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                  七


 その部屋に入った瞬間、冷気に全身を包み込まれたような気分になった。
 白い、水蒸気のようなものに覆われた、メタルシルバーの細長い球形。
 獅堂はそれが、――SPBのカプセルだと知っていた。
 背後で、同行してきた滝沢が息を呑む気配がする。
 獅堂は、カプセルにそっと歩みより、水蒸気に覆われているその透明な表面を、指先で拭った。
 どこか幼さの残る寝顔だった。
 優しい角度を描く眉。閉じられた目。が、そこだけ強い意志で引き結ばれた唇。
―――……嵐。
 獅堂は、言葉にせずに呟いた。
 覚悟していないわけではなかった。それでも、目の奥が熱くなっている。
「嵐、お前……」
 声に出して、呟く。
 生きている、生きているんだな。こうやって、こんなになって。でも。
 でも、生きていてくれるんだな。
「嵐さん……」
 滝沢の声も、滲んでいる。
「嵐さん、俺、頑張ったよ。自分の力でここまでやってきたんだよ」
 獅堂も頷く。頷いて、微かに震える滝沢の肩を抱く。
 そうだ。嵐。
 自分たちは頑張ってる。お前の力なんてもう頼らなくてもいい世界に、きっとしてやるよ。
 だから。
 安心して起きて来い。戦って、絶対に勝て。
 その病気に。



                 八

   
 
「鷹宮さんのお部屋は、すぐ隣です」
 廊下に出たところで、そこで待っていてくれたレオナルド・ガウディがそう言ってくれた。
「……どうされますか?」
 レオの問いに、滝沢が、躊躇うような眼差しで振り返る。
 獅堂は首を左右に振った。
「いや……自分はいいです」
 きっと、鷹宮は見られたくはないはずだ。理由は判らないがそんな気がする。
「そうですか」
 予想していたのか、レオは静かに微笑んだ。
「……それがいいでしょうね」
 明るい色のスーツのせいか、今日のレオはどこか優しげに見えた。
 いや、もともと優しい笑顔の似合う男だった。
 ベクターを守るため――彼らの代表として、常に自己武装せざるを得なくなった時から、影をまとったような冷たい視線を身につけたのかもしれない。
「お聞きになりたいことが、色々あるでしょうね」
 前を歩きながらレオは言った。少し寂しげな口調だった。
「……僕は、楓を幸せにしてあげたかった。それだけです」
「……判っています」
 獅堂は言った。それだけは、最初から判っていたし、今でも心の底から感謝している。
「今、楓は、ドクターの診察を受けてます」
 レオの口調が、ふっきれたように明るくなった。
「事故の後遺症の有無と、帰国に耐えられるかどうかの最終検査です。それが終わればすぐに呼びましょう。もう僕の役目は終わった。楓はあなたにお返しします」
 獅堂は何か言おうとしたが、上手く言葉にならなかった。
「それまで、これを読まれておくといい」
 そう言って足を止めたレオは、上着の内ポケットから、白い封筒を取り出した。
 あて先も何もない、眩しいくらいに白い封筒だった。
「これは……?」
「ラブレターですよ。獅堂さん」
 獅堂は眉根を寄せる。レオは笑った。
「鷹宮さんに頼まれました。時期を見てあなたに渡して欲しいと」



                 九



 天井のガラスを通して降り注ぐ陽射しが、心地よく肌をなでる。
 獅堂は――いつだったかここで再会した男がそうしていたように、仰向けになったまま、黙って空を見上げていた。
 ガラス越しに、四角く切り取られた青空。
 そして、ふと思った。
―――ここで、こうして……。
 いつもお前は、この空を見ていたのか。
「…………」
 獅堂は眼を閉じた。
 そして、ふいに込み上げる激情に、静かに耐えた。
―――鷹宮さん。
 熱くなった瞳の奥から、溢れ出してくる感情の波。
―――鷹宮さん、鷹宮さん。
 手紙を読んでいる途中から、もう、冷静ではいられなくなっていた。
 でも読み終えて、暖かな感情が静かに胸を満たしていくのを獅堂は感じていた。
―――自分は、最後まで……。
 あなたに支えてもらった。
 あなたに救ってもらった。
 そして、これからもあなたは。
 枯れ木を踏みしめる足音がする。
 獅堂は眼を開け、半身を起こした。
「…………」
 こちらに近づいてくる長身の人影。
 白いシャツに、褪せたジーンズ。染め直した黒い髪と――漆黒の瞳。
「よう」
 一瞬驚いたような眼をしたものの、真宮楓は、微かに笑って、そう言った。
「おう」
 獅堂は少し、戸惑いながら、それに答える。
 そして、慌てて顔をそむけ、目を拭った。
「そこ、俺の指定席なんだけど」
 からかうような声と共に、隣に腰を下ろす男。
「……今は……自分が……」
 笑って言葉を返そうとして、それができなかった。
「…………」
「…………」
 楓が肩を抱いてくれる。
 獅堂は目を閉じ、その肩に額を預けた。
「…………」
「……俺も、背負うよ」
「…………」
「……お前が今思ってること、……俺も、一緒に思っててやるから」
「…………」
 うん。
 獅堂は、ただ頷いた。
 うん……そうだな、楓。
「……莫迦、泣くな」
 こん、と頭を叩かれる。
「泣いてない」
「女だって、錯覚しそうになるだろ」
「それは……錯覚じゃない」
 ようやく獅堂は笑顔を浮かべた。
 うん――そうだ。
 自分が楓を支えるんじゃない、自分だって、支えられている。
 たくさんの罪と、たくさんの人から受け取った優しさを抱いて。
 忘れないで生きていけばいい。―――これからは、ずっと。
「……レオが、探してた……」
 静かなキスの後、楓が小さく呟いた。
「うん……」
 肩を叩かれ、獅堂は立つように促される。
―――お前なんだな。
 立ち上がりながら、獅堂は改めて、今、楓が傍にいることを噛みしめていた。
 今、ここに、こうしているのは、お前なんだよな、楓。 
「……身体、もういいのか」
 先に立って歩き出した楓に、獅堂は聞いた。
「俺はね、お前の方がやばそうだったじゃん」
「自分は鍛えてるから」
 そう言うと、前を行く背中が苦笑する気配がした。
 あの海で――楓が止血の処置をしてくれなかったら、いや、楓が一緒でなければ、獅堂は間違いなく死んでいただろう。
 楓にしても、殆んど両腕の自由が利かなかったはずなのに――。
「お互いあれだよなー、悪運が強いっていうか、日ごろの行いがいいっていうか」
「ていうか、お前と一緒になってから、大変な目にばかりあってる気がする、俺」
「悪い……それ、間違いなく自分のセリフなんだが」
 もう、何もいらない。
 身体も、言葉も、互いを見ることさえも。
 もう、判っている。信じられる。
 離れていても。何処にいても。
 外で、獅堂を呼ぶ滝沢の声がした。
 ふと、楓が足を止めた。
「前から聞こうと思ってたけど……」
「ん……?」
「あのガキ、誰?」
「………………」
―――楓の嫉妬深さは相変わらずのようだった。
「いや……そもそも説明すると長くなるんだが」
 しどろもどろで口を開きつつ、獅堂は、楓と肩を並べて歩きだした。



                  十



「優生保護局は、隆也・ガードナーを、正式に真宮楓の複製体だと認定したぜ」
「そうですか」
 オデッセイの暫定女指揮官は、そう呟いて、窓越しに広がる晴天の青空に目を向けた。
「なんだ、もっと喜ぶかと思ってたけどな」
 桐谷はそう言って、胸のポケットからシガレットケースを取り出した。
 そして、今日の右京は、どこか妙だな、と思っていた。
 どこが、と言われればわからないが、印象が妙に柔らかい。
―――ま、こいつも女ってことかな。
 桐谷はわずかに苦笑した。
 長かった苦衷の時代に、今、ささやかな終止符がうたれようとしている。台湾有事からずっと走り続けてきた女も、ようやく肩の力を抜いているのかもしれない。
 背後では、降矢がコーヒーの用意をしている。
 かつては、調査課一の偏屈と囁かれ、上司に不遜な態度を取ることが常の男の、この変わり様はなんなんだろう。
―――こいつも右京に骨抜きにされた口だな。
 と、桐谷は内心面白くない。
 そして、ソファにふんぞりかえりながら、脚を組んだ。
「ま、これで、真宮楓の過去の罪状は、全てちゃらってわけだ。クローンに罪はないからな」
 右京の横顔が微かに笑う気配がする。
「お前らの処分も、結局は保留されたままだしな。このままうやむやになるんじゃないか?」
 お前ら――右京をはじめとするオデッセイ特務室の面々のことである。
 中国政府に虚偽の申告し、強引に中国領空に飛行機を飛ばした行為は、結局は内々で処理される事になりそうだった。
 右京から返ってくる返事はない。
 桐谷はわずかに肩をすくめた。
「欧州連合は、隆也・ガードナーをクローンと認めて、二度と戦略的な意味で研究対象にしないと言ってきたしな。アメリカも実質黙認だ。これで、何もかも一件落着ってやつだ」
「取引しましたね、桐谷さん」
 初めて、右京が口を開いた。その眼は、まだ空に向けられたままである。
「なんのことだ」
 桐谷は煙草を口にくわえ、ライターで火を点す。
 そして言った。
「上の連中のやったことだよ、右京」
「そうでしょうか。ヨハネ博士が握っていた欧州連合のトップシークレット。―――開発途中の新型ウィルスが鷹宮を含め」
 ようやく振り返った女の顔が、そこで少し翳った気がした。
「周辺の住民に、深刻な被害をもたらしたこと、……その情報をたてに、ヨーロッパ首脳陣に釘を刺したのではないですか」
「ま、姜劉青は死んだ、秘密を積んだ軍艦もろともな。真相は藪の中だよ」
 桐谷は、煙を吐き出し、苦笑した。
 そう、真相は藪の中だ。
 隆也・ガードナーの処遇をめぐっては、実際、目に見えないところでたくさんの力が働いている。
 それは今後も、決して表に出ることはないだろう。
 真宮楓という男は、もう、この世に存在しない――していない。
 結局は、それが大前提になっているのだから。
 目の前に、湯気のたつコーヒーが差し出される。
「お前、いつからお茶汲み専門になった」
 桐谷が軽く嫌味を言うと、
「自分で煎れた方が上手いんですよ」
 と、なんでもないように言って降矢龍一は笑う。
 そのまま桐谷の対面に座る降矢の、以前とはどこか違う穏やかな眼の色に、桐谷はちょっと苦笑してみた。
「これが、お前の待っていた混沌の果てのなんとやらか?右京」
「どうでしょう」
 右京は、相変わらず立ったままだった。
 まだ、視線を窓の外に向けたまま――声だけは穏やかで優しかったが、その背中に、妙な近寄りがさがある。
「……桐谷准将、ひとつだけ、言っておきたいことがあるのですが」
 その背中がふいに言った。
「何だよ」
「ここは、禁煙です」
「うそつけ、いつからそんな、面倒くさい規則ができた」
「最初からですよ、桐谷さん」
 降矢が呆れたように口を挟む。
 右京が振り返る。思わず桐谷が見上げると、女は静かに微笑した。
「私は、いま、妊娠していますので」
 桐谷の口から煙草が落ち、降矢の手から、コーヒーカップが落ちた。
「今日、人事に届けを出してきました、あと少しで、退官する予定です」















































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