act  12 混沌の果て
 




                                     
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               三


 いつもより、風がひどく冷たく感じられた。
 少し天気が陰っていた。重い雲が、午前の陽射しを遮っている。
 獅堂はモスグリーンのフライトジャケットに両手をつっこんだまま、大きく息を吐いて天を見上げた。
 ポケットの中、指先には冷たい塊が触れている。
 最悪の事態を想定して、手渡されたもの。その用途は全て獅堂の意思ひとつに任せられている。
 ジュネーブ。
 NAVIのメディカルセンターで、あえて不調を訴えた目の検査を終えた獅堂は、その屋上庭園に立ち、ここに来るはずの人を待っていた。
 屋上に隣接したスペースにある緊急搬送用のヘリポート。
 そこに行くまでの通路も全て、頭の中に入っている。
「…………」
 所詮、あなたは軍人だ。
 レオの冷たい視線、怒りを呑んだ声が、脳裏に鈍く蘇る。
 上の命令で、なんだってする。
 そうなのかもしれない。でも、あの時も、そして今も――
 こうすることがベターだと、真宮楓を守るために、それが一番いい方法なのだと、自分で判断したのではなかったのか。
 今、もうじきここへ来る男が……本当に楓なら。
 でも、自分は。
 どんな顔をして、何を言葉にすればいい?
 微かに金属のきしむ音がした。
 獅堂ははっとして顔を上げる。
 温室の扉が開く音。例の通路を通って――やってきた男。
 背後に立つ、確かな気配。獅堂は振り向けなかった。
「よう」
 低い声。声だけを聞くと、胸が痛くなるほど懐かしい声。
「……おう」
 背を向けたまま、獅堂は答えた。
 襟元に仕込まれた通信機が、この会話を上空のヘリに届けている。
 もう直――上空で待機している桐谷のヘリコプターがこちらにやってくる。
「なんだよ、素っ気無いな。獅堂さんがここに来てるっていうから、急いで来てやったのにさ」
「……鷹宮さんに、聞いたのか」
「……そうだけど?」
 そのまま、獅堂の横に並んで立つ同じ目線の横顔。
「レオがいなくて丁度よかったよ。で、何?話って?」
 獅堂は振り返った。
「ひとつ、聞かせてくれないか」
「……?」
 飛び込んでくるブルーの瞳、それがいぶかしげにすがめられる。きれいなラインを描いた眉。薄い鮮紅色の唇。
「なんだよ」
 少し間を開けてくすっと笑う、楽しそうな顔。
 獅堂は胸が痛くなった。
「お前、……今、幸せなんだよな」
「は?」
 自分でも何が言いたいのか判らなかった。
「ここにいたいと思うか?今の場所を、守りたいって本当にそう思うのか?」
「なに言って……」
 獅堂は空を仰いだ。ヘリコプターが、点になって接近してくる。
 襟元に伸ばした手で、通信機のスイッチを消していた。
 そのままそれを、引き抜いて投げ捨てる。
「……なに?それ」
「ちょっと、来い」
 あっけにとられている隆也の腕を取り、獅堂はそのまま温室に駆け込んだ。
 内部にいれば、しばらく桐谷は手が出せないはずだ。


                 四


「ちょっと待てよ、何だよ、どうしたんだよ」
 温室に入った途端、背後の男が足を止めようとする。
 獅堂はその手を掴んだまま、振り返った。
「お前、隆也だよな」
「………はぁ?」
「隆也だろ、お前」
「当たり前だろ、何言ってんの」
 じっと見つめてくる深い蒼の瞳。その中に、微塵も揺らぎがないことを獅堂は見てとった。
 そうだ、違う。
 こいつは、違うんだ。
「お前……逃げろよ」
「なんだよ、急に」
「今からすぐにレオのところへ戻れ。どこか、人目につかない安全な場所に移させてもらえ」
「は……はぁ?な、なんなんだよ、いきなり」
「日本の軍隊が、……自分たちの仲間が、お前を拘束するためにもうすぐここへやってくる。捕らえられたら、もうレオの傍にはいられない」
「………」
 言葉にしてしまってから、その重大性を獅堂は改めて感じていた。
 もう――後にはひけない。隊に対する重大な裏切り行為。それがどんな結果を生むか、判らないわけではない。
「あの時、自分はお前の……」
 獅堂は目を閉じた。苦い思い。辛すぎる悔恨。
「お前の兄貴の、手を離してしまったんだ。自分が後悔しているとすれば、もうそれだけだ。あの時、例えそれが間違いだと分っていても、自分は……自分だけは、あいつの手を離しちゃいけなかったんだ。あいつを守って、支えてやるべきだった」
「………」
 隆也は答えない。ブルーの瞳は、瞬きさえ忘れたように見開かれている。
「自分の身の振り方は、自分で決めろ、お前の好きなようにすればいい。……アメリカ政府に保護を求めるのも、このままレオの傍に居続けるのも、お前自身が決めればいい」
 行けよ。
 獅堂は目線で隆也を促した。
「行けったら」
 背を向けて、ガラス越しに空を見る。まだヘリコプターの機影は遠い。おそらく対象を見失って苛々としているはずだ。
「なぁ」
 背後で声がした。
「なんだよ」
「俺もひとつ聞いていい?」
「……?」
 獅堂は振り返った。そして、少し驚いた。
 隆也は笑っていた。薄い唇に、場違いなほど優しい笑みが浮かんでいる。
「ずっと気になってたんだけどさ、獅堂さんと兄貴、最初に好きになったのって、どっち?」
「………はい?」
 がくっと、膝が落ちそうになっていた。
 こ、このドシリアスな場面で、こいつ、一体何言ってんだ?
「俺は絶対、獅堂さんが先だと思ってたんだけど、どうも兄貴って俺と違って趣味悪そうだし」
 隆也は、指を立てて唇に当てる。
「服のセンスとかも最悪だろ、だから女の趣味もわりーのかな、と」
「あのさー……………」
 獅堂は肩の力が抜けるのを感じた。
―――こいつ、今の状況、マジでわかってんのか?
「あいつだよ」
「えっ………」
 それだけ言って、獅堂は背を向けた。
 もう、これ以上隆也の顔をまともに見れそうもなかった。
 楓なのかもしれないこの男の顔を、もうこれ以上、普通に見続ける自信がない。
「えぇっ、マジで?それって、獅堂さんの大きな勘違いとかじゃないの?」
「知るか、さっさと行けよ」
 が、まだ背後の男はその場から動かない。
 そして、疑念に満ちた声がした。
「……やっぱ、信じらんねー……こんな土壇場で嘘つくような女」
「…………お前」
 本当に脱力して、獅堂は再び振り返った。
「頼むから行ってくれ、本当に、今の状況わかってんのか」
「だって、信用できねーもん」
「ああ、判った、言う言う、そうそう、自分の片思いみたいなもんだった、もう殆んど一方的」
「……うそくせー…………」
「……あのなぁ、じゃあ、どうすりゃ信じて」
 ふいに、隆也が距離を詰めてきた。
 え、と思う間もなく、肩を抱かれ、そのまま引き寄せられていた。
 獅堂は普通に驚いていた。
 隆也の手が、腕を滑って、指に絡まる。
 冷たい指、なのに繋がった指先から、互いの鼓動が伝わるような――。
「…………」
 唇が重なる前に、獅堂は反射的に眼を閉じた。
 ようやく耳に聞こえ始めたヘリコプターの音も、風の音も、その刹那だけふいに消える。
 互いに俯いたまま、隆也も黙っていたし、獅堂も何も言えなかった。
「…………」
「……ごめん」
 男が呟く。
「……なんで、謝るんだ」
「いいのかよ、お前、つきあってる奴がいるのに」
「……いるけど」
 まだ繋がったままの指と指。
 何故か離せなかった。振りほどけなかった。
 そのままもう一度、唇が重ねられる。
―――楓……。
 もう躊躇いのない情熱を受け入れながら、獅堂は心の中で呟いていた。
 こいつが、例え何者でも。
 何も出来ない、何もしてやれない。
 支えることも、抱くことも、癒すことも、確かめることさえも――今の、自分には。
 救ってやる、ことさえも。
 ただこうして、この場限りと判っていても、自分がこの男を信じていることを、ただ伝えることだけしか。
 長いキスの後、獅堂はゆっくりと、繋がっていた指を離した。
「行けよ」
「………」
 足音も立てずに、隆也の影が遠ざかっていく。獅堂は顔を上げることができなかった。


                  五


「やってくれたな」
 桐谷の大きな体躯が獅堂を捕らえ、腕が襟首を掴みあげた。
「自分のしたことが、その意味が分ってるんだろうな、獅堂二尉」
 ヘリコプターから降りた桐谷は、すでに計画の失敗を知っていたのか、いきなり獅堂につかみ掛かった。
 獅堂はひるまず、その目を見つめ返す。
「覚悟はしています」
「贖罪のつもりか、一年前の」
「………」
「そしてまた、同じことを繰り返すつもりか!真宮楓をめぐって、また争いが起きるぞ、世界中に!」
「あいつを……政府で保護したところで」
 息苦しさに耐え、獅堂はしっかりとした口調で言った。
「それは変わらない、桐谷准将、結局は国家間で、その所有をめぐって争いが起きるだけだ」
「そんなこたぁ、最初から承知の上だよ」
「それに、奴は真宮楓じゃない」
「真宮楓なんだよ、獅堂!」
 桐谷はようやく、獅堂を解放した。それから、少し荒い息を吐く。
「たった今、本部から連絡があった。隆也・ガードナーなんて野朗は、もうこの世の何処にも存在しない。はっきりと死亡が確認されてんだよ、真宮楓の弟は」
「………」
 それは。
 それでは、今の――今の男は、やはり。
 獅堂は自分の足元が揺らぐのを感じる。なら、どうして自分のことを思い出さない?どうして――レオの側にいる?
「軍人さんのやることは、いつも乱暴だ」
 甘い声がした。すこし語尾がひっかかる日本語。
「ここは私有地ですよ。しかも病院だ、桐谷准将、許可なくしてヘリを停められるのは迷惑です」
 レオだった。
 建物の影中からゆっくりと出て来る、ダークグリーンのスーツを着た細い長身。
 桐谷は軽く息を吐いて、声のする方に振り返った。
「聞いての通りだ、レオナルド会長。真宮楓を引き渡してもらおうか」
「………」
 レオは答えない。唇に薄い微笑を浮かべている。
「奴には犯罪者として、日本の警察から正式な逮捕状も発行されている。隠し立てすると、あんたも罪に問われるぞ」
「彼が、真宮楓……ならね」
 レオは腕を組んだ。
「先ほど、国連の優生保護省に申請を受理されたばかりです。間に合って幸いだった。逮捕状は無効ですよ、桐谷さん」
「なんだと…?」
「これは最後まで、できるなら伏せておくつもりでした。防衛庁が煩く動くからいけないんですよ。桐谷さん、隆也・ガードナーは確かに一年前に死亡している……コロンビアマフィアの制裁にあってね。が、僕の傍にいる男は、真宮楓本人では、決してない」
 レオは……何が言いたいんだ…?
 獅堂はただ、息を呑んで二人のやりとりを見つめる。
「彼の身体そのものは、真宮楓のDNAから複製されたクローンなんですから」







 













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