act  11
 ――彷徨――




                                     
vvvvvvvvvvvvv

               一



 どうしてここに、きちゃったかな……。
 夜風に髪をあおられながら、獅堂は無言で天を仰いだ。
 星座の類は判らない、でも――確かに、日本と違う空に見えた。
 風は、仄かに甘い香りを含んでいる。
 温室のバラの香りかもしれないと、ふと思った。
 夜の屋上庭園は静まり返って、風がそよがす木々の葉がたてる音、それだけしか聞こえない。
 鷹宮さんは、――多分、ナーバスになっているだけなんだ。
 さっきから何度も同じことを、獅堂は、自分に向かって言い聞かせた。
 同じ立場なら、自分だってそうなるだろう。病気で――あんな、ある意味残酷な治療方法を突きつけられて、平静でいられるはずがない。
 今を棄てて未来を選ぶ。
 それは、一見希望がありそうにみえて、実のところ、これ以上なく残酷なやり方のような気もする。それは生きながら――死ぬ事と何ら変りはないのだから。
―――明日になれば、また、いつもの鷹宮さんだ。
 獅堂は自分に言い聞かす。
―――明日になったら、
「…………」
 どうしたんだ、自分。
 胸に、穴があいたような寂しさと、どうしようもないむなしさ。
 どんなに考えても、どんなに理解しようとしても、鷹宮がひどく、遠い存在に感じられてならない。
 一緒に生きるって決めたのに。
 一緒に……色んなものを、背負っていこうと、決めたのに。
 その腕に抱かれ、ようやくひとつになれたと思ったのは、ほんの一月前のことなのに。笑顔を交し合って――もう、離れないと、誓ったのに。
「…………」
 肉体は、やがて儚く消えてなくなる。
 でも、心も――決して永遠ではないのかもしれない。
 あれほど愛しくて、大切だと思えた感情も、決して永遠ではない。
―――楓……。
(――この先、俺たちがどうなろうと、ずっと一緒に暮らしていようと、――きっと今ほど好きで、愛されてるって、そんな風に実感できる時間は、もう、絶対にないような気がする)
 楓。
 あの夜、お前が考えていたこと。感じていたこと。
(――今、こうして喋っている間にだって、大切な時間は、掌から零れ落ちて行く……)
 お前には、最初から終りが見えていたんだな。
(――だから、この瞬間が、俺には本当にすべてなんだ。今以上、お前が俺を好きでいてくれることなんて……ないから…)
 獅堂は、たまらなくなって目を閉じた。
 それが、愛し、そして愛されるものの、いつか辿る真実なのだろうか。
 鷹宮と自分には今しかない。
 今が過ぎてしまえば、何が二人には残るのだろう。
「…………」
 獅堂は首を振り、整理しきれない思いを振り払った。
 自分は鷹宮を支えたいと思った。だから傍にいようと思った。でも、鷹宮は………。
 あの人は、そうではないのだろうか……。
 ふと、自分を見つめる誰かの気配を感じ、獅堂は顔をあげた。
 薔薇に囲まれた温室のある方から、月明かりに照らされて――細い、長身の人影が歩み寄ってくる。
 同じように、ふと足を止めた男は、薄闇の中、けげんそうに目を眇めた。
 獅堂は――ただ、立ちすくんだまま、凍りついていた。
「……なんだ、また、お前かよ」
 わずかな苦笑を浮かべ、「隆也」は笑った。


              二


 それは、心臓が停まるような衝撃だった。
 実際、呼吸さえ忘れて、獅堂は、月明かりの下に立つ男を見つめていた。
 光の加減のせいではない。
 黒い――漆黒の、澄んだ瞳。
 今なら、誰でも、おそらく一目で、この男を真宮楓だと思うだろう。
 カラーコンタクトをしていた時とは、まるで――印象そのものが違う。
「なんだよ、……その眼」
 綺麗な眉をしかめ、煩げに隆也は片手を振った。
 そのまま、獅堂が立っている場所まで、すいすいと泳ぐように歩み寄ってくる。
 そして、いきなりしゃがみ込み、とんと、花壇の煉瓦に背に預けた。
「言っとくけど、誘惑すんなよ、俺、女には興味ないから」
 黒い瞳が、真下から見上げている。
「……するか、莫迦」
「兄貴と違って、センスいっいしー」
「…………」
 莫迦だ、こいつ……と思いながらも、少し、苦い思いで目を逸らしていた。
 自分は今、一体どんな目で、この男を見つめていたのだろうか。
「……恋人はお休み中?」
 黙っていると、少し、からかうような声がした。
「もしかして、悩み事?だったら俺、聞いてやろうか」
「……いいよ、ほっとけよ」
 妙に馴れ馴れしいな、と思っていた。人懐っこい……とでも言うのだろうか。人嫌いで、人見知りの激しい楓とは、まるで違う。
「お前……」
「リュウ」
 即座に切り替えした男は、そのままポケットから、煙草を取り出し、唇に咥えた。
「……んじゃ、リュウ。お前、普段は、どこに住んでんだ」
「秘密……つか、俺、レオにくっついてる寄生虫みたいなもんだから」
「なんで病気でもないのに、いっつも病院の屋上でふらふらしてる」
「暇だから」
「……学校は」
「つか、もう成人」
「じゃあ仕事は」
「愛人やってるから……って、なんだよ、いちいちうるせぇな」
 怒った声、それが――吃驚するほど、楓そのものだった。
 内心の動揺を抑えながら、獅堂は、軽く、深呼吸した。
「お前……レオが、好きなのか」
「好きだよ」
「愛人って言ったろ、それ、ビジネスなのか、それとも本気なのか」
「……うるせぇな、……なんだよ、お前、学校の先生でもしてんのか」
「答えろよ、仕事なのか、それは」
 真剣な目で見下ろすと、男は、わずかに眉をしかめた。
 その仕草――獅堂は思わず眼を逸らした。
 楓が、動揺した時の癖そのものだ。
「……教えろよ、知りたいんだ」
「なんでだよ」
―――それは。
「……あいつの、弟なら……」
 幸せになってほしいからだ。楓の人生の分まで、幸せに生きてほしいからだ。
 でもそれを、どう、言葉で伝えていいのか判らない。
「んじゃ、お前のこと、教えろよ」
 ふいに、男は、その目から苛立ちを消し、いたずらっぽい表情になった。
 煙草は、端から吸う気がないのか、いたずらに手で弄んでいる。
「……自分のこと?」
「兄貴とのことだよ、なれそめとか、初キスとか、初エッチとか」
 獅堂は、げほげほと咳き込んだ。
「ま、そこまで生々しいのでなくてもいいからさ、なんかあるだろ、どういうところに惹かれました、みたいな」
「い、いや……まぁ、昔の話だしな」
「ふぅん、忘れた?」
「思い出したくないんだ」
「……なんで?」
「…………」
 少しの間、獅堂は黙って考えていた。
「腹たつから」
「…………は?」
 しゃがんでいた男が、けげんそうな顔になる。
「腹たつんだ、結構むかつく。だってそうだろ、結局、自分、棄てられたんだ」
「…………」
「あいつ、なんだかんだ言って、自分より嵐――あ、知ってるか、知ってるよな。嵐のことを選んだんだ。えらそーなこと言って去ってったけど、結局、自分のことなんて、本気で好きじゃなかったんだ」
「それって………」
 しばらく呆気にとられていた後、隆也は眉をしかめて、獅堂を睨んだ。
「なんか、ひどくないか?」
「何がだよ」
「……いや、俺が言う筋合いじゃないけど、仮にも1年一緒に暮らした相手に、そういう言い方はないだろ。普通判るだろ、相手が本気かどうかくらい」
「言っとくけどな」
 楓と同じ顔で反論されて、獅堂も少し――いや、かなりむっとした。
「お前の兄貴は、かなり屈折した男だった。性格ひねくれてるし、冷たいし、そのくせ変に執念深いところがあるし。一言で言えばすむことを回りくどく言うし」
 不思議だった。言葉がどんどん溢れてくる。
 あの日から、胸の奥に封印していた楓への想いが、正直な気持ちが溢れ出す。
「強そうに見えて、フラフラしてるし、子供みたいに寂しがりやだし、嫉妬深いくせに、自分は他の男にすぐ迷ったりするし、」
「…………」
「言っとくけど男だ、あ、そういうとこ兄弟だから同じ性質なのかな。あいつの場合、でも、女にも迷ってた、宇多田さんだ、知ってるよな。お前の兄貴はさ、実は、根っからの浮気症だったんだよ」
「……それ…」 
 あんまりなんじゃないか?
 ようやく立ち上がった隆也は、薄い――明らかに怒りを抑えた笑みを、唇に張り付かせたまま、そう言った。
「浮気したのはお前だろ。今だって、ちゃっかり別の男捕まえてるじゃないか」
「自分は、――自分のは、あいつとは違うだろ」
 獅堂もむきになっていた。
 自分でも判っていたが、もう止まらない。
「あいつはな、自分とまがりなりにも結婚してた時だって、嵐から電話一本あっただけで、これだよ、あっ、嵐?元気か、身体は大丈夫なのか?」
「いつ…誰が、……そんな莫迦なこと、言ったんだよ」
「だからお前の」
「浮気性なのは自分だろ。どうせその時から、今の男と、それなりに上手くやってたんだろ!」
「なんだと」
 一瞬本気で睨みあって、先に大きく息を吐いたのは獅堂の方だった。
「なんで……自分が、お前とこんなことで言い争わなきゃなんないんだ」
「……お前が、兄貴の悪口言うからじゃねぇか」
「お前だって散々言ってただろ、趣味悪いとか、センスないとか!」
「俺はいいんだよ、身内だから、他人に言われりゃ腹立つだろ!」
 そう言って、軽く頬をふくらますと、隆也はぷいっとそっぽをむいた。
 そして、ふと、その目から怒りの色を消す。
「死んだおふくろがよく言ってたよ、……俺、年を追うごとに兄貴に似てきたって」
「…………」
「俺とお前が、ここまで相性悪いってことは、兄貴との相性、相当悪かったんじゃねーの」
 少し意地悪い口調だった。
「最悪だったな」
 獅堂は即答した。
「最悪かよ」
 はっ、と隆也は笑う。
「ほんっと……マジで、……最悪だったからさ」
「………」
 でも、好きだった。
 その言葉は、心の中だけで呟いた。
 でも――好きだった、楓。本当に大好きだった。
「……そっか…」
 隆也は、何故かさきほどの元気をなくして、呟いた。
 それから首をかしげ、空を見上げるようにして、かすかに笑った。
「じゃ、別れて正解だったよな」
「……」
「きっと、兄貴もそう思ってるよ、だからもう、いいじゃねぇか」
「……何が」
「……ま、色々、今日もレオから、ぐちぐち嫌味言われてたから」
 獅堂は、思わず、その横顔を見上げていた。
 楓と同じ、繊細で綺麗な横顔を。
「気にすんなよ、あいつ、兄貴マニアなんだ、部屋にはいっぱい写真飾ってるし、ちょっと変態入ってるから」
 思わず吹き出す。
「………そ、だな」
 視線をガラス越しの空に移し、獅堂も静かに呟いた。
 なんだ。
 こいつも――結構、いい奴じゃないか。
 不思議と穏やかな気分になっていた。
 楓が、自分の前から姿を消してしまってから、初めて、正直な気持ちを誰かに吐き出した。
 そして、今、結構真面目に、すっきりしている。
「俺、そろそろ帰らなきゃ」
 結局吸わないままの煙草を、ポケットにねじこみながら、隆也が言った。
「あ、……うん」
 もう少し、話していたいような気もする。
 きっと、もう二度と会うこともない男。かつて愛した者の、確かな欠片を持つ男。
「じゃあな」
 と言ったきれいな唇が、獅堂の肩越しに一点を見つめたまま、そのまま凍りついたように動かなくなった。
「どうした…?」
 それには答えず、隆也はきびすを返し、温室の方へ向かって走っていった。
「おい……」
 獅堂は当惑しながら、その後を追った。
 













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