際」
 言葉少なに言って、楓はぶるっと肩をすくめた。
 よほど寒いのか、口を開くのもおっくうそうな感じだ。
―――そういや、こいつ、寒いのが苦手だったっけ。
 沖縄育ちのせいか、極端な寒がり屋。そんな子供っぽい癖は昔のままだ。
「……ひょっとして、結構待ってた?」
「結構待つほど、暇じゃない」
「ふーん、」
「なんだよ」
 指に触れるコートがすっかり冷え切っている。
 ちょっと笑って、獅堂は前に視線を戻した。
 駅から続く商店街。どこかから賑やかな音楽が流れてくる。道は、通勤帰りのサラリーマンに混じり、買い物にきた主婦などでごった返していた。
 その流れにそって、二人は肩を並べて歩き続けた。
「あの部屋さ、少しは家具とか、揃えてくれてんだろ」
 歩きながら、楓が言った。
「え、……ああ、まあ、少しは、な」
「……頼むよ、おい」
「人は、住めると思う、うん」
 帰国した旧姓国府田――遥泉ひなのと、何故か出てきた宇多田天音、蓮見小雪コンビにも手伝ってもらって、なんとか様になった気はする。
「人って、まさか原始人を基準にしてんじゃないだろうな」
 楓が、疑心に満ちた目をこちらに向けた時だった。
 すれ違う女性の二人連れが、ふいに、その視線を楓に向けた。
 えっ、誰、あの人、芸能人?とでも言いたげな目が、完全に楓の横顔を追っている。
 こういう時、獅堂はちょっぴり複雑な気持ちになる。かっこよすぎる恋人を持つのも中々やっかいなもんだな、と思ってしまう。
 まぁ、それを言うと、確実に楓の機嫌が悪くなるから言わないが。
「さむいなー、こっちは」
 楓が肩をすくめ、少し身体を寄せてきた。
 本当にガキだな……と、思いつつ、獅堂はその冷えた手をとって、自分のポケットに入れてやった。
「あのさ」
 即座に楓の声がした。
「ん?」
「………その男らしい発想、嫌いじゃないけど」
「え?」
 ため息と共に、楓の手が引き抜かれ、逆に獅堂が手首を握られる。
「こっちが恥ずかしくなる、ほら」
 そのまま手を引っ張られ、今度は楓のコートのポケットに、二人の手が納まった。
「こうしてりゃ、俺も少しは男にみえるだろ」
 からかっているのか、本気なのか判らない横顔。
 うわ。
 なんか、これって、恥ずかしいっていうか……なんていうか。
 こ、この年になってされることでもいなような気がする。
 そ、そっか。
 自分はいつも、無意識にこうやって、楓を恥ずかしがらせていたわけだ。
「……わ、わかった、悪かった」
「何が」
「手、離していいか」
「だーめ」
「…………」
 冗談めかして言う言葉とは裏腹に、絡んだ指には、確かな力が込められていた。
 繋がった部分が、次第に暖かさを取り戻して行く気がする。
「なぁ」
 ちょっと照れて、獅堂は頭を掻いていた。
「なに?」
「えーと……」
「なんだよ」
 こういう時の、こんな気持ちを、普通はどういう風に言えばいいんだろう。
 幸せだって、
 一言で言うのとも少し違う……。
「なんだよ、はっきり言えよ、言いかけって気持ちわりぃ」
 楓の声が不機嫌になる。
 獅堂はちょっと困りつつ、天を仰いだ。
 それから、横目で、これから同じ部屋に帰る恋人を見る。
 どうみても長時間、あの場所で待っていたとしか思えない、凍えた肌、冷えた吐息。
 獅堂は、笑った。
「今夜の晩御飯、何にする?」
 楓の冷たい横顔が、拍子抜けしたようにふっと崩れた。
「……現実的な女」
 そして、
「なにか、あったかいもの食べたいな」
 数年前、獅堂が言ったセリフを真似て、きれいな八重歯を見せて笑った。






























エピローグ 終








 >>最終回「夢の終わり」 >>back>>天空目次