act  11
 ――彷徨――




                                     
vvvvvvvvvvvvv

               七


 ただしSPBは、まだ、実験段階です。
 どこか、遠くを見るような眼で、レオは続けた。
「生成したホルモンを人体に投与することで、人口的な冬眠状態を作り出すことは可能になる。それにより、病の進行を極度に押さえたまま、治療を続けることが可能になる。……しかし、ホルモン投与のタイミング、透析の量、副作用、配合の割合、冬眠を終え、目を覚ました時、それが人体にどのような変化をもたらすか……実のところ、全て、手さぐりです」
「そんな」
 思わず口にしていたのは獅堂だった。
 では、鷹宮は、今の時点では、紛れもなく実験体なのだ。
「むろん、コンピューターで可能な限り計算している。しかし、人間の体は常に変化し続ける――完全な予測は不可能ですからね」
「すでに、被験者がいると、言われましたね」
 軽く指を唇にあて、鷹宮が口を挟んだ。
「ええ」レオが頷く、そして、冷ややかな笑みを浮かべる。
「あなたが、先ほど不法侵入したフロアにあったカプセルがそれですよ。もうご覧になられたのでは?」
「あそこにあったものが、全てですか?そうではないでしょう」
「………」
 肯定も否定もせず、レオは微笑した。そして、優雅な所作で立ち上がった。
「現在、数十名の被験者が、このラボの各個室で眠っています。無認可の人体実験――むろん、許されるやり方ではないのは承知しています。だから、ここは、外界から完全に遮断されているのです。……ただ、こうしなければ彼らの命は、確実に失われていたでしょう――悪魔のウィルス……」
 自殺種子によって、ね。
 言いさして、レオは綺麗な眼をすがめる。一瞬であるが、険しい光がそこにかすめる。
「そして――正直に申し上げれば鷹宮さん、我々は、あなたの身体を、貴重なデータだと認識している」
 その言い方に、獅堂の胸に、怒りにも似た冷たいものがよぎった。
「あなたは、鷹宮さんを純粋に助けたいと言ったはずだ」
 考えるより先に、言葉が口から溢れ出ていた。
「そんな言い方はないだろう、それじゃ、」
 怒り任せに立ち上がろうとすると、鷹宮の手が、強く獅堂の腕に添えられる。
―――鷹宮さん?
 鷹宮は、獅堂の顔を見もしないで、口を開いた。
「レオナルド会長、あなたは前もそう言っておられましたね。何故でしょう?私は単なる放射能障害で、HBHとは、なんら関係ないはずですが」
「……確かに、仰るとおりです、しかし」
 レオは眉をひそめ、静かな口調で言葉を続けた。
「ウィルスHBHは、宿主の体内のDNAを根本から書き換え、破壊するレトロウィルスです。それは、放射能障害によって、細胞が破壊されていくシステムに、非常によく似通っている……」
 無言でそれを聞く鷹宮の手は、まだ獅堂の腕に添えられている。
 むきだしになった手首に触れる冷たい指。
―――鷹宮さん……。
 獅堂は鷹宮の横顔を見る。今はただ、見ることしかできない。
「そして……防衛庁の附属病院でも言われませんでしたか?鷹宮さん、単なる成人型慢性骨髄性白血病と診断するには、あなたの病気の進行は早すぎる。化学療法も、インターフェロンも、グリベックも全く効かない。……新たなタイプの白血病とも考えられますが、私は、……もっと、違う視点で考えています」
「なんでしょう」
「ヨハネ・アルデヒドは、バイオテクノロジーの分野にかけては天才だ。彼のEURでの主な役割のひとつとして、破壊力が極めて大きい細菌兵器を開発することにあった。これは、むろんオフレコですが」
 獅堂の胸に、ざわめくような予感が落ちてくる。
 ヨハネ・アルヒデド――姜・劉青。
「結局、ウィルスHBHはヨハネ博士が開発したものではなかった、しかし、別のウィルス………もしくは、殺傷能力にすぐれた生物兵器が、あの、闇の城で開発途中だった可能性は否定できない」
「それが、」
 鷹宮は大きく息を吐いた。落ち着いた横顔だった。
「あの事件で、流出したと、」
 レオは綺麗な眼をすがめ、微かに笑った。
「それが事実だとしたら、それこそヨーロッパ連合の根底をゆるがす大変なことになりますね」
「………」
「そのあたり、詳細にお調べになる事をお奨めしますと……あなたの上司に伝えてください。思わぬ魚がつれるかもしれない」
「なるほど」
 何か、それには思うところがあるのか、鷹宮もまた曖昧に微笑する。
―――なんなんだ、一体……。
 獅堂は無言で、拳を握った。
 この場で苛立っているのは、今は獅堂だけのようだった。
―――レオは……鷹宮さんに同情すると言っていたのに。助けたいと言っていたのに。
 本心は、やはり、研究目的で、究極は、同志を助けたいだけなのだろうか。
「……その意味でも、僕は、あなたの病気の進行を食い止めて、徹底的に調査したいと思っています。ヨハネ博士が、HBHのワクチンを開発しようとしていたのは間違いない事実です。その彼が同時期に造った可能性の高いウィルスなら……HBHの治療法の参考になるし、また、それは同時にあなたの体を治療することにもなる。鷹宮さん、……残酷なようだが、今のままではあなたの余命は」
「やめろっ」
 さすがに限界を感じ、獅堂は立ち上がっていた。
 信じられなかった。いくらなんでも、こんな場所で、簡単にそんなことを口にしてほしくない。
 激情で言葉がつまり、それ以上何も言えない。
「SPBの状態であれば、鷹宮さんは、あと十数年は今のまま、生きていられる」
 が、獅堂を見下ろすレオの声は落ち着き払っていた。
「そして、その間に、病に至った原因が、そして治療法が発見されれば、鷹宮さんの命は助かる」
「…………」
 獅堂には何もいえない。背後にいる鷹宮の顔も、振り返れない。
「私は何もかも打ち明けた。全て真実だ。私のオフィスは隣にある……あとはお二人で話し合ってください、残酷なようだが、時間がないのは本当だ。鷹宮さんもご存知だと思いますが、症状が急性に転化すれば、治癒率は各段に落ちますので」
「…………」
「……お返事をお待ちしています」
 そして、レオはきびすを返し、部屋を出ていこうとして、――ふと、足を止めた。
 ゆっくりと振り返る。
「……それと、これはいらない忠告かもしれませんが」
 その目は、獅堂に向けられているようにも見えた。
 獅堂は、思わずつられて視線を上げる。
「あなた方のボスに、ぜひ、不妊手術を受けるように進言していただきたい。彼女の入院中にも、何度も進めたのですがね……ある事情から、彼女は妊娠すれば、ほぼ、百パーセントの確率でHBHを発症することが判っている」
「…………」
 右京さんのことだ。獅堂は思わず息を呑んでいた。
 正直――とっくに、そういった措置をとっているものだとばかり思っていた。
「それは、あのクールな女性も理解されているはずですがね。……まぁ、僕も、これ以上貴重な同胞を失うのは忍びないので」


                八


「鷹宮さん…」
 鷹宮が答えてくれないのは判っていた。それでも獅堂は聞かずにはいられなかった。
 レオが出ていった後、鷹宮は、無言で何処かを見つめ続けている。
 正直――不安で、胸が焦れるようだった。
 右京のこともそうだった。
 SPBという治療法そのものについても、そうだった。
 本当に、鷹宮は、この不確定要素が大きいプロジェクトの被験者になるつもりなのだろうか。
「室長のことなら、心配する必要はないと思いますよ」
 ふいに、穏やかな声がそう言った。
 獅堂が顔をあげると、鷹宮はまだ、前を見たままだった。
「あの人の行動には、ひとつひとつ意味がある……我々には、理解できないところでね」
「室長のことも、そうですが」
 獅堂は咄嗟に反論し、口ごもるように、言葉を途切れさせた。
「……今は、鷹宮さんのことが」
「獅堂さんにとっては、どちらが都合がいいでしょうか」
 座ったままの鷹宮の横顔が静かに呟いた。
―――え……?
 その言葉の意味が、獅堂には判らなかった。
「私が、数ヶ月後に消えてしまうのと、何年か生き続けて、この先ずっとあなたの心の重荷になるのと」
「は……?」
 獅堂は眉をひそめた。
―――鷹宮さん…?
 鷹宮は振り返った。冷たい、感情の読めない瞳で。
 あの部屋で隆也を組み敷いたまま、自分を見上げた時と同じ眼の色。
 鷹宮の、何かが変わりはじめている。獅堂は、ただ、その顔を見上げたまま、暗然としていた。
「それに」
 鷹宮は立ち上がった。獅堂に背を向けたまま、かかったままのパネルスクリーンに視線を向ける。
「楓君が帰って来たのかもしれないですしね」
「あれは」
 楓じゃない。獅堂はそう言いかけて、口をつぐむ。
 鷹宮が何を言いたいのか判らなかった。いや、判るからこそ、口にしたくない。
「あなたは楓君のところへ戻ればいい、本心はそうしたいのでしょう?ただ、皮肉なことではありますがね、私は彼を本人と確認出来次第、防衛局調査課の権限で身柄を拘束しますよ」
 鷹宮さん。
 獅堂は暗い気持ちで呟いた。思いは、声にならなかった。
「彼は今の人類にとっては危険だ。削除する必要があります。二度と世間を騒がせないよう、身柄は国家で常に管理しなければならない」
「……鷹宮さん」
 本当に。
 本当に、今ここにいて、冷たい背中を見せているのは鷹宮さんなのだろうか?
「いずれにせよ、あなたにとっては、私は邪魔者というわけですね、これからは」
「いい加減にしてください!」
 溜まらず、獅堂は声を荒げた。
「あ……あなたって人が判らない、自分はただ」
「とにかく」
 広い背中は、獅堂の言葉さえ拒んでいるように見えた。
「私の邪魔はしないでください。あなたは"巨人"担当から外れた。そして私の所属はまだ、局の調査課特務室のままです。あなたには余計な情報を漏らすなと、降矢さんからも厳しく言われていますので」
「………」
「私は隆也・ガードナーを追いつめますよ。あなたには邪魔をさせない」
「…………」
 言葉が、なにも出てこなかった。
 こんなに近くにいるのに、鷹宮がひどく遠い。まるで幾重もの高い壁が遮っているかのようだ。
「私はもう一度、レオナルド会長と話をしてきます。あなたは先に戻りたければ、戻ってください」
 そして鷹宮は出ていった。




 













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