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 楓は走る。
 船上――。
 ここに逃げ場がないのは判っている。が、奇蹟のような活路を求め、ただ楓は暗い通路をまっすぐに駆けた。
 怒声。そして、どこか遠くで響く劉青の声。
 迷彩服を着た男たちが、通路の向こう側から飛び出してくる。楓を指差し、ブーツの音を荒げて駆け寄ってくる。
 前かがみの姿勢でバランスを取りながら、楓は彼らの腕をすり抜けるようにして、わずかな合間を縫って逃げた。
 交わされる短いドイツ語の応酬。
 その内容で、彼らが劉青の賛同者なのだとわかる。
 殺すな、生きたまま捕らえろ。
 背後の男が口早にそう言っている。だったら何をしても、とりあえずは大丈夫ってことだ。
 階段で、追いすがる男を振り向きざまに蹴り倒し、残る段を楓は一気にかけあがった。
 どこかに――この艦の正式な乗組員がいるはずだ。あるとすれば希望はもうそれだけだ。
 なんでもいい、この船を動かしている、メインコンピューターに入り込むことが出来さえすれば。
「止まれ!」
 警告と共に、威嚇射撃が耳元をかすめる。それは目の前の壁ではじけ、金属の火花が刹那に散った。
 視界に、さらに上に続く階段が飛び込んでくる。
 かすかな自然光、そして海の匂いがした。上はもう甲板だ。出てしまえば逆に逃げ場を失ってしまう。
 楓は足を止めて振り返った。
 前には数名の屈強な異国人、そして背後からも、複数の足音が近づいてくる。
 退路はもうどこにもなかった。
 考えろ。
 必死で思考をめぐらせる。
 この状況で、コンピューターを操作するのは不可能だ。
 万が一、船の正式なクルーが残っていたとしても、間違いなく劉青の監視下にある。ここで都合よく助けてくれるわけがない。
―――無理なのか……
 絶望が胸をかすめた。
 いや。
 まだ、諦めるには早すぎる。
 楓は身体を反転させて、通路の壁から上に続く、細い階段を駆け上がった。背後で銃の音が何度か弾ける。視界に広がる一面のプルー。濃い潮の香り。
 海だ。
 そして、空。
 背後に迫る声と靴音が激しくなる。
 息があがる。縛られた腕から血がしたたり、痛みもなく指先を濡らす。
「行き止まりだよ。真宮博士」
 甲板の端まで行き当たった時、背後で劉青の声がした。
 楓は、デッキの手すりを背にして振り返った。
 背後には無限の広さと深さを湛えた海。――しかし、今、両手の自由を奪われたまま、その海に飛び込むことは紛れもない死を意味する。
「無駄だ、博士、何を待っているのかは知らないが、君のピアスにつけられた発信機なら」
 楓の、五メートルほど前に立つ劉青は、楽しげな笑みを浮かべていた。
「ここから数キロ離れた別のポイントで移動しながら作動している。君を追う者がいたとしたら、随分迷うことだろうね」
「…………」
 楓は動けない。五、六人の男たちが、銃口を向けつつ、間合いを詰めながら近寄ってくる。
 後ずさる。背に冷たい手すりが当たる。―――どうする。
 劉青は可笑しそうに、微かに笑った。
「絶望しているね、真宮博士。が、実のところ、君がこの窮地を脱出する方法ならひとつだけあるのだよ」
「…………」
 楓は無言で、劉青を見上げた。
「それだけは、私にもどうにもならない。止めようがないからだ。しかし忠告しておくが、この近海には、今、世界中の注目が集まっている」
 どうすればいい。嵐、レオ。
 息苦しさを感じ、楓は天を仰いで目をすがめた。
 どうすればいい。
「ドイツの駆逐艦隊が接近している、要撃戦闘部隊ももうじき到着するだろう。当然、中国政府もスクランブル発進をかけるだろうし、日本軍も近海あたりをうろうろしているのかもしれない」
 劉青はそこで言葉を切り、風に舞い上がる髪を押さえた。
「こんな場所であの力を使ってしまえば、君の友達が、必死になって工作したくだらない嘘が、全て白日のもとにさらされてしまうことになるだろうね」
 どうすればいいんだ……。
「そして君は、再び人類から追われる者になる」
 楓は目を閉じた。
 もうひとつ、道はまだ残されている。
 一番簡単で、そして誰も傷つけずにすむ選択肢。
 背後の海に飛び込むことだ。
 そして、二度と地上に戻らないこと。
 ずっと望んでいた開放の時が、それだけのことで簡単に手に入る。
 この忌まわしい遺伝子を永久に封印し、獅堂を劉青の罠から救うことができる。
「…………」
 が、迷ったのはほんの一瞬で、楓はそれを放棄した。
 今は、それだけは――嵐と、そしてレオの友情への最高の裏切りだと思えていた。
 生きろ――。
 記憶の中で、嵐の声がそう言っている。
 どんなに辛くても、苦しくても、生きるんだ、楓――。
「それにしても、驚きだよ。真宮博士」
 楓の背後に回り、血にまみれた手首を拭いながら、ヨハネは心底おかしそうに笑った。
 楓は黙っていた。ロープで固く結ばれた腕、その上から重みのある鎖が絡み、がちゃり、とロックされる音がする。
「一年前、私を恐れ、震えて、……ただ泣いて懇願するしかなかった君が、ここまで逞しくなっているとはね」
「俺はもう、逃げないよ」
 死を諦めた瞬間に、楓は腹を括っていた。――ああ、空が青いな、とさえ思っていた。空から見た海も、こんなに青く見えているのだろうか。
 こちらを向いた劉青がけげんそうな顔をする。
 おそらく、楓が笑っていたからだろう。
「……本当に、気でも狂ったか」
 楓はそれには答えなかった。
 やっと、判ったような気がしていた。
 俺は逃げない――逃げちゃいけない。そうなんだろ、嵐。
 俺を生かしてくれたお前のためにも。レオのためにも。
 俺のために、大切な時間を失った右京さんのためにも。
 それから――。
「…………」
 俺が、守りたい人から。俺の愛する人から。
 俺はもう、二度と逃げない。
「厳重に鍵をかけて閉じ込めておけ、今度は絶対に逃がすなよ」
 もう一度、お前に会いにいくよ、藍。
 腕を引かれながら、楓は、蒼い空を見上げた。
 憎まれても罵倒されても――傷つけても。
 もう一度、会いにいく。
 この戦いに勝って、生きて戻る事ができたなら。
 絶対にお前を、劉青に渡したりはしない。指一本触れさせやしない。
「気をつけろ、相手はこう見えても、私と同じ完全体だ」
 前を行く劉青が、ドイツ語で指示している。その時だった。
「……博士、日本の民間輸送機から給油を求めて不時着したいとの緊急信号が」
 ふいに、劉青の傍に駆け寄って、そう囁いた男がいた。
 その男の顔を見上げ、楓ははっと息を引きそうになっていた。
―――レオ……?
「コード番号はJAL397006HKY、ジャパン・エアシステムの小型輸送機です。赤外線で確認したところ、弾薬類は搭載していません」
「追い払え」
 劉青は、蝿でも払うような冷ややかさでそう言って、再び前を見て歩き出す。
 レオに似た男は、躊躇う風もなくその後を追った。
「それが、聞き入れません、燃料切れのようで、強引に不時着するつもりのようです」
「撃墜しろ」
「それから、後方ポイント2664地点に、ドイツ空軍の編隊が迫っています」
 劉青の表情に、はじめてかすかな不安の色が浮かんだ気がした。
「もう、か」
「予測より随分早い到着でした。どうやら今回は、上が随分迅速に動いたらしい」
「私が迎撃の指揮をとる」
「そのように」
 あっさりと、レオを――何歳か老けさせて、むさくるしくしたような男は答えた。
 そして男は楓を見下ろし、にやっと、その唇を歪めてみせた。
 やせこけた頬に、痛んだ髪。日焼けした肌。
 が、それでもレオと印象がまるで同じなのは、美しい宝石のような青い瞳の輝きのせいだろう。
「彼は、私が連行しましょう」
 その男は言った。
「任せる」
 劉青は、よほどその男を信頼しているのか、それとも空軍の襲来に焦っているのか、そう言ってさっときびすを返した。
 ついて来ようとした迷彩服の男たちが何人かいたが、レオに似た男は片手でそれを制し「私一人で構わない」というようなことを言った。
「……さて、美しい人」
 階段の半ばだった。
 男がふいに発した日本語に、楓ははっとして顔を上げた。
「こうして君を見るのは、実は僕には二度目なんですよ、奇縁というか、因縁というか」
「…………?」
「……ミスシドーは、僕の好みだった。女性なのが残念ですが」
 シドー?
「お前……」
 言いかけた時だった。
 ぷつっと、音がして、腕の痛みがふいになくなった。
 そして男の指が、まだ手首に絡まる鎖に触れる。
「さて……これはやっかいだ、このキーは、ヨハネ博士しか持っていない」
「いいのか、なにやってんだ、お前」
 振り返ると、男はふざけたように、しっと、指を唇に当てた。
 階段の上を、数人の男たちがドイツ語で会話しながら通り過ぎていく。
 しばらく頭上の気配をうかがっていた男は、楓のポケットに硬いものを無理に押し込んだ。
「鎖はこんなものでは外せない……が、これで君自身を守るしかない、あまり希望があるとは言えませんが、それでも君は行きますか」
「…………」
 それは、拳銃に似たもののようだった。ポケットから、銀色の銃口がわずかにのぞいている。
「使えますか」
 鎖が長いため、背後に回されているとは言え、腕は比較的自由に動く。なんとかなりそうだった。
「……もしかして」
 楓はようやく合点がいった。
 足で蹴ったくらいで、壊れるはずのないロックが外れた理由を。
「君が中で、想像以上に騒いでくれたのでね、助かりました」
 男は、レオと同じ眼差しで、薄く笑った。
「行きなさい、どのみちこのままでは、あなたの可愛い人が海の藻屑になってしまう」
「……どういう……」
 これは、どういうことなのだろう。
 どうして初めて会う――見知らぬ男に、こんな情をかけてもらえるのか。しかも、男にとっては、劉青を裏切ることになるはずの行為を。
 楓が黙って見あげていると、男は少し困ったように苦笑した。
「ヨハネ博士は、もう長くはない、全身が癌細胞に侵されているのです。彼が、唯一まともだと信じている脳までも」
「…………」
 口調は軽かったが、その言葉には、言外の悲しみがこめられているような気がした。
「……脳移植が成功するかどうかは別として、仮に成功しても、すぐに癌は、他の部位に転移してしまうでしょう……あれは、そういうウィルスなのですから」
「……ウィルス……?」
「……彼自身が創り上げた……自業自得といえば、それまでですがね」
 男は寂しそうな目で笑った。
「僕は、HBHを発症し、死にかけている所を彼に救われた。一度は完全に裏切ったことのある僕を、彼は再び救ってくれた」
「…………」
「……人を信じない……だからこそ、信じたいと……思っているのかもしれませんね。本当は」
「…………」
 男は静かに笑んで、楓の肩を軽く叩いた。
「さぁ、行きなさい。あなたの恋人が、無謀にも民間航空機でつっこんでくる。一体何を考えているのか、理解に苦しむ女性ですが」
 そして、ふいに、ふざけたような笑顔になった。
「パーフェクト・オブジェクトの恋人は、パワフルでないとつとまらない」
 再度肩を叩かれる。
 何故か足が動かなかった。
 信じられないことに――今、楓は、劉青に、もう一度、会いたいとさえ思っていた。
 憐れみとも同情とも違う――何かの、つきあげるような感情。
「……楓君」
 男は、ふいに楓の名を呼んだ。
「ヨハネ博士には、僕が最後までおつきあいするつもりですよ」
「…………」
「行きなさい、君は、闇の中にいてはいけない人だ」
「…………」
 その意味を理解し、しばらく何も言えずにいた楓は、やがて深く頭を下げた。
 そうするべきだと思ったし。それ以外――おそらく、今別れれば二度と会うことのない男に、返せるものは何もない気がした。
 そして、迷うような感慨を振り切って、顔を上げた。
 行かなければ、俺は。
 あの莫迦女を止めなければ。
「生きて戻れたら、僕の分身に、一言伝えて貰えますか」
 背後でふいに声がした。
 階段を上がりかけていた楓は足を止める。
「……え……?」
「偉大な君の生き方に反発して、君と別の道を進んできたとね、アンディラウは何者にもなれない代わりに、男の意地を貫き通した」
「…………」
「そう伝えてください」
 最後にそう言って、男は二本の指を額に当て、きれいな歯を見せて微笑した。


















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