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「え、戻っていいのか、マジで?」
いきなり鳴った腕時計型の携帯通信機。
声は滝沢のもので、それは、獅堂にオデッセイに戻るよう、そう告げる内容だった。
『百里に、輸送機が待機してますんで』
滝沢の声は、妙に沈んでいて、それが不審な気もしたが、指揮官の命に従わないわけにもいかない。
『獅堂さんの到着次第、即時発進することになってます。急いで戻ってください』
「了解」
百里基地は、目と鼻の先である。
通信機を切りながら――ああ、そっか、とようやく獅堂は理解した。
昨日から、自分の行動も追われていた、ということなのだろう。
「…………」
無言で、蒼く澄んだ空に視線を向ける。
青空に煌く点となって消えて行く機体。
車に背を預けたまま――その機影を見送りながら、これが本当の別れになるのだと、獅堂は静かに実感していた。
楓は知っていた、自分が何者であるかを。
そして、かつて暮らした日々のことを、確かに思い出していた。
その上で、別れを選んだ。
獅堂には判っていた。楓が言い出さなければ、きっと自分が言い出していたはずの別れ。
それを――楓は、知っていたから。
「…………」
自分は、自分の選んだ道を、行く。
今、この瞬間、自分の手を必要としてくれる人の所へ。
もう、決めてしまった生き方。
淡い飛行機雲が滲む空。楓を乗せた機体は、天空の彼方へ消えてしまった。
「さよなら、……楓」
獅堂は呟いた。
今度こそ、本当に。
act14 永遠の翼
一
警備員に指示されるままに輸送機に乗り込んだ獅堂は、あっと驚いて声をあげていた。
「……し、椎名……さん?」
後部座席に、一組の夫婦連れが座っていた。
最初、それは、見知らぬ他人に見えたが、ひょい、と妻とおぼしき女性が手を上げたので、獅堂は、その方に目を向けた。
そして、最初に飛び込んできたのが、獅堂と同じように、唖然とした顔をしている椎名恭介のものだった。
「獅堂、お前、何やってんだ」
眉を上げた椎名の、呆れたような声がする。
「しどー、久しぶりじゃない、ったく、薄情なんだから」
その隣で、膝に小さな子供を乗せている女――旧姓、倖田理沙。
獅堂の尊敬する先輩で、元要撃戦闘機の訓練生である。
「……倖田先輩……」
今は、椎名理沙である。
が、つい昔の名前で呼んでしまう――確かに一時恋のライバルではあったものの、本当に大好きな人だった。獅堂は胸がいっぱいになりながら、三人の傍に歩み寄った。
「あ……太りまし」
そこまで言いかけた頭を、ばしっと、思いっきり叩かれた。
「産後は太るものなのよ、あんたもさっさと経験しなさい」
「は、はぁ」
困惑しつつ、椎名家族の隣席に席をとる。
発進準備をはじめた輸送機、乗客は、この四人だけのようだった。
轟音を立て始めたエンジン音に驚いたのか、理沙の抱いている子供が、おびえたような声を上げ、母親の胸にしがみつく。
「おお、よしよし、ダメじゃない、パイロットの子供が飛行機の音でびびるようじゃ」
ふくいくとした横顔で、それをあやしている理沙は、やはり、輝くほど美しかった。
「……椎名さん、今月で退艦……でしたよね」
その光景を見ながら、微笑ましくなって獅堂は呟いた。
この幼子も、やがて、椎名のように空に出て行くような――そんな確かな、そして不思議に確信があった。
「今日は、挨拶に上にあがるんだ」
椎名は、おそらく、こんな姿を見られたのがなんとも気恥ずかしいのだろう。顔に、無理な渋面を浮かべている。
地上勤務に備え、椎名はずっと休暇を取っていた。
明日づけで、椎名は正式にオデッセイを去り、パイロットを永遠に卒業する。
「どうしても、こいつがついてくるって言い張るんでな、まぁ……室長にも、構わないと言われたし」
「どうしても、最後に天の要塞に行って見たかったのよ」
理沙は、少し穏やかな表情になって微笑した。
「……恭介が命を賭けて戦った場所だものねぇ……この子に、どうしても、見せてやりたくて」
「…………」
命――命というよりは、確かな意思。
それを、椎名は、もう次世代に残したのだと、獅堂はそう思った。
「で、一体お前は、何やってんだ、獅堂、そんな呑気な私服姿で」
「あー……いや、その」
まさか、ジュネーブで、桐谷に逆らって、無期限の謹慎中だとは説明できない。
しかも、パイロットの資格も、一時的であるが、剥奪されているとは。
ずっと地上に降りていた椎名には、そのあたりのことがまだ知らされていないのだろう。
「まぁまぁ、いいじゃない。今はそんなこと煩く言わなくても」
と、間に座る理沙が、空気を和ませてくれる。
「……獅堂、何かあった?」
そして、女は、優しい声でそう言った。
「……え……?」
「幸せと、」
その目が、いたずらめいた輝きを増した。
「悲しみが、ごっちゃになった目をしてるよ、獅堂。一晩過ごした恋人と別れた朝みたいな目」
げほげほと獅堂は咳き込んでいた。
「は、はは」
な、なんつー、的確な表現なのだろうか。
「……鷹宮は」
理沙は、声をひそめて囁いた。
ふいに出てきたその名前に、獅堂は言葉をなくしていた。
「あんたが思ってるよりね、ずっとあんたが大事なんだよ、獅堂」
「…………」
「だからね」
「理沙、」
椎名が、それ以上言うな、とでも言うように苦い声で言う。
「あんたが……思うように生きる事が、一番なんだよ」
「…………」
アナウンスが、離陸準備が完了したことを告げる。
獅堂が何か言いかけたその時、右腕の通信機から短い発信音がした。
獅堂は眉をひそめた。おそらく椎名も緊張している。
この短い音波は、緊急事態を示しているからだ。
獅堂は即座に、通信機を受信モードに切り替えた。
「はい、こちら獅堂」
『――獅堂さんっ、すぐにオデッセイに戻って来てください!』
滝沢だった。異様に緊迫した声。
「いや……だから、戻ってるんだが」
『あ、あ、そっか、……と、とにかく早く、今、レオナルド会長から緊急回線が入って来て、』
「どうした、滝沢、何があった?」
上から、椎名の声が被さった。
『……ま……、じゃない、リュウさんが』
「隆也が?」
獅堂は、通信機を握りしめた。
楓とは、つい二十分前に別れたばかりだ。
嫌な予感がした。まるで、一年前の、あの事件の予兆のように。
『隆也さんの乗った航空機が、太平洋上空で、消息を絶ったらしいんです』
二
オデッセイ。
格納庫に入った機体を飛び降り、オペレーションクルー室に駆けつけるまでの何分かが、獅堂には永遠のように感じられた。
「獅堂、落ち着け」
「わかってます」
背後から椎名もついてくる。
まだ、今日の時点で、椎名の身分は、オデッセイ所属の要撃戦闘機パイロットなのである。
ようやくたどり着いたオペレーションクルー室。
獅堂は、ものも言わずに、扉の中に踏み込んだ。
「獅堂」
右京がいる。降矢もいる。
全面の大型ディスプレイには、レオナルド・ガウディの顔が、険しい表情のまま映し出されている。
『――どうして、楓を一人で行かせたんだ、獅堂さん』
悔しさの滲んだ声で、最初にそう言ったのはレオだった。
楓。
いきなり飛び出したその名前。
獅堂は、黙って、レオの顔を見つめ返す。
『楓を君のところへ送った僕の気持ちがあなたにわかりますか?あなたが、……楓を救ってくれると、そう信じていたから、……僕は』
「今はそんなことを言っている場合じゃないだろう」
厳しい声でそう言ったのは右京だった。
獅堂は右京を振り返った。
「状況を教えてください」
「隆也・ガードナーの乗っていた小型機のコンピューターが、おそらく別のプログラムに書き換えられていたんだろう」
答えたのは降矢だった。
「NAVIのメインコンピューターからのアクセスも出来ない状況だった。小型機は、そのまま太平洋上空、高度三百まで急降下して、」
獅堂は、自分の足元が冷たく凍りつくのを感じた。
「そこで、レーダーから消えた」
それは、――通常、墜落したことを意味する。
「わかりました」
背後でドアが開いて、歯切れの良い声がした。
鷹宮だった。背後には滝沢も立っている。
鷹宮は一瞬獅堂を見て、すぐに視線を右京に転じた。
「昨日から、ドイツの軍用船、シュトラウスが試乗航海中に連絡を絶っているそうです。予測される航路は、隆也君が消息を絶ったポイントと、非常に近い」
「やはり海か」
右京が立ち上がった。
「ヨハネ博士が乗っている可能性は」
「EURは否定しませんでした。肯定もしませんでしたが」
ヨハネ……?
獅堂は自分の耳を疑った。ヨハネ?
ヨハネ・アルデヒド―――姜劉青。
「現在、欧州連合軍が総力をあげて捜索しているとのことですが……我々の協力は、拒否しています」
「そうだろうな」
右京は低く呟く。
『右京さん、軍が絡めば、僕たちには何も対抗できない』
レオの悲痛な声がした。
『楓を救ってやってください。あなたの力で、……お願いします』
あのプライドの高い男が、今は、画面の中、頭をさげんばかりに懇願している。
『今、楓が姜と再会してしまえば、楓は……彼には逆らえない、また、一年前と同じ悲劇が起きてしまう……!』
唇からは、無念の歯軋りさえ聞こえてきそうだった。
『お願いします、右京さん、楓を、楓を助けてくれ』
「防衛庁所属機関……オデッセイとしては」
静かに口を開いた右京は、そこでいったん言葉をきった。
「この件に、手出しはできない」
獅堂は右京を見た。
指揮官の横顔は厳しく引き締まり、感情の掴めない冷たさがあった。
「ど……どうして!」
叫んだのは滝沢だった。
「どうしてなんですか、室長、すぐに本庁に連絡して……アメリカ海軍に要請すれば」
右京はそれには答えない。
まだ幼げな顔を歪めた滝沢は、憤ったように拳を握りしめた。
「じゃあなんで、……なんだって僕たちは、真宮さんのことを、あんなに必死になって色々調べたりしたんですか!」
「行方不明になっているのは、真宮楓本人ではない」
右京の声は冷静だった。
「現時点ではアメリカ国籍を持つ一民間人だ。そうだろう?レオナルド会長」
レオが、はっと息を呑む気配がした。
「あなたと嵐が作り上げた筋書きは完璧だ。髪の毛一筋の疑問を挟む余地もなかった。お見事だ、レオナルド会長」
『右京さん……』
「ここで我々が積極的に動いて欧州連合とぶつかり合えば、またしても一年前と同じ状況になりかねない。そうなれば今後ヨーロッパの連中は、嫌でもあの青年に疑いを抱くようになるだろう。例え無事に彼を救出できたとしても」
全員が、言葉をなくして黙り込んだ。
獅堂にもようやく、右京の真意が判りかけていた。
「我々は動けない。オデッセイは――日本政府は、戦闘機を飛ばせない」
「自分が行きます」
獅堂は言った。
出てきた言葉は自然だった。
「行かせて下さい」
獅堂は前に進み、敬礼した。
右京は黙り、じっと獅堂を静かに見つめる。
「聞こえなかったか、戦闘機は使えない」
「民間航空機で向かいます!」
「ミサイルの搭載されていない機で、一体何ができる、獅堂」
心の底を見透かすような鋭い目。
獅堂はそれをまっすぐに見つめた。そして、冷徹に見えて、その実暖かな心を持つ指揮官の――その眼の奥にある真意を、掴み取ろうとした。
「何ができる、獅堂、お前に」
かつかつと歩み寄る、冷ややかで厳しい眼差し。
「――入隊以来、要撃型戦闘機にしか乗ったことのないお前に、一体何ができる、獅堂!」
「何ができるかどうかは、」
獅堂は唇を引き結んだ。
「やってみなければ、わかりません!」
静まりかえった室内に、コンピューターノイズの音だけが響いている。
「方法はあります」
口を開いたのは鷹宮だった。
「獅堂リーダーが、シュトラウスでなんらかのトラブルに巻き込まれれば、我々は大手を振って、救出ミッションを実行できる。一民間人でなく、防衛庁の軍人を助けるために」
鷹宮さん。
獅堂は初めて我に返って鷹宮を見た。
『――右京さん、楓がつけているピアスの中に、小型の追跡型発信機が内蔵されています。半径十キロ以内に入れば、シュトラウスの位置は、それで掴める』
レオの声。
「いいだろう」
右京は頷いた。
「獅堂さん、僕が近海までスカイキャリアで輸送します」
滝沢だった。
「誰がなんて言ったって、僕は行く、今行かなくちゃ、僕がオデッセイに入った意味なんて、何も無いんだ!」
初めて右京は眼を細めた。
そして、厳しい眼差しのまま、背後を振り返る。
「降矢、雷神、白虎、黒鷲、みかづきを緊急待機態勢に入らせろ。ディスカバリーには、獅堂の機をバックするよう指示しておけ」
「はっ」
「それから、JALに、航空緊急措置法第22条13項により、緊急協力要請、責任は全て私が取る」
ばたばたと降矢と、そして滝沢が室内を飛び出していく。
右京は、立ったままの椎名を振り返った。
「椎名、行けるな」
「了解」
そして最後に、右京は獅堂に向かって敬礼した。
「ゲット、ウォーリー」
獅堂は敬礼したまま、力強く頷いた。
三
部屋を飛び出し、駆け出そうとして――獅堂は足を止め、振り返った。
廊下の、わずか数メートル先。
鷹宮が、立ったまま、静かな眼で見つめている。
獅堂は息を呑んだ。
「自分は……」
言葉が、何も出てこない。
決めたのに、約束したのに。
傍にいると、支えになると。
でも結局、最後の最後で、自分は――
鷹宮が、近寄ってくる。
大きく響く足音。そして、強い力で両腕を掴まれた。
「この手を振り払って、行けますか?」
胸の底に響くような声だった。
「この手を払いのけて、あなたは楓君のところへ、行くことができますか?」
獅堂は眼を閉じた。
出会った日から色々なことがあった。好きだった、本当に大好きだった。きっと――
初めて会った時から。
「い……行けます……」
それだけ言うのがやっとだった。
震えながら顔をあげ、男の眼差しを受け止めた。逃げてはいけない。今、――自分が切り捨てようとしている、苦しいほど大切な人から。
「自分は、……あなたを守ると言ったのに、約束したのに」
「………」
「ど……どんなにさげすまれても、憎まれても構わない、やっぱり、楓を選んでしまう、……あいつを…」
自分は………。
「……よく、言えました」
鷹宮の手が、静かに離れた。
獅堂は、前に立つ人の顔を見上げた。
痩せた男の顔に、怜悧で、そして優しい笑みが浮かんでいる。
そして、鷹宮は、ふいに彼らしい、いたずらめいた眼差しになった。
「専守防衛の基本を述べよ」
―――えっ……。
「あ、相手から武力攻撃を受けたとき初めて防衛力を行使し、」
戸惑いながらも、獅堂は反射的に、記憶どおりの言葉を返す。
「その態様も自衛のため必要最小限にとどめ、また保持する防衛力も必要最小限のものに限られることをいいます」
忘れたくても忘れられない。
訓練生時代、何度も何度も暗唱させられた定義である。
が、なんだって、今、そんな。
―――鷹宮さん……?
獅堂の疑念は、柔らかな笑みで遮られた。
「対領空侵犯措置の定義は」
「……?……領空侵犯機を着陸させ、又は退去させるために必要な自衛隊の措置をいいます」
「警告の方法は」
「け……」
は、と獅堂は言葉を途切れさせた。
ようやく判った。これは――松島基地で、最後の訓練課程の前に――。
「警告の方法は?」
「け、警告音声を国際緊急周波数で送信、その後、機体によるボディランゲージで着陸、退去指示を行います」
「私の名前は?」
「………………」
た……。
獅堂は、必死で涙を堪えた。もう、鷹宮の顔を見る事ができなかった。見たら、二度と手を離せなくなりそうだった。
「鷹宮篤志……二等、空佐です」
自分の唇も、そして声も震えている。
「お行きなさい、獅堂さん」
優しい声がした。
心の底に、沁みていくような声だった。
「……あなたの、大切な人がいる空へ」
「…………」
鷹宮さん………。
遠ざかる靴音を聞きながら、そのまま獅堂は動けなかった。
一ミリでも動けば、涙が溢れてしまいそうな気がする。
それでも、歯をくいしばって敬礼し、きびすを返す。
「獅堂、」
声がした。
脚を止めた獅堂は、有り得ない人を見て、本当に驚いていた。
「……倖田先輩……」
「行くのね、獅堂」
「…………」
どこまで事情を知っているのか、判らないまま、獅堂はしっかりと頷いた。
理沙はふと、場違いに優しい笑みを浮かべた。
「たとえば、車が激しく行き交う国道沿いを歩いていて」
「…………え?」
「道路を挟んだ向こう側を歩いている人。眼が合うことも無く行き違ってしまうその人が、実は運命のひとだったりするんだよね」
もう、何年も前に聞いたセリフ。
少し眼下から、見上げる眼差しは優しかった。
「獅堂は方向音痴だから、その人の所に行き着けるかどうか心配だったけど」
「倖田さん……」
「やっと、たどり着きそうじゃない」
堪えていた涙が溢れた。
「莫迦、泣いてる場合か、獅堂藍!」
訓練生時代に何度も聞いた、厳しい叱責。
獅堂は、唇を噛み締めて、敬礼する。
「さっさと、飛行機でつっこんでいきなさい、獅堂!あんたなら、それができるんだから」
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