七
「なんだよ、奏ちゃん、いねぇのか」
室内を見回し、何を期待していたのか、桐谷徹はぶうっと唇を尖らせた。
「やー、俺はたまの出張でよ、せっかくここまで来たから、お前に蹴りでも入れとこうかと思ったんだが」
そう言って、スーツのポケットに手を突っ込み、男は室内を再度見回す。
仕立てのいいブラックスーツだが、この男の場合何を着てもやくざにしか見えない。
「右京の実家に聞いたら、奏ちゃんも今夜はこっちに泊まるっつーじゃねえか。てっきり蓮見君と一緒だと思ってよ、胸ときめかせて来てみたんだがな」
―――泊まるのか……。
蓮見は、少しほっとしながら、冷蔵庫から、冷えた缶ビールを取り出して、部屋を一人で狭く見せている男に投げてやった。
「……つか、蓮見、てめぇ一度は右京の実家に挨拶に行けよ、ばあやさん、お前が来ないってぼやいてたぞ」
柱に寄りかかりながら、桐谷はごつい指で缶のプルタブを開ける。
「……はぁ」
蓮見は曖昧に言って、首筋を掻いた。
実は蓮見自身が、この微妙な立場を持て余しているとは、かつて右京を熱烈に愛していたこの男には絶対に言えない。
「あ、やべぇ、仕事中だったんだ、俺」
とか言いつつ、それでも桐谷は、500ミリリットルの缶ビールを一息で飲み干した。
「それにしても、あれだな、女房が再び天に召集されるってのに、てめぇは相変わらず惨めなもんだな、月とすっぽんってのは、いい例えだよ、うん」
空になった缶を投げ返される。
―――天に……召集?
言われた言葉の意味が判らず、蓮見は眉をひそめていた。
桐谷は、その蓮見の表情に気づいたのか、けげん気に鼻を鳴らす。
「なんだ、まだ聞いてねえのか、右京、オデッセイに戻るんだよ、昨日正式に内示があって、来月から本採用だ」
「……オデッセイ……に、すか」
蓮見は、ただ、茫然と呟いた。
オデッセイが、リニューアルして、再び日本上空に打ち上げられたことは知っていた。そこに、かつての仲間たちが呼び戻されていることも知っていた。―――でも、まさか。
「オペレーションクルー室長……今度は民間起用って形だがよ、実績もあるし、なんたって、台湾有事では日本の顔だった女だ。内部から強力な推薦があってな、まぁ、とんとん拍子ってやつよ」
そこで桐谷は、かすかに眉を翳らせた。
「……ま、実のところ、採用に当たっては、ちょっとやっかいな問題がなくもなくてよ……そっか、やっぱ右京、てめぇにゃ言ってなかったか」
「なんすか、それ」
「……あの莫迦が、また妙なこと考えてんじゃねぇとかと思ったんだが」
「…………」
初めて蓮見は、桐谷が、からかう以外の目的でここまで来てくれたのだと、気がついた。
畳の上に投げっぱなしだった携帯が鳴ったのはその時だった。
八
バスを降りた蓮見は、群青色に染まる空の下、見慣れた故郷の街並が、どこか賑わいでいるのをふと感じた。
「…………」
すれ違う人を見て、ようやく気がつく。
そうか――今日、この先の浜辺で、町内会の夏祭りが行われるのだ。
毎年、夏休み――この時期になると、友達と一緒に浜辺まで走っていったことを思い出す。
浴衣姿の家族づれが、ぞろぞろと浜辺目指して歩いている。青く滲む夕暮れには、いつも海の匂いが混じっていて、それだけは、あの頃も今も変らないな、と懐かしく思う。
「れーい君っ」
背後からふいに甲高い声に呼び止められ、蓮見はぎょっとして振り返った。
「おーい、久しぶり、元気にしてた?」
―――小雪……?
水色の浴衣、大輪の向日葵模様の中で、見慣れた顔が笑っている。
友達と祭りに行く最中だったのか、浴衣姿の二人連れだった。
小雪は、すぐに蓮見の横に駆け寄ってくる。
「小雪……」
蓮見はただ、戸惑いと懐かしさ、そして消しようの無い罪の意識を噛み締めながら、眼下の女を、見下ろした。
「……お前、帰ってたのか」
「うん、夏休み」
小雪は、屈託のない笑顔のままだ。
「婚約破棄されて、会社中で後ろ指さされても頑張ってますよ」
「う……」
それには何も言えなくなる。どれだけ謝罪しても足りないとさえ思っている。
が、今の小雪の表情は、本当に明るい、嫌味のないものに見えた。
「綺麗になったでしょ、私」
「……大人になった感じがするよ」
「もう、素直じゃないなぁ」
ばん、と背中を叩かれる。
「い、いてぇ……」
蓮見としては、思いっきり素直に言ったつもりだった。
浴衣姿の小雪は、長い髪をアップにしているせいか、普段より随分大人びて見える。
というか、大人びているはずなのだ。蓮見が小雪に再会するのは、別れてから――これがはじめてなのだから。
「……まぁ、普通に驚いたよ、急に電話なんてくれるから」
あれから随分たってしまったな、……少し苦いものを噛み締めつつ、蓮見は苦笑して呟いた。
「吃驚したでしょ、携帯変えたはずなのになんでだ?って、思いっきり動揺してたもん、声」
いたずらっぽく言って、女は、蓮見の腕に手を絡める。
「ば、莫迦、前の携帯は無くしたんだよ、別に好きで変えたわけじゃないからな」
なくした経緯は複雑すぎて、簡略した説明さえできないが……。
「言い訳っぽいなぁ、心配しなくても、私、そんなに未練たらしい女じゃないよ」
ぎゅっと腕を抱き締められる。
ふいに小雪は喋らなくなる。
―――小雪……?
蓮見の二の腕のあたりに額を寄せ、しばらく女は動かなくなった。
蓮見の視界には、きれいなうなじだけが映っている。
「……右京、こっちに来てるって言ってたけど」
戸惑いながら、蓮見は聞いた。
「来てるよ、私が連れてきた」
顔を腕におしつけたままで、小雪は答える。
「莫迦な黎君、いつまでも右京なんて呼び方してるから、自分の奥さんがどこにいるかもわかんないんだよ」
「…………?」
「あー、すっきりした」
ふいに大声で言い、小雪は、ばっと顔を上げ、手を離した。
「思いっきりみせつけちゃった、後は夫婦喧嘩でも何でもやって」
「………小雪?」
「言っとくけど、私、今好きな人いるんだ、今さら戻ってきても遅いからね」
ばいばーい、と手を振って、小雪は、待たせている友達がいる方とは、反対の方向に駆けて行く。
「…………?」
なんなんだ、一体。
けげんに思いながら振り返る。
夕闇の中、紺の浴衣を着た女が――それを蓮見は、小雪の友達だと思っていたのだが、静かに歩み寄ってきた。
三度目の衝撃だ――。
蓮見は愕然としながら、額を押さえた。
もう、声さえ出なかった。
よく考えたら、小雪と同レベルで背の高い女は、そうそういない。
「……まぁ、確かに見せつけてもらったな」
静かな声でそう言った、意外なほど華奢に見える浴衣姿の女は、まだ信じられないのだが、確かに右京奏だった。
九
浜辺は祭りの真っ最中で、少し離れた場所に立つ蓮見の耳にも、賑やかな盆踊りの歌が聞こえてくる。
夜の海は暗く、遠く、水平線に、蛍のような明りが滲んでいた。
夜釣りの船が見せる灯である。
「ガキの頃は、マジで海に人魚がいるって信じてて」
蓮見は、砂浜にあった石を、海面に投げ込みながら、そう言った。
「悪いことしたら海の中にひきずりこまれるって、お袋の嘘を間に受けてた、――学校で喧嘩なんかするだろ」
傍らに立つ、右京は黙って聞いている。
「そういう時、帰り道はわざわざ迂回して、海を見ないようにして走って帰るんだ、……莫迦だったよな、俺も」
薄闇の中、かすかだが、女が微笑したような気がした。
「……いいお母さんだな」
ひどく優しい声だった。
「いや、大嘘つきのおしゃべり婆ぁだ、お前も話してみてよく判ったろ」
「うん……確かによく喋られる方だった」
右京は呟き、そして、ゆっくりと前に出てくる。
「この浴衣は、本当は小雪さんのために作られたそうだが……小雪さんが、受け取らずに、私にと、言ってくれたらしい」
「…………知ってるよ」
まさか、それを――右京が着ることなんて、絶対にないと思っていたのだが。
「すげぇ、似合ってる」
「いいよ、お世辞は」
「マジで、……女に見える、いや、元々見えんだけど、えっと」
言葉が上手く出てこない。
ここにいるのは、もう自分の上司じゃなくて、一人の女なんだと――やっと実感できたんだと、それを上手く言葉にできない。
「わすかぁ、黎人、こがなとこで何やっとんだいな」
その――母親が、賑やかな灯りの中からふいに現れた。
基本的に父親似の蓮見は、母とは余り似ていない。
母は小柄で、柔和な顔をした女である。が、妙に芯が硬いというか、意固地というか、こうと言い出したら決して後へは引かない性格をしている。
で、この母にあうと、蓮見の人格は確実に無視されて、思うところに引きずられてしまうのだ。
元々海女をしていた母の肌は、日焼けして沁みだらけだった。髪は痛んで蓬髪に近いものを、無理にパーマで誤魔化していて――そのせいか、年よりさらにふけて見える。
「それよか、こっちで、はやみなさんに挨拶しなんせぇ、せっかくお嫁さんが来てくれたんじゃにゃあの、さぁさぁ、奏さんも、ほら」
「お、お袋」
さすがにぎょっとして、蓮見は慌てた。
それは、今まで、右京のことをろくに説明しなかった自分も悪かった。
ただ、この結婚は、わけがあって、本当に結婚したわけじゃない、みたいなことは、拙いながらも説明していたはずなのだが。
「大丈夫だな、小雪ちゃんとこのご両親が、まいこと町内のみなさんに説明したさあな。みんな、奏さんを黎人の奥さんだちゅうに認めたとだし、はや来なんせぇ」
「いや、だからそれはだな」
黎人――と、人の輪の中から、長身の父が呼ぶ声がする。
隣に立つ右京が、蓮見の腕をそっと叩いた。
「行こう、は、」
と、言いかけて、そこで右京は、妙な顔をして口をつぐんだ。
「……? いや、あいさつなんかしたら、後々面倒なことになるから」
けげんに思いながら、その耳元で蓮見は囁く。
が、案の定、母親は蓮見を無視して、右京の腕を引っ張って、祭りの輪の中に飛び込んでいった。
「ちょっと待てって、オイ!」
蓮見は追ったが、右京は何故か、母のなすがままになっているようだ。
「どがなぁ、うちに来てくれた嫁に、私が着せた浴衣だで、東京の若いお嬢さんは、浴衣も一人で着れんとねぇ、どがしょうもなぁねえ」
母親の無遠慮な声が響く。
こてこての方言だが、直訳すると、けっこうむかつく内容である。
―――お……お袋…………。
蓮見は眩暈を感じて額を押さえた。
そしてふと気づく。
いや、右京は――着物なら自分で着られると言っていたはずだ。ああ見えて、筋金入りのお嬢様なのだ。
では、わざと、おせっかいな母に合わせてくれたのだろうか。
「はじめまして、こちらに嫁いでまいりました、奏と申します」
右京は、集まった人たち一人一人に、丁寧に頭を下げている。
「…………」
いいのかよ、おい……。
と、思いつつ、蓮見もその横に引き出され、結局二人で頭をさげる羽目になった。