波の音――。
どこから押し寄せてくるのだろう。
きっと遥か太古から――規則正しく繰り返される、自然のリズム。
海風に髪を煽られながら、獅堂藍は目を細めた。
裸足になった足首に、冷たい波がまとわりついている。
――楓……。
お前……マジで、海に連れて行かれちゃったんだな。
自分はさ。
ひとつだけ言えなかったこと、あったんだ。
柔らかい砂を踏みしめる獅堂の足に、何か当った。
しゃがみこみ、拾い上げる。
「…………」
薄桃色の貝の欠片。
いつだったか、拾い上げた貝を愛おしそうに掌で包み込んだ楓の横顔が胸をよぎる。
あの時も、今と同じ場所にいた。
でも今は、一人きりで同じものを見つめている。
掌から零れていく渇いた砂を、獅堂は無言で見つめ続けた。
立ちあがり、ジーンズの膝についた砂を払う。
一度くらい言いたかったけど……やっぱ、自分の柄じゃないもんな。
微かに笑って、掌の貝殻を砂に還した。
―――お前の荷物は整理したからな、楓。
滑るように流れてきた波が貝殻をすくい、静かに海へ攫っていく。
最後の朝、二人で慌しく出た部屋は、幸せだった日常を切り取ったように何もかもそのままになっていた。
パソコンに残された作成中の論文。沢山の蔵書。乱れたままのシーツ。そして、あの朝、楓が掛けていた眼鏡――。
それらをひとつひとつ片付け、梱包していくことで、獅堂は少しずつ、本当に少しずつ、心の整理をつけていった。
もう、二度と戻らないことを。
もう、二度と帰らないことを。
何度も何度も、繰り返し言い聞かせて、そうでないと、まだ――夜中にふと目が醒めて、隣にいるはずの温もりを求めてしまうから。
朝のコーヒーの香りを。書斎から聞こえるキーポードの音を。
「おかえり」と言って、くちづけてくれた唇を。
いつも、求めてしまうから――
楓………。
愛してる。
今なら言える言葉を、どうして言えなかったんだろう。
涙を飲み込んで、空を見上げた。
―――もう、帰って来たいって言ったって知らないぞ。自分はそんなに、未練たらしい女じゃないからな。
晴れ渡った空は――いつだったか、二人で見た、あの空のようだった。
消えかけた飛行機雲の残片が、青い空に残照のように滲んでいる。
それまで握り締めていたものを…、最後にもう一度見つめ、獅堂は大きく腕を振った。
傷だらけのペンダント。
楓は――最後までそれをつけていてくれた。
多分あの日、部屋を出た最初から。
それだけで判る、あいつは――最初から最後まで一度も、本当に一度も、自分を疑いも、裏切りもしていなかったのだと。
―――藍……。
どこかで声が、聞こえた気がした。
「忘れ物だ、楓」
きれいな放物線を描いて投げられたそれは、一瞬空の青に溶けて――やがて波光きらめく彼方へと消えていった。