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七
――"獅堂、ドイツの駆逐艦隊が、近海に接近中だ"
ヘルメットに備え付けてあるヘッドフォンから響いた声に、獅堂は驚いてリップマイクを握り直した。
聞き覚えのあるだみ声。
桐谷徹の声である。
「……き、桐谷さん……?」
――"お前ら、全員、減給どころの騒ぎじゃねぇぞ、莫迦野郎、一年間はただ働きだ、覚悟しとけ!"
「ど……どうして……」
獅堂は言葉を失った。
どうして――どうして、自分たちとは対立している立場の桐谷が。
――"幹部連中は、今のとこ、俺が押さえてる、ホワイトハウスは青桐さんが説明に当たってるよ"
聞こえてきた声は、いつもどおりぶっきらぼうで――でも、ひどく優しく耳に響いてきた。
青桐要――元、防衛庁長官である。
思いもかけない名前を出され、獅堂はただ、混乱する。
「……お、押さえるって、一体何をしてるんですか、桐谷さん」
――"航空自衛隊の一パイロットが、軍時機密を持ち出して中国に亡命を図ってるんださと、お前のことだ、莫迦獅堂"
「…………へ……?」
――"右京にしちゃ下手な言い訳だがよ、信じられないことに、それで全員が納得してる。今、オデッセイから全要撃戦闘機が飛び出した。ターゲットはお前の乗っている民間航空機だ"
「マ……マジですか」
目茶苦茶だ。
信じられない。あの――右京さんが、桐谷さんが……。
――"獅堂、急げ、ドイツの要撃戦闘部隊にも、今、出撃命令が出たらしい。やつら、中国とやりあう覚悟で、編隊を組んでシュトラウスを追っている"
ふいに桐谷の声に、緊迫したものが混じった。
獅堂ははっとして、雲間から垣間見える海を見た。
まだ……艦影らしいものは、何も発見できない。
――"……まずいな、奴ら、最悪の場合、ヨハネ博士をシュトラウス号ごと撃沈するつもりかもしれない"
「どういうことですか」
即座に獅堂は聞き返した。自分の耳を疑っていた。
――"たった今、降矢から入った情報だ。ヨハネはヨーロッパの極秘情報を手土産に、北朝鮮に亡命を図っているそうだ。……それに、あの船には、もうヨハネの手のものしか生き残っていない"
その意味は、怖いほど深く理解できた。
獅堂は、息を飲み、操縦桿をいっそう強く握り締めた。
そんな、それでは。
楓はどうなる。
あの船に囚われたままの楓は。
――"のんびり救出ミッションを待ってる暇はなさそうだぞ、獅堂、最悪の事態に備え、予備のライフジャケットを忘れるな"
「わかってます」
――"何があっても"
桐谷の声が、厳しくなった。
――"一年前と同じ結末にしてはならない、獅堂藍、判断は全てお前に任せる!"
八
―――私の脳を、君の身体に移植するんだよ。
まさか……。
楓は、身体をこわばらせたまま、自分を見下ろす男を見上げた。
そんな莫迦げたことを――まさか、本気で考えているのか?
それとも、本当に、頭が……おかしくなってしまったのだろうか。
「……可能だよ、真宮博士」
劉青は、目だけに理知的な色を浮かべて微笑した。
「……決して不可能ではないのだよ、真宮博士」
楓もまた、それが、全く不可能ではないことに気づく。
姜劉青は、バイオテクノロジーの分野ではいわゆる天才の領域に属する男だ。
異人種間の脳移植に伴う拒否反応、その他の不都合は、ある程度バイオの力で補えるだろう。
実際脳移植はドナーの適合問題さえクリアできれば、充分実現可能な手術だ。それは楓も知っている。
しかし……。
血の繋がりが全くない楓と劉青とでは――、リスクの方が大きすぎる。
「適合するんだよ。何もかも都合よくね。私と君は……真宮博士」
劉青は、楓の疑心を見抜いたように言うと、薄く笑った。
「なぜなら、君と私は、ひとつの細胞から生まれた存在だからだ」
「…………」
完全体だから、という意味なのだろうか。ベクターという、同じ種から生まれた命だから、と。
ただ、そのレベルでの一致は、単に人という種が同じであるという、その程度の一致でしかない。人同士であっても、例えばDHLが完全に一致しなければ骨髄移植ができないように――人体の結合には、遺伝子レベルでの整合性が求められるのだ。
「……そんなもの……できやしない」
楓は呟き、あとずさりながら劉青を睨んで牽制した。
劉青の目に、ふと憐れむような色が浮かぶ。
「……知らないのか……君は」
「……なんだと?」
「まだは君は知らないのか、二世代目のベクターが、すべからく一世代目の複製体だということを」
―――?
意味が判らず、楓はただ、眉をひそめる。
複製体?
意味が判らない。
どういう――ことだ?
「遺伝子に手を加えてはいるが二世代目の遺伝子は、基本的に一世代目の細胞を元に作られたものなのだよ。そして君の元になった細胞の持ち主が、私だ、真宮博士」
「…………」
自分を取り巻く世界が、一瞬にして暗転したような感じだった。
嘘だ。
楓はあとずさった。
そんなことはありない。
そんな、莫迦なことは。
「私が君を愛し……」
嘘だ。
首を振る、何度も振る。
「どんな危険をおかしても、手に入れたいと、常に欲し」
「……めて、くれ」
楓は唇を震わせた。そんなのは、嘘だ。信じない。
「君が、私を憎みつつ、それでも憎みきれないのは、私たちが同じ種から別れた生命体だからじゃないか」
「……信じない……劉青……」
自分の声が頼りない。
自分を取り巻いていた世界が、不安定に揺れ始める。
「右京奏を元に創られたのが、君の弟だ、真宮博士。それを、君の弟はちゃんと認識していたがね」
「…………」
「君はね、私自身なのだ、真宮博士……」
「……いやだ」
「私は君で、君は私なのだ、生まれた時から、ずっと」
「…………いやだ、やめてくれ、言わないでくれ!」
耳を覆う。
深く沈んでいくような絶望を感じ、楓は震えながら視線を下げた。
あれほど忌み嫌い、憎んでいた男と――俺が。
同じ――存在だった……。
同じ……。
そっと頬に冷たい手が触れてくる。
楓はぼんやりと、逆らうこともできないまま、虚ろな気持で空を見つめた。そして思った。
消さなければ。
「四体の完全体の中で、君が一番完璧だった……なぜだか、それがわかるだろうか、真宮博士」
「…………」
楓は無言で首を振る。
半ば、もう、どうでもいいような気持ちだった。
この世界で、もう自分が生き続ける意味は何もない。
今はただ、この忌わしい遺伝子を、一秒でも早く――この世界から消滅させたい。自らの手で消してしまいたい。
薄く笑い、劉青はゆっくりと立ち上がった
「ミッシングリング……欠けた鎖を埋めたのは、君の叔父――そして、プロジェクトチームのリーダーだった、喜屋武涼二、彼自身の遺伝子だったのだよ」
「…………」
楓はわずかに目を細めた。
戸籍上の叔父、喜屋武涼二。
楓を産んだ母の、兄に当たる男。
一度も会ったことのない、写真さえ見たことのない男が、ベクターという新種を作り出す悪魔のプロジェクトのリーダーだった。
「君は、自らの生まれた家が、郷里で何故村八分にされていたか、何故、化け物屋敷と呼ばれ、敬遠されていたか、その意味を考えたことはないのかね」
楓が黙っていると、劉青は楽しそうな口調で話を継いだ。
「君の家の――祖先にあたる人物が、まさに天から降臨した光の集合体だったからなのだよ」
―――…なんの、話だ……?
見あげた劉青の顔は、まるで夢でも見ているように笑んでいた。
「君の地方で伝承として、今でも語り継がれているよ、真宮博士。天使降臨して人と交わる。それが喜屋武家の何代か前の祖先であり、生まれた子どもがまた子を産み――その果てに、喜屋武涼二と、妹の清美が存在していたのだ」
楓は、かつて――この男の城で、赤と青の光が入り乱れて飛んでいる古びた絵画を見せられたことを思い出していた。
この男はそれを、沖縄の――ある旧家の廃屋からいただいてきた、と言わなかっただろうか。
「おふくろは……清美なんて名前じゃなかったぜ」
楓はかろうじて呟いた。
これは、自分とは――何一つ関係のない話だと、そう自分に言い聞かせていた。
「君の母親は、彼らの妹に当たるのだ、ただし、傍系で、直系の血の繋がりはない」
「…………」
「彼女は、兄に頼まれて君を産んだ。兄と姉の精子卵子を掛け合わせて作られた……君を産んだ」
「…………」
「さぞかし忌わしかったろうね、人口受精とはいえ、近親婚の果てに生まれた子どもだ。しかも、異常なまでに頭がよく、この世のものでないほど美しい……」
「よせ……」
「兄の涼二に生き写しの子ども」
もう、これ以上聞くのが辛かった。
「やめてくれ」
「親戚中から、禁断の子を産んだとののしられ、君の母は故郷を捨てた」
「やめてくれ!」
母が何故自分を憎み、嫌っていたか。
弟だけを溺愛していたか、その理由が全て判った気がした。
楓は、必死で唇を噛み締める。
そうでなければ、このまま嘔吐してしまいそうだった。
「……完全体とは、つまり」
劉青は、そんな楓を見下ろしてゆっくりと微笑した。
「喜屋武清美の受精卵を用いて生まれた四体を言うのだよ、真宮博士」
右京奏。
姜劉青。
真宮嵐。
真宮楓。
「喜屋武涼二の遺伝子と、妹の卵子。これが完全なる奇跡を生んだ。奇跡――いや、必然。我々の肉体には、宇宙から飛来した未知の遺伝子が、そのまま受け継がれているのだから」
「…………」
楓は力なく眼を閉じた。
壁に背を預け、座っていることがやっとだった。
「……相変わらず、デリケートにできている……」
劉青は膝をつき、楓の頬を片手で包み込んだ。
「君を傷つけるつもりはなかったのだよ……真宮博士。君は私とひとつになる。その必然を君に知って欲しかっただけだ」
「…………」
冷たいてのひらだった。
憎いのに、憎みきれない男。その通りかもしれない。殺したいほど憎んでいるのに、実際、本気で死んで欲しいと思ったことは一度もなかったから。
「この船が辿り付く場所に、専門の医療チームが待機して待っている。どんなにこの日を待ち望んだことだろう」
楓の頬を撫でながら、劉青は嬉しそうに呟いた。
楓はふと、我に返る。
―――この船は……どこへ、向かってるんだ?
「そうすれば、青い光は、今度こそ本当に私のものになる……」
―――仮に、その手術が成功するとして……この男は、これから何をしでかすつもりなんだ……?
「君の恋人のことを、案じているのかね、真宮博士」
楓は無言で眉を寄せる。
劉青は、くっと笑った。
「ひどく動揺している……わかりやすい癖だよ、真宮博士。心配しなくていい、獅堂藍なら、君のものにすると約束しよう」
「…………?」
「君と、そして私のもの……と言い換えてもいいがね」
その意味を解し、楓は総毛立つような気持ちになった。
どうすればいい?このままではまずいことだけは確かだ。あの莫迦女は、絶対あっさり騙されるに決ってる。そもそもあれだけ近くにいて、なんだってなかなか気付いてくれなかった――いや、今は、そんなことを考えている場合じゃない。
ただ、絶望している場合でもない。
「…………」
楓は覚悟を決めて顔をあげた。
もう、自分はどうなってもかまわない、獅堂だけは、絶対に守らなければならない。何をしても。
忙しなく考える――船が、目的地へついてしまえば、おしまいだ。海上のいる間に――しかし。
―――どうすればいいんだ……。
絶望が胸をよぎる。
そもそも、この男の手の中から、本当の意味で逃げ切ることなど――できるのだろうか。
「…………」
ふと、楓は、獅堂ならどうするだろう、と考えていた。
あの、考えなしの女なら。
「……劉青……」
「……どうした?」
立ち上がりかけた劉青が足を止める。
「…………」
楓が無反応なのが気に掛かったのか、劉青が再び膝をつく。
転瞬、楓が渾身の力を込めて蹴り上げた右膝が、その下腹部に食い込んでいた。
―――こうするだろうな、間違いなく。
少なくとも楓には、絶対にできない選択使。
だからこそ、劉青も虚を衝かれたのだろう。
楓は、両腕を縛られたまま、足の力だけで跳ね起きた。
声にならないうめき声をあげ、劉青の細い身体が、くの字に折れる。
正直、弱っていなければ、こんな蹴りなど通用するはずのない相手だった。
楓は、部屋中を見回して、扉の箇所を確認する。
バランスのとれない身体で、その傍に駆け寄る。鍵はナンバーロック方式で、一定のパスワード入力で、開くようになっていた。
「くそっ……」
両手さえ使えたら、この程度のロックなら簡単に解除できるのに。
「……逃げられないぞ……真宮博士」
劉青がうめいて、半身を起こそうとしている。
その眼は、まるで執念深い蛇のように、じっと楓を見あげている。
迷う間はなかった。
「このっ……」
楓は、ドアに身体ごと体当たりした。
「何を馬鹿なことを……気でも狂ったか、博士」
劉青が半ば呆れている。
常識で考えても、無理だと判っていた。それでも、二度、そして三度、楓は扉に身体をぶつけ続けた。
劉青がすぐ背後に迫っている。
「あけったら!」
はずみをつけて片足を振り上げ、ナンバーロックのキーを思いっきり蹴りつける。
半分やけくそだったが、関節の軋むような痛みと共に、火花が散った。
何かが激しくショートする音がする。
―――やった!
目の前で、ドアが開いた。このラッキーな偶然の理由を分析している暇はない。
楓は外に向かって駆け出した。何度もつんのめりそうになりながら――思った。俺、今、超かっこわりー、死ぬほどらしくないことしてるよな。
なのに、不思議にすがすがしかった。
まるで、全ての呪縛を――戒めを、振り切って、ようやく自由になったように。
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