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三
「なんだよ、これ」
獅堂は、唖然としながら呟いた。
返って来る返事はない。
隆也は、先ほどとは別人のように恐い顔をして、じっと、扉の向こうにある空洞を見つめている。
「つか、信じられないな……」
ようやくその唇が、彼らしい呟きが漏れた。
信じられないのはこっちだ。獅堂は息を詰めて、隆也が開けた扉の奥に広がる冷たい空間に目をやった。
コンクリートの内壁。延々と下へ続く階段―――がらんとしたその奥は、漆黒の闇に包まれている。
温室の内部に、こんな隠し通路があったなんて、まさか考えもしなかった。
閉めていたはずの温室の扉が薄く開いていた―――多分、隆也はそれに気づき、血相を変えて、走りだしたのだ。
男の後を追って、駆け込んだ――というより迷い込んだ温室で獅堂が見たのは、薔薇の茂みの奥、綺麗に植栽された木々の壁がずれていて、そこに顔をのぞかせている、四角型の小さな扉だった。
大人がやっとくぐれるくらいの、鉄製の扉である。
「お前、もしかしてこっから出入りしてたのか」
獅堂の問いかけは、さっきからずっと無視され続けている。
隆也は眉をしかめたまま、鍵の周辺を念入りに調べているようだった。
その表情の険しさから、疑うまでもないと思った。ふらふらと屋上にいきなり現れるくせに、病棟には絶対姿を見せない男は、なるほど、ここを通路として利用していたに違いない。
「ここ……なんだよ、ばれたらまずいもんなのか」
「うるせぇな、そんなの常識で理解しろよ」
「…………」
なんなんだ、いきなり怒られるような質問でもないと思うんだが……。
獅堂がむっとして黙っていると、隆也は無言で扉の内部にあるコンソールのようなボックスを押し開いた。いくつものボタンを、手馴れた指で操作している。小さな液晶画面を確認しては、また同じ作業を繰り返す。
―――こいつ……。
ただの莫迦じゃないんだ。
獅堂ははじめて気がついた。何桁にも及ぶ複雑な暗証番号を、何を確認するでもなく、綺麗な指が叩き込んでいる。その速さも尋常ではない。
その唇から、わずかな舌打が零れ、唐突に作業をやめた男は立ち上がった。
「……それ、なんの確認だ」
「見りゃ判るだろ、侵入者が使ったIDを確認してんだよ」
「お前が、鍵を閉め忘れたとか……」
隆也は、心底あきれた、という目になって顎をしゃくった。
「閉じたら自動的にロックがかかる。IDがないと絶対に開けられない」
鍵は、カード式のもので、確かに強引にこじあけられる性質のものではなかった。
「これ……どこと、繋がってるんだ」
獅堂は、自分も温室の内部を見回しながら、聞いた。それには、返って来る返事はない。
月明かりを背にしたまま、隆也はじっと、何事か沈思しているようだった。
その態度は、傍からみても、少し度を越しているような気もした。
この奥には、一体何があるのだろうか。
そして―― 一体、誰が。
「…………」
ふと、胸に浮かんだ人の名前を、獅堂は眉をひそめて打ち消した。
「とにかく、入って確かめてみろよ」
鷹宮かもしれない。そんな不安を感じながら、獅堂は言った。
―――まさかな、でも。
考えて、そして打ち消す。有り得ない。今夜の鷹宮は、明らかに疲れきっていて――薬が効いて、眠たいと言っていたはずだ。
返事もなく、隆也が細い身体を翻したのは、その時だった。
そのまま、ものも言わず、下へ続く階段を駆け降りていく。
「おい!」
獅堂は叫んだ。薄暗い空間に、自分の声と、足音だけが響いている。
隆也の足音が遠くなる。
わずかに迷い、それから獅堂も扉をくぐって、階段に足を下ろした。
四
非常灯と、そして響いている靴音だけが頼りだった。
狭く、そして入り組んだ通路。
左右には同じ造りのドアが延々と並んでいる。無機質で、人の生気がまるで感じられない場所。
――ここ……、もしかして、外から見えていた、あの妙な建物なのか。
隆也の後を追いながら、獅堂は、軽い目眩を感じていた。
どこまで駆けても同じ光景。同じ空気。
信じられないが、バーディゴー、空間失調症になりそうだ。
このまま――迷い込んで、二度と出てこられないような錯覚に陥ってしまう。
突き当たりの通路を曲がった時、ようやく隆也の背中が止まった。
「りゅう…」
声を掛けようとした時、振り向いた冷たい横顔が、しっ、と口の前に指をかざす。
「………?」
意味の分らないまま、獅堂は足音を忍ばせて男の背後に立った。
「お前は、ここにいろ」
前を向いたままの、男が囁いた。
「……なんだよ、一体」
背を向けたままの隆也が、今どんな顔をしているか、獅堂には判らない。
「いいから、今、お前が出るとややこしくなる。連れて来るから、ちょっと待ってろ」
そう言って振り返った眼には、すこし苛立った色があった。
「…………」
獅堂は初めて、この男が意図して自分をここまで導いてくれたのだと悟った。では、
「……誰、連れて来るんだ」
「………………」
「おい、誰が、ここに入ったって言うんだよ」
自分の疑念と、この男の確信が同じだと――それが獅堂にはショックだった。
「……とにかく」
男は嘆息して、獅堂の肩を押しやった。
「ここに誰か連れて来たってレオに知られたら、大変なことになる。今回は俺が上手く収めるから心配すんな」
囁くようにそう言って、隆也は再び歩き出した。
「…………」
ここで待っていろ、と言われても。
獅堂は振り返る。どこをどうしてここまで来たのか判らない。
隆也はさっさと、通路の一番奥にある部屋の扉の前に立つと、慣れた指先でナンバーを入力して、ロックを外した。
そして、そのまますっと扉の内側に消える。
「………………」
―――もし……中にいるのが、
躊躇しながらも、足音を忍ばせて近寄ると、獅堂は扉の外に立った。
「やっぱり、あんたか」
隆也の声。
獅堂は自分の心臓の音が、耳に響くほど高鳴るのを感じた。
「気づくのが遅いですよ、油断しましたか、隆也君」
鷹宮の声。
獅堂は目を閉じた。
やはりな、と思った。――否定しながらも、なぜだかそれを、心のどこかで確信していたのかもしれない。
鷹宮は、自分と、隆也が話しているその隙に、温室に忍び込んだのだ。
では最初から、鷹宮は――自分が屋上に行ったことに、気づいていたのだろうか?
「ここのID、……ドクターのカードを盗んだのか」
「私の主治医が、ここへ出入りしているのを知っていましたからね。彼のIDを拝借しました。むろん彼は、何も知りませんよ」
「ここから出ていけ。今すぐに、だ」
隆也の声は硬かった。
「どうして私を庇うんですか」
鷹宮の声は落着いている。
「ふざけんな、騒ぎを起こしたくないだけだ」
「ここは……すごいですね。ある程度予想してはいましたが、これほどの数があるとは思ってもみませんでした」
「……出てってくれ」
「でも、本当に探していたものはここにはなかった。教えてもらいましょうか、楓君、君なら私が探しているものが何なのか知っているはずだ」
楓君。
鷹宮はそう言った。
獅堂は思わず足を踏み出しかけていた。
「俺は、……真宮楓じゃ、ない」
噛んで、含めるような隆也の声。
声、その声だけ聞くと、もう信じられないくらい楓そのものだ。抑揚、語尾のちょっとした癖、何もかも。
「昼間の、わざとらしいキスといい」
微かに、鷹宮が笑い出す気配がした。
「芝居にしては、手が込みすぎていますね。それとも記憶喪失というやつですか」
「俺は、……あんたたちの、探している男じゃない」
「そうであればいいと、心から願っていますよ。でないと、私はあなたを拘束しなければならなくなる」
「………」
「真宮楓が生きていては危険だ。彼の存在そのものがタブーなんです。今の世界ではね」
冷たい声。感情の欠片もこもらない口調。
獅堂は信じられなかった。――鷹宮さん?ここにいるのは、本当に鷹宮さんなのか?
「……何をする気だ」
がたん、と何かが倒れる音がした。
「思い出させてあげますよ、あなたが本当は何者なのか」
「ふざけんな、……近寄るな、俺に触るな!」
「あなたの身体に、聞けばいい」
何か、重いものが倒れる音。靴が床を擦る響き。
「ちょっと待て、あんた…っ、自分が何をしてるのか、判ってるのか」
「楓君なら、これ以上は耐えられないはずだ、彼は、同性愛に深刻なトラウマを抱えている、かつて、ある男から、ひどい陵辱行為を繰り返されていましたからね」
「……は、離せっ」
荒い息遣い。衣服のこすれる音。
限界だった。
まるで悪夢を見ているような気分で、獅堂は足を踏み出していた。
視界に飛び込んできたのは、鷹宮の背中。そしてその下に、ねじ伏せられるようにして押え込まれている、――蒼白で、表情をなくしてしまった顔。
鷹宮は静かに振り向いた。
鷹宮さん、獅堂は唇だけで呟いた。これは、何かの間違いだと思った。
その時、ラボ全体を震わすような激しい警報が鳴り響いた。
「獅堂さん、ここであなたが出てきては話にならない」
鷹宮の声は冷たかった。
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