vvvvvvvvvvvvv

                  



 五感に直に響いてくるような不快な声で、真宮楓はぼんやりとまどろみから覚醒した。
「っ………」
 起きた途端、側頭部に鈍痛が走る。
 それでも記憶は明瞭だった。
 突然予定していた空路を外れ、暴走を始めた小型航空機。
 破壊されたプログラムの修復を試みたが、結局は間に合わなかった。やがて機体は、吸い寄せられるように、海上へ急降下していった。
 みるみる近づいてくる海面を見ながら、さすがに、もう駄目かと思ったが――。
 着陸したのは見知らぬタイプのイージス母艦。その甲板の上だった。
 着陸した――というよりは、着陸するよう、あらかじめ誘導されていたのだろう。
 ハッチを開けて、外に出た途端、銃口を向けられた。
 海兵というよりは、迷彩服を身にまとった、ゲリラのような男たちだった。いずれも日本人ではない。
 それからのことは、あまり記憶にない。激しい衝撃と共に、腕に痛みを感じたような気がするから、あれでも格闘になって、何かを皮下注射されたのかもしれない。
「…………」
 楓は、改めて自分の、今置かれている状況を確認した。
 木板の床に、まるでエビのように身体をまるめて転がされている。
 両腕が背後に回され、きつく縛り上げられていた。動かす度、手首にぎりぎりとした痛みが走る。
 冷たい鉄板が、壁、天井、一面を覆っている。
 そして、異常に低い天井に、どこか不安定な床の揺らぎ。
―――船の中か……。
 着陸させられたイージス艦。その一室に、今、こうして監禁されているのだろう。
 ふと、楓は背後に何かが動く気配を感じた。
 目覚めた時もそうだった。確かに誰かの声を聞いた気がした。
 記憶の底に染み付いた、よく知っている男の声。
 背後には、確かに何者かの気配があった。
「…………誰だ……」
 楓は、強張る首を曲げ、無理に後ろを振り返った。
 これは―――悪夢の続きなのだろうか。
 悲鳴が、喉で押しつぶされ、音を立てる。
「久しぶりですね、真宮博士……」
 立っていた男は、姜劉青だった。



                五



「獅堂さん、僕ね、ずっと思ってました」
 スカイキャリアの操縦桿を握りながら、滝沢は前を見たままで話しはじめた。
 幼かった横顔が、今はすっかり引き締まって、別人のように大人びて見える。
 獅堂は思わず眼を細めていた。
「僕たち人類は、楓さんたちの力を受け入れられるほど強くはない、立派でもない。僕らの意識が変革される日まで待ってたら、楓さんも嵐さんも、永久に地上には戻れない」
「……そうだな」
 獅堂は蒼く翳る空に視線を転じる。
 ずっと苦しみ、悩み続けてきた命題――それは、ここに至っても何一つ解決されてはいない。
 が、何故か獅堂は、それを絶望だとは思えなかった。
 それは――所詮、あっけなく乗り越えられる壁のひとつにすぎないと、今は、そんな風にしか思えなかった。
「でも、」
 滝沢もまた、力強く言葉を繋いだ。
「楓さんも嵐さんも、人類の同胞です。ベクターだってそうだ。ベクターを……いや、異質な存在を排除しあう種に、この先、真の発展なんてありえない」
「そのとおりだよ、滝沢」
 それを今は、滝沢だけでなく――今日、オデッセイにいた全員がもう知っているような気がした。いや――ひょっとしたら、もっと多くの人たちが。
 この長い長い冬の時代を経て、心に、雪が降り積もっていくように。
 ふいに振り向いて滝沢は笑った。
「だったら答えは簡単なんだ。あの二人の力を二度と必要としない、そんな強さを僕たちが、もっと身につければいいんです」
『滝沢、獅堂、シュトラウスの現在地を捕捉した』
 通信機から、降矢の声が響いている。
『日本領空圏外、中国の防空識別ポイント23004、気をつけろ、今、室長が中国政府にかけあっているが、領空侵犯機としてスクランブル攻撃の対象になるかもしれん』
「……室長が、中国政府にですか」
 言われた言葉より、その方に驚いた。獅堂は思わず聞き返していた。
『目茶苦茶だよ、あの女は』
 降矢が、苦笑まじりに呟く声がする。
『今、こっちは、本庁から問い合わせの電話が鳴りまくってる。頼むぞ、獅堂、これで失敗したら、なんのために昇進をふいにしたのか、わからなくなる』
 冗談交じりの声と共に、通信が切れた。
 目の前の画面には、すでにシュトラウス号の位置が、赤い点となって点滅している。
「降矢さんも、相当無茶な人だと思うけどなぁ」
 滝沢が、どこか楽しそうにそう呟いた。
 そして、すっと、その横顔を引き締める。
「…楓さんの……発信機が……もし作動していなかったら」
「大丈夫だ、判断は自分に任せてくれ」
 獅堂は、自分に言い聞かせるようにそう言って滝沢を見た。
「それよりお前、一人でスクランブルから離脱できるか、中国の奴らはしつこいぞ」
「まかせといてください、さんざん名波さんに鍛えられましたから」
 獅堂は笑う。
 その名波も――北城も、大和も、相原も、今はオデッセイで、発進許可を待っているはずだ。
 楓のいるはずのポイントまで、そろそろ二百キロになろうとしていた。
「そろそろだな」
 獅堂はシートベルトを外し、ヘルメットを掴み取った。
「滝沢、お前は何があっても深追いするな、さっさとここを離脱しろよ」
「了解」
「行ってくる」
 獅堂は敬礼し、滝沢に背中を向けた。
「獅堂さん」
 滝沢の声が、背中に追いすがる。獅堂は振り返った。
「あなたは、強い人だ」
 滝沢はそれだけ言って、にっこりと笑うと敬礼した。



                 六




「……劉…青……」
 楓は呟いた。
 確かに劉青だ、姜劉青。その声、そして全体から滲み出る雰囲気、でも。
 楓は自分の眼を疑った。
 まだ――これは、悪い夢の続きかもしれないと思っていた。
 劉青の容貌は変わり果てていた。
 つややかに輝いていた髪は殆んど抜け落ち、薄く残るだけになっている。
 肌は赤黒く変色し、片方の目は、完全にマスクで覆われていた。そして、白いスーツに覆われた身体は、異様なほどに痩せている。
「………どうしたんだ、それ」
 出てきた声は、むしろ――恐怖というよりは、目の前の男に対する同情からだった。
 かつて、自分があれほど恐れ、悪夢にまでうなされたものとの邂逅。
 なのに不思議なくらい落ち着いていられるのが、自分でも不思議だった。
「……あの事故でね」
 目だけは昔のままだ。
 研究という名目で、あらゆる手段を用いて楓の身体を陵辱し、精神まで切り刻んだサディストの目。
 その右腕の部分の白衣が――空洞のようにひらひらと揺れている。
「…………」
 楓は眉をひそめた。
 それは、楓自身が打ち抜いた弾丸の後遺症なのだろう。
 確実に腱と動脈を打ち抜いたはずだった。おそらく、二度と使い物にならないとは思っていた。いや、手当てが遅れれば、絶命してもおかしくないだけの出血量だった。
「……それは、放射能障害か」
 息苦しさを堪えて楓は聞いた。
 鷹宮の身体のことは知っている。それと同じ苦しみを、劉青もまた、背負っていたということなのだろうか。あの事件で。
 それには答えず、劉青は薄く笑っただけだった。
「ずっと待っていた……君が、私のところへ帰って来るのを」
 そして、膝をつき、少し高い目線から、じっと楓を舐めるように見回した。
 楓は半身を起こし、壁に背を預けるようにして後ずさる。
「君は必ず戻ってくる、それが今日まで、私の支えだったのだから」
「…………」
「無駄だよ、真宮博士、今度こそ本当に逃げ場はない」
 今、この船はどういう状況になっているのだろう。
 忙しく楓は考える。ここから逃げ出すチャンスを計り続ける。
 空路を外れた飛行機は、NAVIのメインコンピューターが管理している。とすれば、この異変は、間違いなくレオに伝わっているはずだ。
「レオナルド君は、君が、私の作ったクローン体だと主張しているらしいね。……おかしなものだ、ある意味笑える詭弁だよ、それは」
 そして劉青は声もなく本当に笑った。
 その歯並びのひどさに、楓は眼をそらしていた。
 一体劉青は何処を病んでいるのだろう。身体の芯から腐りかけているような、そんな気がする。
「これは、……お前の船なのか」
 時間稼ぎに、目を逸らしたままで楓は聞いた。
 とにかく、なんとかして脱出の糸口を見つけるしかない。
「……ドイツの誇る最新鋭のイージス母艦だよ、真宮博士。演習中に拝借した。なに、少しの間、借りておこうと思ってね。退職金にしては安いものだろう」
「へぇ……」
 それでは。
 楓は考える。
 他に乗組員がいるはずだ。劉青の息のかかった者以外に、誰か。
「あの……日本の北の海域で、はっきり君の姿を見てから」
 劉青は、表情の読めない目で、じっと楓を見下ろした。
「日ごと夜ごと、君が恋しくて仕方なかった。真宮博士……あれは、私にとっても賭けのようなトラップだったのだ。もう、君の帰還を悠長に待つほど、私の身体は丈夫ではないのでね。全ての私財を投げて、……あの海域に青い光という罠を仕掛けた」
「………」
 楓は、当時のことを思い出す。
 不思議だった。あの時、確かに自分は"真宮楓"ではなかったはずなのに。
 時折、夢の中で覚醒するだけの人格。
 真宮楓としての自意識は、隆也・ガードナーという人格の下で、いつも眠っていたような気がするのに――。
 なのに――全くの無意識だった。無意識に"自分"が隆也の中で覚醒し、レオの制止を振り切ってあの場に向かった。
 そして。
「君は……、かつての恋人を救った」
 劉青は続けた。
「光の力を見せてもらえなかったのは残念だったがね、私は、確かに肉眼で君の姿を確認した」
 劉青の腕が、楓の脚に触れた。
 そのまま腿をわしづかみにされる。細いようで異常に強い力だった。
「誰にも、もう誰にも君を渡さない。君は――あの光は、私だけのものなのだから」
 てのひらが、腿から腹部に這い上がる。
 吐き気がした。
 また――昔のトラウマが、悪夢のような記憶の数々が、心の底から蘇り始めている。
「君を……もう一度、私のものにするよ、真宮博士」
―――誰か……
「君の光が私には必要なんだ、その身体ごと、私が頂く」
―――助けてくれ、誰か……
 シャツのボタンが外される。楓は、目をそらしたまま、全身の悪寒と震えに耐えた。
―――嵐……嵐。
「君は……美しい、存在自体が奇跡のようだ」
―――嵐……!
(強く生きろ、)
 声が、ふいに聞こえてきたような気がした。
 凛とした力強い嵐の声に似て、決して男のものではない声。
(強く生きろ……お前、本当は、マジですごいやつなんだから)
「…………藍……」
 そうか。
 うつむいた楓の唇に、初めて苦笑のようなものが漏れた。
 俺はすごい奴か、そんなこと言ってくれるのは、絶対にお前くらいだよ、多分。
「目的はなんだ」
 肩をねじり、楓は劉青の手を逃れた。
 揺ぎ無い瞳で見あげると、不審そうな目になった劉青は、無言でその手を楓から離す。
「言えよ、変態野郎、今度は何を企んでる」
「…………」
 楓の態度が信じられないのか、劉青は、どこか――探るような目をしている。
 が、やがて、ふっと、微笑を浮かべながら立ち上がった。
「私の身体は、すでに全身が病み爛れていてね。細胞の半分は死んでいる。まともに機能しているのは、もうここくらいだ」
 こん、と劉青は、自分の頭を指で示した。
「……脳…?」
 楓は呟き、同時に、妙な悪寒を感じていた。
「心配しなくても大丈夫。もう、実験では何度も成功している。この一年、私はずっと準備してきたのだからね」
 龍青はひび割れた唇を湿らせて、薄く笑った。
「私の脳を、君の身体に移植するんだよ、真宮博士」













 >>next >>back>>天空目次