十


 蓮見が紙コップのジュースを持っていくと、右京はわずかに微笑してそれを受け取った。
 波際を離れ、人気のない岩陰で、膝までの岩に腰を下した女は、少し疲れているように見えた。
 まぁ、それはそうだろうと蓮見は思う。
 正直、あんなに頭を下げている右京の姿を見たのは初めてだったし、奥様連中には質問攻め、オヤジ連中には握手攻め、挙句には子供にサインまでねだられる始末だったのである。
 あのまま放っておけば、踊りの輪に引っ張られていきそうな雰囲気で、それだけはさすがに、蓮見が体を張って阻止したのだが。
「……足、平気か」
「草履なんて久しぶりだからな」
「つか、サイズがあってないんだろ」
 まだ、賑やかな歓声が、静かな海に響いている。
 年に一度のこの祭りは、深夜近くまで厭きることなく続く。蓮見の両親は、町内会の幹事をしているから、延々夜更けまでこの場に残るつもりなのだろう。
「……ありがとう」
 カップを傍らの岩の上に置き、そう呟いた右京が立ち上がる。
 蓮見が手を差し出すと、素直にそれにすがってきて、そのまま自然に手を繋いでいた。
「…………」
「…………」
 女の指先は冷えていた。冷えたカップを持っていたせいか、芯まで凍えるような冷たさだった。
「……オデッセイに、戻るんだろ」
 こみあげる感情のままに、蓮見は口を開いていた。
「知っていたのか」
「桐谷のおっさんに聞いた……なんで、俺に黙ってた」
「……今日、話せればいいと思っていた……事後報告になるが」
 右京の髪が風にを煽られている。その横顔に月光が映えていた。
 事後報告。
 それはもう、決めてしまったということだろう。
 再び、戦いの最前線に出て行く事を。
 海を見つめたまま、右京は静かな声で続けた。
「……私は、お前のように、何もかも棄てられない……本当は……」
「…………」
「今日は、……結婚を取り消して欲しいと、それをお前に言うつもりだった」
「…………」
 蓮見の視線を振り切るように、右京はその眼差しを海の果てに向ける。
「……私は卑怯だ。結局はお前を利用して、そして邪魔になったから棄てようとしている。そういうことになっても、それでも……私はやはり、この仕事を引き受けなければならないと思っている」
「…………」
 蓮見は溜息をつき、少しの間、目をすがめた。
 そんな言い方しかしない女が、腹立たしくもあり、愛しくもあった。
「……ベクターだって、公表するつもりなんだろ」
「…………」
 右京が何も言わないので、蓮見は再度、嘆息した。
「桐谷さんから全部聞いたよ、お前がベクターだって、それを公にするのが、就任の条件なんだってな」
「それだけじゃない」
 右京は首を振り、苦しげに眉をひそめた。
「行方不明の真宮兄弟と同じ性質の……そういう体質であることも、場合によっては後日、公表することになると思う」
「……それも、聞いた」
 呟いて、蓮見は黙った。
 右京の、どこか沈んだ表情の理由も、こんな僻地まで来てくれた理由も、桐谷から聞かされた話で、全て理解したつもりだった。
―――まぁ、正直言えば、いつリークされるかわからねぇ。
 そう言った桐谷も、どこか苛立たしげに眉をしかめていた。
―――だまって警察官の女房におさまってりゃいいものをよ。なんだって、また国防の矢面に出て行く必要があるのかねぇ。これからの右京は、日本の顔になる。否が応でも目だっちまう。
―――足を引っ張ろうって輩は大勢いるぜ、……妙なとこから、せっかく日米政府がお膳立てして、隠匿してくれた素性がばれちまわなきゃいいけどな。
「…………私の存在は、すでに特定の諸外国では周知のこととして知られている」
 蓮見が黙っていると、右京はどこか辛そうに言葉を繋いだ。
「だが、今それを、私が公に認めることは許されない。……今は……まだ……大変な騒ぎになるからだ」
「……知ってるよ」
 蓮見は苦い気持ちで呟いた。
 メディアでは一切触れられないままだが、あの騒ぎの渦中にいた蓮見には判る。真宮兄弟が姿を消した理由は、まさにそれがあるからだろう。
「……そんなもん……でも、ばれちまったらどうなるんだ」
 怖いのは内部リークだけだはない。
 後々、外国のメディアにすっぱ抜かれることは十分あり得るのではないだろうか。国際情勢が変わってしまえば、むしろ、簡単に右京の素性はさらされてしまうのではないだろうか。
「ベクターの経歴詐称が訴追されることはなくなったけど……でも、隠してたってことがばれたら、すげぇ騒ぎになるんじゃないのか」
「…………」
 それは右京も覚悟しているらしく、横顔がわずかに厳しくなった。
「それでも、今の時点ではベクターであることのみ公表するよう、それが総理府の出した決定だ」
「…………」
 蓮見は嘆息して前髪に指を絡めた。
 そこに、様々な政治的な思惑があるのは簡単に推測できる。
 そして――いざ、その事実がリークされた場合、その咎を一人で背負わされるのが右京だということも。
 マスコミに叩かれ、追いまわされ――台湾有事の直後のように、徹底的に非難されることも。
「で、あんたはまた、一人で世間の矢面に立つんだ、あれこれ書きたてられて、興味本位に取り上げられ――、敵を作って、また一人で闘うのか」
 苛立って蓮見は言っていた。
 右京の生き方に口を挟むつもりはない。
 が、どうしていつもこの女は、苦しむと判っている道を選ぶのか、それだけが腹立たしいし、理解できない。
 二年前、右京はこの――日本という母国に見殺しにされようとしていたのだ、それなのに。
「……それが、私の使命だと思うからだ」
 右京の口調は静かなままだった。
「使命ってなんなんだ、真宮兄弟はもういない。素性がバレちまえば、あんたは……たった一人の種として、これから、全世界の注目を浴びる存在になっちまうんだぞ」
「私には、まだ、しなくてはならないことがあるからだ」
「だから、なんなんだよ、それは」
「……まだ、判らない、と言ったら怒るか」
―――は……?
 さすがに唖然として、そのまま蓮見は言葉を失っていた。
「……怒るっつーか、あきれるだろ、普通」
「それに、一人ではない……と」
「…………」
「今は、思っている」
 握っている手に、わずかな力がこめられた気がした。
 蓮見はただ、驚いていた。
「……ご両親に、今までのことを全て説明させてもらった」
 一瞬、言われた意味が判らなかったが、数秒たって理解した。
 ご両親とは、蓮見の父母のことを言うのだろう。が、全てというのは――
「全て――?」
 どこまで?
「嘘だけはいけないと小雪さんに叱られた。それはお前がしてくれたこと対する、最大の裏切りだと言われたよ。……謝るなら、お前の両親の前で、全部本当のことを話して、土下座して謝れといわれた」
―――小雪が……。
 蓮見は茫然として、多分、祭りの輪のどこかにいる女のことを考えた。
 小雪が、この右京に、そんなことを――言った?いや、そもそも右京に説教できる女がいるなんて、想像すらできないのだが……。
「彼女は……本当に、お前と気性がよく似ている……お前よりは、随分鋭い人のようだが」
「…………で、……話したの、か」
 女は無言で頷いた。
 全て。
 全てって――それは、結婚のことだけではなく、ベクターであるとか――相当やばい体質をしてるとか……そういったことも含めて、ということなのだろうか。
「きちんと理解されたのだと思う」
「……い、いや、多分できてねぇよ、頭悪いんだ、うちの親、両方とも中卒で」
 蓮見は溜息をついて首を振る。
 ただでさえ人の話をまともに聞かないお袋が、きちんと理解しているとは思えない。なにしろ、右京の身辺のことは、蓮見ですら、いまだに理解しきれないでいるのだから。
「いや……されていたと思う、本質的なところでは」
 けれど、右京は、静かな横顔を見せてそう言った。
「その上で、お前のお母さんは、これを用意してくださった」
「…………」
 浴衣。
 それは――母が、自ら仕立てて手縫いで作ったものだと、蓮見もよく知っている。
 いつか、東京におる、あんたのお嫁さんに着せたいなぁ。
 そう言われ――いや、だから結婚したっていっても、本当に結婚してるわけじゃないから、と、そんな言い訳をしたのをよく覚えている。
「これから、どれだけ……ご迷惑をおかけするか判らない」
 横顔のまま、右京は、風に流されそうな声で言った。
「…………」
「それでも私は、お前の奥さんになってもいいだろうか」
「…………」
 風がさぁっと吹き、周囲の喧噪が、一瞬静まりかえった気がした。
「いいも何も」
 胸がいっぱいになって、蓮見はただ、女の腕を引いて抱き寄せた。
 予想もしていなかった展開なのに、なのに最初から――こうなることがわかっていたような気がする。
「……もう、なってるじゃないか」
「ほとんど会えない」
「今までもそうだった、気にならない」
「子供は絶対に作れない」
「知ってるよ」
 唇を寄せると、それを遮るように顔をあげ、まだ女は何か言いたげな目になった。
「……まだ、何かあるのかよ」
「どうも、黎君とは呼べそうもない」
「…………いや、そんなの、どうでもいいから」
 失笑が零れる。
 真面目に言っているのにどこかおかしい、それが、右京の可愛いところかもしれない。
 唇を重ねる。今度は右京も逃げなかった。
 キスを続けながら――ああ、俺、そういや、いつの間にか、敬語……使わなくなってたな、と思っていた。
 岩陰とは言え、さすがに周囲の喧噪が気にはなった。
 が、それでも、何年かぶりに交わす深い口づけは、心に沈んでいた火を静かに燃やしていくような気がした。
「……言ってもいいか」
 唇を離すと、右京が胸にもたれかかりながら、呟いた。
「何……」
 額に、髪に口づける。
 手の届かないはずだった女の髪から、今は、自分の故郷の香りがする。
 少し、限界を感じていた。すぐにでも抱きたい。苦しいほど、今、抱きたい。
「なんだか……溶けそうだ」
「なんだよ、それ」
「幸せすぎて……自分の体が……溶けていくみたいだ……」
 

                   十一


 翌朝早出だった蓮見は、そのまま実家に泊まることはできなかった。
 両親は残念がっていたが、蓮見にしてみれば体のいい口実のようなものである。
 今は一秒でも長く右京に触れていたい。が、さすがに実家で、いくら限界とは言え、そういう行動に出ることはできないからだ。
「魚は明日の朝食にしよう、五時には出かけるんだな」
 冷蔵庫を閉めながら、右京が言う。
 こんな汚い部屋なのに、不思議なほど、女はそこに馴染んで見えた。
「いいよ、無理に作んなくても」
「明日、東京に戻るんだ……一日くらいは、奥さんらしいことをさせてくれ」
「服、どうすんだ」
「とりあえず、ブラウスだけ小雪さんに借してもらった」
 何があったか知らないが、右京は、アイスコーヒーを顔にぶちまけられたらしい。
―――こ、小雪の奴……。
 正直、そら恐ろしかった。
 こんなことを右京にできる女が、まさかこの世にいようとは……。
 二間しかない部屋の隣室に入り、紙袋から取り出したスーツを、右京はハンガーに掛けている。
「アイロンがいるな」
 そう呟く女は、まだ、浴衣姿のままだった。
 蓮見も、その部屋に入り、襖を閉めた。
 振り返った右京は、少し眉を曇らせたが、そのまま動こうとしなかった。
 が、腕を引いて抱き寄せて、すぐにキスをしようとすると、躊躇うような目で、体を逸らす。
「……駄目か」
「……いや」
 それは、否定ではないようだったが、やはり右京は、表情を硬くしたまま、動かない。
 電気のせいかな、と思い、スイッチに手を伸ばそうとすると、
「いや、点けておいてくれないか」
 意外なほど、静かな声が返ってきた。
「……?」
 そりゃあ――まぁ、男としては、その方が間違いなく嬉しいが。
 でも、本当にいいのだろうか。
 戸惑いながら立っていると、右京は、自分の帯に手をかけて、解きはじめる。
 近寄ろうとすると、視線でそれを拒否された。
 けげんに思いながらも距離を詰めると、右京はその分だけ後ずさる。
「いや……できたら、俺が脱がせたいんだけど」
「どうして、そういう発想になる、人が真面目にやっているのに」
「……な、俺のどこが真面目じゃないっつーんだよ」
 蓮見は困惑しつつ、口を閉じる。
 そういう発想も、どういう発想も――。
 なんなんだ、この後に及んで、これはなんの儀式なんだ?
 さすがに憮然としながら立っていると、右京は器用に帯を解き、その下にある紐を抜き取り、そして、なんの躊躇もなく、肩に掛かる浴衣を足元に滑らせた。
 胸元と二の腕、そして、形のいい細い腿。
 ああ、そうか。
 蓮見はようやく理解した。
―――そういう、ことか。
 下着の肩紐に手を掛けようとする女の手を、蓮見は掴んで止めていた。
「もういいよ」
「……驚いたか」
「つか、これ以上、楽しみを奪われたくないんで」
「なんだ、それは」
 滑らかな白い肌。その――あちこちに、縦横無尽に刻まれた、残酷な縫合の痕。
 それは、薄い褐色の沁みとなり、元の肌が白すぎるだけに、痛々しいほどくっきりと、灯りに照らし出されていた。
「そんなの、病院で何度も見たしな」
「…………」
 ようやく――蓮見は判った気がした。
 母に浴衣を着せてもらったのは、この女自身が、自らの身体のことを隠しておきたくなかったからだろう。
「……お前は……真宮兄弟を守ろうとしてたのか」
 その体を抱き寄せ、胸元で抱き締めながら、蓮見は呟いた。
「言ってたよな、あいつらは、私の子供のようなものだって……それ、どういう意味なんだ」
「…………色々な意味がある。私は……そもそも最初から、彼らを守るために、この世界に生まれてきたような気がする」
「…………」
「……でも、守ってはやれなかった……せめて楓と獅堂だけでも……幸せにしてやりたかった……」
「…………」
 蓮見も二人のことは知っている。
 行方をくらましたままの楓と嵐。
 楓はすでに、国際指名手配されており、見つかり次第、今度は間違いなく、相当長期に渡る実刑が待っているだろう。
 蓮見は無言で目をすがめた。
 でも――それでも、じゃあ、右京。
「……お前はどうなるんだよ」
「え?」
「人のことばっかで、お前、自分のことは……どう思ってたんだ」
「……私は」
 右京はうつむき、少し困惑したような笑みを浮かべた。
「もう、たくさんの幸せを知っている、だから、もういいと思っていた」
「……幸せ?」
 女は顔を上げる。綺麗な、澄み切った目をしていた。
「お前が、教えてくれたんだ」
「………………」
 いや、待てよ。
 蓮見は唖然として、声を失った。
 たくさんの――幸せ?
 たくさん?
―――はぁ……っ
 本気の溜息が零れ落ちる。
「………お前が一体、何を知ってるって……」
「え?」
「もういいよ」
 あきれて、というか、そんな事を言う女が愛しすぎて、それ以上言葉が出てこない。
 出会ってから今日まで、一体何年の年月がすぎたのだろう。その間、まともに恋人でいられた日は、たった一日しかなかったというのに―――。
「……電気」
 右京が呟いて、蓮見は無言で電気を切った。


                十二


「寝なくていいのか」
 襖を開けて入ってきた右京は、少し驚いたような眼になって言った。
「……寝れないだろ、普通」
 布団の上で仰向けになり、腕枕をしていた蓮見は、それだけ呟く。
「そんなものかな」
「そんなもんだ」
 隣室で、朝食の用意を済ませてきた女は、まだ髪も生乾きのままだった。
 照明を落とした部屋の中。
 官舎の敷地内にある電灯と、月明かりだけが、ほんのりと室内に差し込んでいる。
 そのまま、隣に滑り込んできた右京は、薄い掛布を掛けなおしてくれた。
 蓮見は、その細い腰に腕を回し、引き寄せて、額に口づける。
 右京は逆らわず、蓮見の背に両腕を回し、胸に頭を、そっと預けてくれた。
 性急に求め合って、一度シャワーを浴びて、それから――もう一度、時間をかけて愛し合った互いの身体。
 今、不思議なくらい穏やかな気持ちで抱き合っていられる。
「落ち着いたら、また来てもいいか」
「……いいかって、結婚してんだろ、俺たち」
「…………」
「表札に名前書いといてやるよ」
 うん……と、微かに頷くのが判る。
 こんなにしおらしくて可愛いのに、明日、東京に戻ってしまえば、また、普段の――他人を決して寄せ付けない、冷たい女になってしまうのだろう。
 冷酷な指揮官というマスクを被り、全ての責任と罪を背負って―― 一人で闘っていくのだろう。
「帰ってこいよ」
 抱き締めて、そして蓮見は女の髪に頬を寄せる。
「……お前の家はここなんだ、……そりゃ、ちょっとボロだけど、うちにいる間は」
「…………」
「俺のことだけ、考えてくれ」
 せめて、今だけは。
 せめて、地上にいる間は、その頭から、全ての憂いをなくしてやりたい。
 少しだけ体を離し、微かに女が笑う気配がした。
「それは、難しい注文かもしれない」
 からかうような声だった。
「なんだよ、冷たいな」
 むっとして顔を離す、その唇に、今度は右京の方から口づけてくれた。
「……いつも考えてしまいそうだから」
「…………?」
「お前みたいな男、こんなに好きになるなんて、思ってもみなかった……」
「…………」
 もっと、言葉を聞きたい気もしたが、それより、性急に込み上げた愛しさが勝っていた。
 つかの間の安らぎ。
 明日になれば、再び手元から去って行くぬくもり。
 判っているから、だからいっそう愛おしい。
「……確かに、眠れないものだな」
 少し閉口したように右京が呟く。
「だろ」
 互いに額をあわせて笑い、二人は、もう一度口づけを交し合った。
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