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十
甲板に出た途端、激しい風が顔に吹きつけ、耳をつんざくような爆音がした。
何が起きようとしているのか、すぐに判った。
至近距離に迫った、日本の航空会社のロゴが入った小型の飛行機。
楓の背後。船体に装備されているミサイル発射口が、静かに動き、照準を定めている。
甲板では、手動式ジェットガンを構えた男たちが、数人。
火花と共に舞い上がった弾道は、しかし寸での所でかわされる。旋回しながら急上昇する飛行機のパイロットは、どう考えてもアクロバットの経験があるとしか言いようがなかった。
―――藍なのか?まさか――でも、どうして。
ぐうっと、右旋回に急接近した機体は、轟音と共にシュトラウスの右側を一気に通過していく。
その刹那、楓には見えていた。
機体の左側の扉に、足を掛け、殆んど身を乗り出している人影。
プルーのフライトスーツ、首に巻かれた白いスカーフがちぎれそうなほどはためいている。信じられないことにヘルメットさえ被ってはいない。
急旋回している飛行機は、そんな真似ができるはずのない速度が出ているはずだった。
男にしか見えない女は、髪を風に煽られながら、こちらを見て、手を大きく振っている。
「……莫迦野郎……!」
楓は思わず叫んでいた。
いくらなんでも、戦闘機とは速度も性能も違いすぎる。テクニックで誤魔化しても迎撃されるのは時間の問題だ。
地上じゃとことん方向音痴のくせに、なんだってこういう時に迷ってくれないんだ、あの女は。
「止まれ」
「どうやって、逃げ出した」
背後で、そんな声がした。が、それにも構わず、楓は、船の先端目指して駆けた。
獅堂が、何かを叫んだような気がした。
むろん、肉眼で表情が見える距離でも、声が聞こえるわけでもない。
が、少なくとも、ここに――自分がいることだけは、獅堂は間違いなく理解している。
―――何がしたいんだ、一体どうしたいんだ、お前は!
楓は苛立って空を見上げた。
空と海。
互いを助ける事さえできない距離。
こうやって、どちらかが先に死ぬのを、見守る事しかできない距離。
旋回した機体が、再度距離を詰めてくる。
怖いほどの超低空飛行。
パイロットが獅堂でなければ、楓でも恐怖を感じたかもしれない。
獅堂が、手を振っているのがはっきりと見える。
何度も下を指し示している。下――海?
―――とびこめって……言ってんじゃないだろうな、まさか。
さすがに楓は唖然とした。まだ両手は、鎖でつながれたままだ。
背後で銃声が響く、それは、楓の髪を跳ね上げ、青い海上に吸い込まれていく。
爆音がした。二度、三度、そして一筋の火の粉が空を裂き、それは過たず、獅堂の乗っている機体の尾翼を跳ね上げた。
「藍―――!」
楓は、ズボンのポケットに捩じ込まれた冷たい塊を引き抜いた。
片手で安全装置を外し、無理な姿勢で打ち手に標準をあわせ、引き金を引こうとした。
その腕を、背中から掴まれる。
床に―――腹這いに押し倒される。はずみでてのひらから拳銃が滑り落ちる。
「くそ……っ」
背後から首を掴まれ、頬骨が軋むほど強く床に顔を押し付けられる。
再度接近した機体が、逆方向に旋回しながら、轟音をたてて近づいてきた。尾翼から激しい炎をあげている。ばちばちっと火花が散り、機体の一部が雹のような激しさで甲板に舞い散る。
「つっこんでくるぞ」
「逃げろ」
甲板にいた男たちが、銃を捨てて走り出している。
シュトラウス号が攻撃が出来ないのは、あまりに低空すぎて、船体に損傷が出る可能性があるからだろう。
今度は楓も、ひやっとして目を閉じた。
ほとんど頭上すれすれに接近してくる飛行機、右翼が、甲板をかすめて火花が上がる。
それと同時に、ふいに、身体から重みが消えて自由になった。
「避難しろっ」
「定位置につけ」
背後の男たちの間から、泡を食ったような声がした。
よく判らない、何かが――空中で起きているのか。
楓が顔を上げると、獅堂が――上昇途中の機体から身を乗り出し、片脚を扉に掛けているのが見えた。
大きく手を振っている。そして、また――下を指す。海上を。
―――どうするつもりだ……?
「来い!」
腕を、背後から強い力で引っ張られたのはその時だった。
後頭部に銃口が突きつけられる。
機体を離れた獅堂の身体が、その刹那、空に浮かんだように見えた。
―――あの莫迦……!
迷う間は、一秒もなかった。
振り向き様に、背後の男の腹部を蹴り上げ、鎖の絡んだ腕で横殴りに頭を殴る。そして、楓は手すりに足をかけた。
そのまま、一気に空に飛んだ。
十一
青黒い海面がみるみる迫る、息が止まるような衝撃が全身を包みこんだ。
――――何やってんだ、俺……。
自由の利かない体で、まぁ、考えなしにもほどがある。悪いな、嵐、せっかく生きるって決めたのに、あの莫迦女の癖が完全にうつっちまったみたいだ。
気がつくと、海中に沈んでいた。
刺すように冷たく、そして永遠のような暗黒の世界。
両腕が使えないまま、息苦しさに楓はもがいた。
バランスを保てない体は、なす術も無く沈んでいく。
その身体を、ふいに背後から抱き支えられた。抱きしめてくれる腕。
「…………」
獅堂だった。
薄闇のような水中の中で、白い顔と、そして白いスカーフが揺れている。ジャケットは脱いでいる。薄い防水スーツのようなものを着ていると、なんとなく判る。
一瞬だけ顔を見合わせ、獅堂はすぐに動き始めた。楓の身体にすがるようにして身体の位置をずらすと、背後から両腕を掴まれる。
手首を掴まれ、ようやく楓は、獅堂がしようとしていることを理解した。
―――無理だ。
鉄鎖で繋がれた手錠だ。キーもない水中の中で、外せるわけがない。
息が。
続かない。
それでも獅堂はあきらめない。何度も手首に衝撃が伝わる。何か器具を使い、鎖を切断しようとしている。苦しさを堪え、楓は振り返る。
獅堂の顔も歪んでいる。その唇から、二、三度大きな泡が漏れる。
―――駄目だ、藍。
このままでは、お前まで死んでしまう。
水中で、楓は首を振る。腕を振り、獅堂の身体を突き放す。
が、獅堂は離れない。離れずに楓を見上げ、首を振る。
頑張れ。
その目がそう言っていた。
頑張れ。
聞こえるはずのない声が、聞こえるような気がした。
頑張れ、自分も頑張るから。
―――藍……。
頑張れ。
無理だ。
頑張れ。
―――不可能だ……。
それでも楓は、全身の力を抜いて、息を詰めた。
永遠のような時間の後、やがて、最後の呼吸があえなく溢れる。
―――だめ……だ……。
肺が焼ける。視界が、少しずつ狭窄していく。
手首に、焼けるような痛みが走った。はっと覚醒しかけた時、唐突に身体が自由になった。
獅堂が、再び背後から楓を抱く。そして、力強く、上に向かって上昇する。
「………っ」
水面に出て、呼吸を急ぐ余り楓はむせた。
苦しい、まともな呼吸ができない。あえぐたびに、容赦なく海水が入り込む。
「しっかりしろっ」
獅堂の声がした。現実の――獅堂の声。
信じられないが、お互いどうやら生きている。
悔しいくらい安堵している。楓は、ようやく元通りになりつつある呼吸を整え、呟いた。
「……無茶苦茶、するな……お前」
「泳げるか?」
「……どうかな、自信があるとはいい難いよ」
冗談めかして言ったが、本音だった。
一体どれくらい長く拘束されていたのだろう。肩ごと腕がしびれて、石でも括られているような重たさがある。
乗っていた船は――どこに消えたのか、海上を見回しても、もうそこには何もなかった。超高速で進んでいたから、楓が落下してから数秒で、すでに手の届かない距離にまで進んでしまったはずだ。
ふいに、獅堂が、手元でビニルの塊のようなものを膨らませた。ベストのようなもの、それを楓の肩に強引に被せる。
「な……」
「ライフジャケットだ、これで浮くから泳げなくても心配すんな」
「お前のはないのか」
「忘れたんだ、大丈夫、自分なら泳げるから」
忘れるはずがない。
楓は瞬時に理解した。この女は、自分が着ていたそれを脱ぎ捨てたのだ。海中に潜るために。
ようやく自由になったはずの端から、別の不安が楓をゆっくりと包み込んだ。
自分はいい、が、このままでは、獅堂が危ない。
この広い海で、体力が持つはずがない。
しかし獅堂は、力強く楓を見上げた。
「あきらめるな、もうじき、この海域は戦闘状態になる。その前に、少しでも遠くに行けば、絶対に助かる」
「……戦闘……?」
「ドイツ空軍がこの海域を包囲している。劉青の取引に応じず、すぐに一斉攻撃に移るはずだ」
「…………」
「彼らは、捕らえに来たんじゃない、その意味が判るか」
ああ、そうか……。
楓もまた、理解した。
劉青は、ここで闇に葬られてしまうのだろう。彼の頭脳におさめられたヨーロッパの暗黒面と共に。
「泳ぐぞ、楓」
「……おい、泳ぐって」
どうなるんだ、この広い海で、一体何を目指して泳げばいいんだ。
「とにかく、ここを離れるんだ。後のことは考えるな」
「ぱ、ばかじゃないのか、お前、先のことも考えずに」
「オデッセイの仲間が、絶対に助けに来てくれる」
獅堂の眼は、揺ぎ無い――確かな自信に満ちていた。
「泳ぐんだ、楓」
その時、激しい轟音がした。
白い煙が筋を引いて、空を――楓と獅堂の頭上を突っ切っていく。
「危ないっ」
その声と共に、獅堂の腕に、覆い被さるように抱かれていた。
閉じた目にも鮮やかな閃光。身体ごと押し流されるような衝撃。
「……っ……っ」
波間で、獅堂の腕を離すまいと、楓は必死にその腕を掴み、水中で身体を支える。
浮力は、この一人用のジャケットだけが頼りだった。手を離せば、おそらくそれきりになってしまう。
一瞬の後、海面から見える光景は、炎と、そして暴れ狂う黒煙に包まれていた。
海上のあちこちに、砕け散った飛行機の断片が浮かび、どろりとしたオイルが浮いている。
シュトラウスが、ドイツの要撃戦闘機を撃墜したのだ。楓が想像できたのはそれだけだったし、今は目の前の惨状より、抱いている人の命を護ることが全てだった。
「……おい、ラッキーだぜ、飛行機の素材って浮力があるんだ、あれに捕まってれば大丈夫だ」
「……おう」
どこか力ない返事だった。が、それを不審に思う間さえも今はない。楓は、獅堂を抱いたまま、浮いている断片目指して向かって水をかいた。
一番近い翼部分の断片まで、重い腕で泳ぎ着き、ようやく女の身体をそこに押し上げる。
獅堂が、いつのまにか動かなくなっていることに気がついたのはその時だった。
「……どうした?」
暗い予感を感じながら、楓はその顔を見下ろした。
「おい、しっかりしろ、さっきの能天気はどこいったんだ」
「大丈夫……」
呟いた獅堂は、機体に預けた顔をあげようとしない。
脱いだライフジャケットを、獅堂の身体に着せようとした楓は、ふと、女の首元に目を止めてていた。
スカーフ……
「おい……」
こんなに、赤かったっけ。
女を取り巻く海面に、赤黒い血泡が浮かんでいる。楓は眩暈のような揺らぎを感じた。
「……怪我……したのか」
ついさっきだ。飛んできた破片の直撃を受けたのだ。
「うん、かすり傷だ、……心配すんな」
黒煙が薄らぎ、ようやく、楓にも状況が判った。
獅堂の着ている黒の防水スーツ。その肩のあたりが黒く焼けただれ、傷口から、まだ新しい血が流れ出している。相当深い傷痕は、かすり傷なんてものじゃない。
腕からは完全に力が抜けている。肩を脱臼――もしくは、骨折していることだけは間違いない。
「……藍……」
ごうっと、頭上を閃光のような光が煌いて通り過ぎる。
「……空爆……部隊だ」
力なく獅堂が呟く。
「楓、泳ぐぞ」
「莫迦野郎、無理だろ、そんなの!」
もう、他に方法はない。
空を睨んだ楓は、はっきりと覚悟を決めた。
嵐。
頼む。
もう一度、俺に力を貸してくれ。
この人を、死なせたくない。この人を救うのは、――もう一度、俺が。
「駄目だ」
ふいに獅堂が顔を上げ、意外なほど強く首を振った。
何もかも見透かしているような眼差しだった。
「どうして!」
楓は声を荒げた。そのはずみで、すがっていたもののバランスが崩れ、また海水が口の中に入る。何度かむせながら、楓は再度空を見上げた。
「駄目だ、楓」
腕を掴まれ、引き寄せられる。
楓はそれを突き放そうとした。
「藍、俺は、」
「絶対に駄目だ!」
「俺は、お前を死なせたくない!」
「楓!!」
頭上で、激しい爆撃音が弾ける。
衝撃が一気に押し寄せる。バランスを失い、機体の断片から腕を離した楓は、そのまま波間に飲み込まれた。
獅堂の腕がそれを追い、掴む。二人は刹那に海中で、腕を引き合うようにして抱き合った。
被さってきた唇が、楓の唇に重なる。
再び海面に上がった時、
「愛してる」
獅堂は言った。
「今度は自分が絶対に守る、自分は、今度こそお前を守る」
「………」
「信じろ……」
「藍……」
楓は呟いた。
―――藍……
「信じろ、楓」
「…………」
「もう二度と、あんなものには変わらせない」
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永遠の翼 終
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