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 夢を……。
 随分長い、夢を見ていたような気がする。
―――獅堂さん。
 誰かが、自分を呼んでいる。
―――獅堂さん、私の……獅堂さん。
 こんな風に、いつだったか、優しく呼ばれたことがある。
 そうだ、あれは。
 あれは。









                 五



「獅堂さん」
 病室が勢いよく開けられる。
 獅堂藍は顔をしかめた。
 女性の一人部屋にノックもせずに――こんな無神経な訪問をする奴は、どうせ滝沢に決っている。
「あ〜よかった、今日も生きてる」
「なんだよ、その失礼な言い草は」
 そう言いながら獅堂は、手にしていた箸をトレイに置いた。
 オデッセイにいるはずの滝沢が、都内にある防衛庁付属病院まで、大抵毎日、昼食時にやってくるのは何故だろう。
「だって」
 お見舞いです。と、ケーキの箱を傍らのテーブルに置いて、滝沢は嬉しそうに笑った。
「本当にもう、死んじゃったかと思ってましたから、今度という今度は」
「まぁな」
 獅堂は、当時のことを思い出して肩をすくめる。
「吃驚したよ、起きてみたら、身体は激痩せだし、筋肉なくなってるし」
 獅堂は腕を持ち上げ、二の腕のあたりを触る。最近リハビリで、ようやく戻りつつある腕の隆起。
「だって、一ヶ月も意識不明で、眠り続けてたんですよ、獅堂さん」
「らしいな」
 夢を……。
 随分長い夢を、見ていたような気がする。
「出血過多で、ドクターも、意識が戻る可能性は半々だとか言うし、意識が戻ったって聞いた時には、本当、泣きましたよ僕」
「お前の涙なんか、嬉しくもなんともないよ」
 少し照れて獅堂は言った。
 覚醒してから二週間。脱臼していた肩の怪我は完治していた。毎日の検査と、そしてリハビリ。体力は目に見えて戻ってきている。
「今週には退院ですか」
「……あんまり、のんびりもしてられないしな」
 退院した後のことを考え、獅堂は、少し表情を翳らせて呟いた。
「今朝、レオナルド会長から連絡がありまして」
 そう言って、少し気まずそうに、滝沢は視線を逸らした。
「一度、獅堂さんにラボまで来てもらいたいそうです。色々話もあるし、か……リュウさんのこともあるし」
「……わかってるよ」
 獅堂は、窓の外に視線を移す。そして、感情を振り切るように顔をあげた。
「あいつ、元気なのか」
 意識が戻った後、獅堂は防衛庁附属病院に転院した。楓は、それより少し早い時期に退院し、レオの私邸に身を移していたらしい。
 ベクターだけあって、体力の回復は随分早かったと聞いている。
 が、発見された時、心肺停止状態だった楓の方が、獅堂より容態は深刻だった。
――あの水温で、生きていられたことが奇蹟です。
 帰国して医師に言われた言葉だが、もしかして楓が、自らのエネルギーのようなものを、あの海で――ずっと、注ぎ続けてくれのかもしれない。それはもう、想像するしかないけれど。
「まぁ……お互い、立場が立場ですし、でも、すぐに会えるじゃないですか」
 滝沢がなぐさめるような口調で言う。
 あれ以来―――確かにまだ、一度も会っていない。
 が、獅堂は、不思議と静かな気分だった。
 楓のことに関しては、今は、焦燥も不安も何も無い。会えない時にいつも感じていた、胸の痛みすらない。
「日本政府は、隆也・ガードナーが望むのなら、彼の帰国を認める方針のようです。それは、レオナルド会長も承知していますから」
「そうか……」
 眠っている間に、何かが動いていたのだろう。
 楓にとって――きっと、いい方向に。今は、素直にそれを信じたい。
「ジュネーブには……実は、僕も行きたいんです」
 滝沢は、少し思いつめたような口調で言った。
「あのラボには嵐さんがいる。僕はもう一度、嵐さんに、会いたい」
 そう、嵐がいる。
 獅堂は眼を細めた。
 レオの所には嵐がいる。
 楓は――帰国が認められたとしても、嵐の傍を、離れることができるのだろうか。
 そして、もう一人。
「鷹宮さんの……ことですけど」
 滝沢が、呟くように言った。
「うん……」
 胸に、大きく開いてしまった空洞を、獅堂はむなしいような気持ちで感じていた。
 鷹宮はSPBの被験者になった。
 獅堂が覚醒する、僅か二日前のことだったらしい。
 目が覚めて――右京にそれを聞かされた時、しばらく獅堂は衝撃でものが言えなかった。
 手紙も、伝言さえ一言もなかった。
 別れを言うことも、謝罪することも許されないまま。
――それほど、憎まれたのかもしれない……
――それほど、苦しめたんだろう、自分がこの手で、あの……優しい人を。
「余り気にしない方がいいですよ。鷹宮さん、本当にすっきりした顔で出発されましたから」
「………」
 年下の滝沢にまで見抜かれている杞憂。
 獅堂は苦笑して、長く伸びてしまった髪をかきあげた。
「もっと、元気出してくださいよ。ようやくハッピーエンドじゃないですか……」
 そう言う滝沢の声も、どこか心もとない。
 これで、全てが終わったのだろうか。
 獅堂にはそうは思えなかった。
 鷹宮のことが、重く胸に残り続けている以上。
 終わったとは、とても言えないような気がした。


                 六


 身体を動かしついでに、外の空気を吸いたいと言うと、滝沢は獅堂連れて、病院の屋上にまで付き合ってくれた。
 季節は、いつのまにか冬から春に変わろうとしていた。緩い陽射しは、決して暖かくはなかったが、どこか心を落ち着かせてくれる。
「嵐さんは、この地上を捨てる間際に、幾重にもプロテクターが掛かった通信を、レオナルド会長あてに送っていたそうです」
 滝沢は、静かな口調で言った。
「うん……」
 獅堂は、静かな気持ちで頷いた。
―――多分、嵐は。
 最後に別れた海岸。
 獅堂は、あの時の、嵐の大人びた顔つきを思い出す。
 自分を見て微かに笑った、揺ぎ無い自信に満ちた瞳を思い出す。
 おそらく嵐は、最初から楓を道連れにするつもりはなかったのだろう。
 きっと、返す。あの目はそう訴えていたのかもしれない。
「レオナルド会長と嵐さんは、ずっと以前から、……楓さんの出生や家族のことを調べていたそうなんです。……あの人たちには、いずれ、楓さんが居場所を失い、追い詰められる事がわかっていたのかもしれない」
「…………」
「だから、楓さんを、全く別の人間として……自由に生きさせるために、あらゆる可能性をずっと探っていたんですね。クローンなんて、発想がそもそもすごいですけど」
 それから滝沢は笑った。
「でもね、僕、これは最近知ったんですけど」
「なんだよ」
「右京さんも、用意していたらしいんです」
「……何を?」
 獅堂は眉をひそめる。
「楓さんのための、架空戸籍。だから死亡手続きを性急に行ってたんですよ。あの人にもわかってたんだ。……今の時代、楓さんを受け入れて、もう一度この世界で一緒に生きていくにはどうすればいいのか」
 右京がさんが――。
 獅堂は、あの、厳しさと優しさを秘めた綺麗な眼差しを思い出す。
 右京ならそうするかもしれない。きっと、何一つ自分たちには打ち明けることなく。
 そこで、獅堂は、はたと気づいた。
「…………で、お前、どうしてそれを知ったんだ」
「……いや、それはまぁ、色々」
 滝沢の目が泳いでいる。
 こいつ、また、何か不正なことやりやがったな……。そう思ったが、それは口には出さなかった。
 風が心地よかった。
 獅堂が黙っていると、滝沢は、静かな口調で呟いた。
「……そういうやり方しか、受け入れる方法がないって、寂しいことかな、とは思いましたけど」
 青空は、吸い込まれそうなほど綺麗だった。
「うん……でも、いいんじゃないか」
 獅堂は言った。
 上手く言葉には出来なかった、が、今は――そんな形ででも、楓を受け入れようと、そう思うようになった人たちがこの世界にたくさんいる。
 多分、獅堂の知らない所でも、大きな力が動いていたはずなのだ。
 それが、大切なことだし、大きな変化なのだと思えていた。
「そんなもんかな……」
 滝沢が呟く。
 でもその声は、どこか楽しげで、彼もまた、獅堂と同じことを思っているような気がした。
「ま、そこで熱くならないってことは、お前も多少は大人になったってわけだ」
 獅堂は笑って、その肩を叩いてやる。
 滝沢は照れたように目を逸らして頭を掻いた。
「……僕は色々誤解してました。右京さんは、最初から隆也・ガードナーを守るつもりだったんだ。ちゃんと説明してくれないから、あの人の真意が判らなかった」
「右京さんは……」
 獅堂はふと、気になったことを口にした。
「そんなに最初から、あの男が楓だって確信してたのか」
「そう……ですよね」
 滝沢は少し不思議そうに首をかしげた。
「右京さんだけじゃなく、鷹宮さんもそうでしたね。最初に病院で会った時から、もう確信していたみたいです。僕なんか、初めて会った時あんまり写真と違うんで、似てるな、とは思っても、本人だとは思えなかったんですけど」
―――鷹宮さんも……
 獅堂は黙り、薄く陰りはじめた空を見上げた。
 一体。
 どんな気持ちで。
































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