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                  六


 部屋に着くまでの間、隆也が黙りがちになっているのが気がかりだった。
 暗い横顔を見せたまま、じっと何かを見つめ、何かを待っているように、獅堂には見えた。
 しかし、車を降り、エレベーターに乗った頃から、隆也は、何かをふっきったように、明るい口調で喋り始めた。
「兄貴の部屋って、どんな感じ?やっぱ趣味悪い?」
「だから、何も残ってないって言っただろ」
 荷物の殆んどは、整理して、運び出した。
 楓のものは、多分、ゴミみたいなものしか残っていないはずだ。
「どうぞ」
 獅堂は鍵を回し、ドアを開けた。
 一瞬、風が吹き抜けたような気がした。
「あれ……窓、開いてんのかな」
 中々脱げない靴と格闘しながら、獅堂は言った。
「見てこようか」
 さっさと部屋に上がりながら、隆也が言う。
「悪い、書斎かもしれない」
 そう言ってから、獅堂は顔を上げた。
「…………」
 形の良い後姿が、迷いもせずに、一番奥の部屋――かつて楓が、仕事部屋として使っていた場所に消えた。
 書斎にするにはもったいないほど広い部屋。
 おそらく普通の感覚の者なら、その部屋は寝室として使うだろう。
「閉まってるよ」
「…………」
「おい、聞いてる?にしても本当に何も無いね、ここ」
 獅堂はその場に立ったまま、しばらく何も言えなかった。何も考えられなかった。
 試すつもりでもなんでもなく、うっかり口から出てしまった言葉だった。
―――ああ、そっか。
 全ての疑問が、わだかまりが、解けて、崩れて、ひとつの場所に収まっていく。
 不思議なくらい驚きはなかった。
 ただ、開けまいと決めていた扉を、不意打ちのように開かれたような――そんな、あっけに取られたような気分だった。
―――莫迦だな、自分も。
 多分。
 多分、最初に、屋上で出会った時から、それが判っていたような気がする。
「なにやってんの」
 けげんそうな顔が、ひょい、リビングから覗いている。
「いや、」
 獅堂は靴を脱ぎ、部屋に上がった。
 部屋の中には、もう何もない。
 冷たいフローリングが広がっているだけの空間。
 書斎の窓には、日よけ用に管理人がつけたのだろう、褪せたカーテンだけが引っかかっていた。
 獅堂はそれを押し開け、窓をいっぱいに開けた。
 窓の外は夜の闇だった。
 風はなく、ひんやりとした冷気だけが2人を包む。
 隆也は、ひょいっと窓枠に手を掛け、その上に腰を預けた。
「いいねー、ここの眺め」
「…………」
 楓が好きだった場所。
 ここに座って本を読む横顔。顔も上げずに「おかえり」と言ってくれた声。
 隆也は出窓の木枠に背を預け、夜空を見上げるように首をかしげた。
「落ちるなよ」
「……落ちねーよ、お前じゃあるまいし」
 すぐに憎まれ口が返ってくる。
「……ちょっと、似てるな」
 が、すぐに隆也は素直な口調で呟いた。
「え……?」
「病院の屋上で見る空も……こんな感じがするからさ……」
「…………」
 そうか。
 そうなんだ、だからお前は、
 あの場所が好きだったのか。
「寒いから、締めよう」
 これ以上、ここに二人でいるのが苦しくなった。獅堂はそう言い、隆也をうながすように肩を叩いた。
 が、隆也は、身体の向きこそこちらに変えたものの、そこから動こうとはしない。
 獅堂もまた、そんな隆也に向き合ったまま、動く事も喋る事もできなかった。
「…………夢でさ」
 やがて眼を逸らし、隆也は低く呟いた。
「俺、時々、自分が兄貴になってんだ」
「……へぇ」
「夢の中の兄貴がさ、もう、ばっかみたいにお前のこと好きで」
 どこか楽しげな声だった。両手を頭の後ろで組んで、隆也は、何かを思い出すような目になった。
「なのに、強がるようなことばっか言うんだよな。もう顔も忘れたとか、お前がいなくても、全然平気だとか……」
「……そっか」
「なのにさ……言えば言うほど……辛そうなんだよな、つか、俺が辛いのか。会いたい、会いたいって」
「…………」
「……心の中で、ずーっと、そう言ってるような気がすんだ」
 会いたい。
 会いたい。
「だから俺まで、……へんな錯覚起こしてんのかな」
 隆也が浮かべた苦笑にも似た笑いは、けれど、半ばで唇から消える。
「……こないだの、ことも」
「………気にしてないよ、マジで」
 獅堂はそれを、遮った。
 これ以上、聞きたくなかった。
 これ以上、冷静を装う自信がなかった。
「その話は、もう二度としないでくれ」
 隆也は無言のまま、ただ、綺麗な眼をわずかにすがめる。
「……鷹宮さん、怒らせたら怖いんだ、マジで」
 冗談めかしてそう言ったものの、獅堂はもう、その目をまともに見ることができなかった。
「帰ろう、隆也」
 獅堂は背を向けた。
 背中から、隆也の声だけが聞こえてくる。
「俺、お前の苗字しか知らないのにさ、夢じゃ、下の名前呼んでんだ」
「……ふぅん」
 なんて――、といいかけて、獅堂は苦く口を閉じた。
 隆也も言葉を途切れさせ、部屋の中に沈黙が落ちる。
「帰ろう」
 獅堂はもう一度言った。
「空港まで送ってやってもいいし、ホテルに泊まるんなら、そこまで連れてってやるから」
「獅堂さん」
「……行こう、もう気がすんだだろ」
 今、目を見てしまえば、心に決めていたものが、全部壊れて、台無しになってしまうような気がする。
「窓、締めとけよ」
 振り返るな。獅堂は自分に言い聞かせて歩き出す。
 隆也が、窓枠から飛び降りる気配がした。
「―――藍」
 振り向かないと決めているのに。
 決めていたはずなのに。
「か………」
 獅堂は呟いた。
 呟いた途端に、涙が一筋だけ零れ落ちた。
「……楓」
 














 真宮楓は、ゆっくりと目を開けた。
――…………?
 あれ?ここは、どこだ……?
 曖昧に流れる記憶の断片。
 とたんに胸を衝くような悲しさが溢れ出す。
(――楓、いいか、俺の言うことをよく聞いてくれ)
(君も知っている例の計画だ、奇跡的にレオと連絡が取れた、俺たちはずっと準備していた。実行するなら今しかない)
(楓……君は生きてくれ、生きなければだめなんだ)
(楓!)
(人殺し!どうしてあんたが生きてるのよ!)
(生きろ……新しい人生を)
(楓、生きろ、苦しくても辛くても、君だけは生きつづけろ)
――――嵐、
――――嵐、死ぬな、嵐。
 たくさんの記憶と、底のない深い悲しみ。
 そして、その中に差す、一筋の光。
(……リュウヤ……それが、君の名前だ)
(苦しまなくていい、無理に思い出さなくてもいいんだ……君は、病気の後遺症で記憶に混同をきたしている……無理に、思い出さなくてもいいんだよ……)
(新しい人生を生きるんだ……過去を捨てて、ありのままの君として……生きてごらん)
 あれは、夢なのか、それとも現実のできごとだったのか。
 夢だとしたら、本当に――随分長い夢だった。そして、信じられないほど穏やかな気持ちでいられた夢だった。
 過去の罪も、痛みも、苦しみも――その夢の中には存在しない。
―――世界の……果て……。
(……楓、ここが、世界の果てだ……)
 嵐。
 嵐。もう一度お前に会いたい。
 お前に触れたい、抱き締めたい。
 目を閉じて――もう一度、夢の世界に戻れれば、そこでお前に会えるのだろうか。
(――おい)
 楓は、はっとして我に返る。
(自分を、覚えているか)
 夜を閉じ込めたような漆黒の瞳、凛とした輝き。
(必要があればいつでも引き金を引いていた。言い訳はしない。それがあの時の自分の信念だったからだ)
(自分の何が隙だらけだって?仮にも軍人で、言っとくけどそれなりの訓練は受けてるんだぞ)
(あ、ツナサンド、くそー、最後の一個って、お前が取ってたのか)
(そうだ、真宮、お前、ラーメンって好き?好きだよな、一応中華国民の一人だったわけだし)
 光の洪水のように溢れ出す言葉の数々。
 なんだ?これは。
 眩しいというより、うっとおしい。
 ここが――そもそも闇だということさえ忘れてしまうほどの、圧倒的な光。
(もっと、お前のこと、理解したかった)
(驚いたな、ドイツにいるとは聞いてたけど……こんなとこで会えるなんて)
(い、いいか、パイロットてのはな。人に背中見せちゃダメなんだよ。だ、だからだな)
(でさー、コクピットの中にカエルが紛れ込んでたんだよ、普通、ありえないだろ、そんなこと)
 絶え間ない笑顔。笑い声。怒った声、ふざけた声。
 光、途切れることなく降り注ぐ光の渦。
(ふ、振られたって気づいたのは、結構あとになってからで、その時は、自分がそいつのこと、好きとかどうとか、そんなこと思いもしなかったから)
(じ、自分は……初めてじゃ、ないんだ)
(どうせ趣味悪いしな、宇多田さんみたいに、綺麗なカーテン選べないしな)
(自分が傍にいる。お前の傍に、ずっといるから)
(……楓……)
 自分を覆う何かが壊れる。
 壊れて――そして、跡形もなく飛散する。
(大好きだからな……)
 言葉が、心が、気持ちが、愛が、まるで静かに積もる雪のように、自分の中に落ちていく。
(まさかと思うけど、灯り点けてないと眠れないタイプなんじゃ……)
(花嫁のブーケで……自分がもらっても仕方ないし、ほら、お前の部屋の窓んとこ)
(け、けけ、結婚とかってできたらいいな)
(自分を好きか?)
(法律婚は無理でしょうが、内縁婚という形で、いずれ、きちんとした形で一緒に生活していくつもりです)
(あいつ、笑うと可愛いんです、八重歯)
(……自分は、プロポーズしたんだ)
(ただ、手を繋いでいてくれたらそれでいい、自分は、お前が好きだから)
(お前が、自分のことを、本気で好きじゃなくてもかまわない)
 雨の音が聞こえてくる。
 ああ――楽しいことばかりじゃなかったよな。
 辛いことも一杯あった。ひどいことも一杯した。
(……おやすみ、真宮)
(……自分は、お前を苦しめてばかりいるんだな)
(それでも、好きだって、言ってもいいか)
 でも、それが、いっそう深く、絆を強くしてくれた。
(結婚しよう、真宮、いや、自分と結婚してくれ、自分をお前の奥さんにしてくれ)
(……ホントに、結婚……するのか)
(……これは、自分の……魂みたいなものだ……何もあげられないけど、お前に、持ってて欲しい)
 めくるめく時と感情。
 こんなに幸せな時間が、自分の人生に訪れるなんて、考えてもみなかった。
 夢ならいつか覚めてしまう。
 人の気持ちはいつか変わる。
 それが――怖かった。あんまり、この時が幸せすぎて。
(楓……好き……)
(大好き……)
(これ以上、こんなに誰かを好きにはなれない……楓だけだ)
(……今まで、ごめん、これからも…………ごめん)
(行こう、行けるよ……休みが取れたら、連れてってやるよ)
―――藍……
(今まで一度も、お前のことを本気で好きだと思ったことはないんだ)
(早く別れて、自由な生活に戻りたかった。自分には、お前なんて邪魔なだけだった!)
―――藍…………。
「…………俺……」
 唇が言葉を繋ぐ。自分自身の声を紡ぐ。
 真宮楓としての声を。
 自分の身体をしっかりと繋ぎとめていたくれたものが――そのぬくもりが、ふと、いぶかしげな顔を上げる。
「……楓……?」
「…藍……」
 これは、夢か……?
 それとも―――。
 首筋をなでる夜風。
 肩に触れるカーテン、見慣れた天井。この感覚。これは全て現実で、そして。
 混乱しながら、自分の胸に顔をうずめている女を、楓は強く抱き締めた。
 ああ、そうか。
 そして、ようやく理解した。
 これは、いつかの夜の続きなんだ。
 一緒に暮らし始めたばかりの恋人が、余りに愛しくて、大切で。
 嬉しいと言うより、失うことばかり考えていた夜。
 この窓で、一人で夜空を見ていたら、藍が優しく抱いてくれた。
そして、繰り返しキスしてくれた。
―――俺、上手く言えなかったけど、あの時のお前の気持ち、すごくよく判ったから……。ああ、大丈夫だなって、初めてそんな風に思えたからさ。
 年下だって、莫迦にされそうだから、そんなセリフ、死んでも言う気なかったけど。
 楓は、女の髪に手で触れた、そして何度も優しく撫でた。
―――あの夜から、俺、ずっと夢を見ていたんだよな。そうだろ、藍。
(――怒ると、マジで怖いんだ、鷹宮さん)
 もう――知ってるけど。
 お前の傍にいていいのは、今は、別の奴だって知ってるけど。
 あれは、夢の中のことだから。
「……藍」
 だって、俺たち、また一緒になれたじゃないか。
 また一緒に。
 この部屋で。
 この場所で。
「……楓……」
 あの夜と同じように、何度もキスしてるじゃないか……。
「楓………」

















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