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                  七


 薄目を開けた途端、眩しい光に視界がくらむような気がした。
 獅堂は浅い眠りから目覚め、跳ね起きた。
「か……」
 寄り添って寝ていたはずの、楓の姿はどこにもない。
―――夢……?
 夢のはずはない。夜中に何度も目覚めては、傍にいることを確認した。
 あのまま、互いに寄り添ったまま、この窓の下で、ひとつの毛布を被って眠った。
 お互い無言だったけど、手だけはしっかりと繋いでいた。
 不思議だった。
 たったそれだけのことなのに、言葉や身体で言いつくろうよりも、もっと強い、深い絆で結ばれたような気がする。
 でも――。
「起きた?」
 リビングから声がする。
 獅堂は立ち上がり、コーヒーの香りが漂うリビングに入った。
 とはいえ、そこにはせいぜい段ボールくらいしか置いていない。
「さっむいなー、よく風邪ひかなかったよ、あんなとこで寝て」
「…………」
 キッチンから湯気の立つ紙コップを二つ持ってきながら、楓はそう言って微かに笑った。
「コンビニで買ってきた、まだあったかい、飲むだろ?」
 まるで、過去に戻ったような朝の情景。
 獅堂はしばらく、何もリアクションできずに立ち尽くしていた。
 これは――本当に、現実なのだろうか?
「腹、へってんなら、食えよ」
 そう言って楓は、段ボール箱の上に置かれた、ビニール袋を指差した。
「俺、もう食べちゃったからさ、適当に食べていいよ」
 そして、所在なさげにそのダンボールの隅に腰かける。
「……金は」
「いいよ、泊めてもらったお礼」
 楓の横顔に、微かな影が差していた。
 獅堂は黙った。
 楓の態度の意味を――考えていた。楓ではなく、どこか他人のように振舞う態度の意味を。
「兄貴の好きだったもの、よく判ったよ。サンキュ」
 ひと口だけコーヒーを飲み、すっきりとした笑顔で、楓は言った。
―――兄貴……。
「あーゆー判り方もあるわけだ、ごめんな、でも俺も、あそこでよく我慢したよ」
 ふざけたような口調。
 完全に――隆也の喋り方になっている。
 でも。
―――楓だ。
 獅堂はもう確信していた。
 こいつは、楓だ。
 隆也・ガードナーではなく、むろんクローンなどでもない。
 本物の――あの日、沖縄の海で別れた真宮楓。
 正直言えば、どこまでが芝居で、どこまでが本気なのか、まだ獅堂には判らない。
 昨夜―― 一体どこまでが隆也で、どこから楓に戻ってしまったのかも。
 ただ、ジュネーブでの楓は、芝居でも演技でもなく、自分を隆也・ガードナーだと思い込んでいたような気がした。
 記憶を操作されていたのかもしれないし、自らの意思で、それを望んだのかもしれない。
 楓の傍に――嵐の姿がないことも、気になっていた。
 この一年で、楓が体験した悲劇を思うと、もう何も言えなくなる。
 楓が、自ら決心したことを思うと、もう……何も聞けなくなる。
 楓は幸せだったはずだ。少なくとも、日本にいた時よりは。
 一人の民間人として、隆也・ガードナーという青年として、レオの傍で――屈託のない幸せな日常を過ごしていたはずなのだ。
 獅堂が黙ったままでいると、ふいに顔を上げた楓が、笑みを浮かべて言った。
「俺たち結局何もしてないし。こっちは許してくれると思うんだけど、そっちは大丈夫?」
「何が」
「鷹宮さん」
「…………」
 獅堂は顔を上げた。
 楓の――その瞳の色を見た時、獅堂にはようやく全てが判ったような気がしていた。
「……いや、死んでも言えないし」
 胸の痛みを抑え、獅堂も笑った。
「言う気もない」
「はは、じゃ、俺、すげー弱味握ってんだ」
「………」
「………」
 獅堂はコーヒーを口につけた。舌に沁みて苦かった。
「……でも、安心していいよ」
 ダンボールの上に腰掛けたまま、楓は、膝の上で指を組んだ。
「俺、戻ったら、頭ん中、ちょっと綺麗にしてもらうから」
「なんだよ、それ」
「…………多分、お前のことも、すっぱり忘れるんじゃないかとおもうよ」
「…………」
 ああ、そっか……。
 初めて獅堂は、楓が一人でここまで来た理由が判った気がした。
 どこまでが楓で、どこまでが隆也なのか、それは、もう、想像するしかないけれど――。
 記憶の底にある何かを求め、それと決別するために、おそらく楓は来たのだろう。獅堂と同じで、本当に最後にするつもりで。
「……自分、…………ひとつだけ、お前の兄貴に言えなかったことがあってさ」
 獅堂は、うつむいたままで呟いた。
 最後に別れたあの海岸で、言おうとして言えなかったこと。
 最後にどうしても、伝えたかったこと。
「自分……」
 楓が、息を詰めて獅堂の言葉を待っている。
 喉元まで出かかった言葉を、獅堂は口の中で微かに呟き、飲み込んだ。
「いや、やっぱりお前なんかに教えない」
「なんだよ、もったいぶりやがって」
 気が抜けたように、楓は笑った。
 その、繊細で儚げな笑顔に、獅堂は胸がいっぱいになっていた。
「お前さ、自分のこと大切にしろよ」
「なんだよ、……説教?」
 露骨に眉をしかめる楓。
 愛しい。
「身体も大切にして、ちゃんと食えよ。それから危ないことに首つっこむな。トラブルになったらレオに相談して、一人で全部抱え込むな」
「なに、言ってんだよ、らしくない」
 愛しくて、苦しい。
 苦しい――。
「自分には、何もしてやれない」
「…………」
 獅堂は楓の手をとった。
 暖かい指先を、そっと掌で包み込んだ。
 知っている。
 楓は知っている。自分が真宮楓だということを。そしてそれを、獅堂が知っているということも含めて、全部。
 だけど、いや――だからこそ。
「何もしてやれない、お前を守ることはもう……できない」
「…………」
「自分は、自分の決めた道を行く、だからお前も」
「………」
「強く生きろ、……お前、本当は、マジですごいやつなんだから」
「ジムにでも通おうか」
 初めて、楓が微かに笑う気配がした。
 獅堂は顔を上げ、苦笑した。
 もう、言葉では何も伝えることはない。
 ゆっくりと、手を離した。
 もう、二度と互いに必要ないぬくもり。
「絶対に、」
 獅堂は言った。
 この別れを、後悔なんかしないですむくらい。
「幸せになってくれ…………」
 絶対に。
「………ばーか」
 静かな声がした。
「言ったじゃん、今、何言われても、忘れるんだって」
 その口調に、獅堂は思わず笑っていた。
「俺は、大丈夫だよ」
「うん……」
「大丈夫だよ」
 ぽん、と頭を叩かれた。
「…………帰るよ」
 そして、ぽつり、と楓は言った。
 獅堂が顔を上げると、すでに楓の目はサングラスで覆われていた。
 薄い唇が微かに笑う。ふざけたような――他人の笑い方。
「じゃ、送ってくれよ、獅堂さん」
「いいよ」
 立ち上がりながら、獅堂は答えた。
「じゃ、行こうか、隆也」



















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