三
「おっ、なんか妙にそわそわしてません?蓮見さん」
奥のロッカールームで着替えていると、ひょい、と顔を覗かせた先輩警察官がふざけたようにそう言った。
「別に」
蓮見は、素っ気無くそう言い、すっかり帽子の後がついた髪を、くしゃくしゃとかき回す。
声をかけてきた男は的場竜二。
この瓦町交番で、蓮見より一年長い先輩である。
その的場は、妙に嬉しそうに、蓮見の背後に歩み寄ってきた。
「いやぁ、東京の人は違うなぁ」
「だから俺は、ここの生まれなんだって」
「またまた、とぼけちゃって、蓮見さんのことじゃありませんよ」
先輩――とはいえ、的場の年は蓮見より五つほど若い。
無論、退職、再雇用というハンデさえなければ、元々のキャリアも年も、蓮見の方が上である。だから的場も、なんとはなしに敬語を使ってくれるのだが、が、ここでの蓮見の立場はあくまで新人警察官であり、そういう意味では、五つ年下の男に先輩風を吹かしたことは一度もないつもりだった。
「ゲロっちゃいません?じゃ、俺が誘導しちゃいましょうか」
嬉しげに言う的場の手には、缶コーヒーが握られていた。
客足も途絶えているし、ここで少しサボろうという腹なのだろう。それはいつものことだが、今の的場の目は、異様なほどきらきらと輝いていた。
「聞きましたよ聞きましたよ、長浜さんの奥さんに、なぁんかどえらい美人が来てたそうじゃないっすか」
「…………」
やっぱり、そのことか……と、蓮見は軽く嘆息した。
狭い田舎町。噂はものの一時間で街中に広がってしまうのだ。
「蓮見さんの恋人っすよね〜、隅に置けないなぁ、え?今夜はもう、やりまくりって感じですか」
「……お前、いつの入庁だったっけ」
「は?」
「いや、いいよ」
まさかその女が、かつて、警視庁で、最も有名だった女――泣く子も黙る冷酷非道のスーパー上司、右京奏だと聞いたら、この男はどう思うだろうか。
「……知らないってのは、幸せだよな」
溜息まじりにそう言って、的場の手から、缶コーヒーを奪い取る。
「あっ、ひどいっすよ」
「いいじゃねぇか、喉渇いてんだよ」
先輩風は吹かさない――が、元々蓮見は、誰に対しても、ぞんざいな口調で話してしまう。そういう性格なのである。
その蓮見が、ついつい――無意識に敬語を使ってしまう相手が、実のところ二人だけいる。
一人は桐谷徹。
右京の従兄妹で、防衛局航空幕僚監部情報部調査課に所属し、今では出世街道をひた走っているらしい。
この男が常軌を逸した目茶苦茶な性格をしていることは、長年のつきあいから身にしみて知っているし、何をしてもかなわない、いや、常識さえ通用しない、と、蓮見は内心諦めている。
そして、もう一人が、
恋人――と呼んでも差しさわりが無い(多分)、というか、法的には結婚までしている、右京奏なのである。
出あった当初、ただのいけすかない女だと思っていた頃は、こんなでもなかった。今思い返せば、結構冷や汗の出そうなことを、平気でぽんぽん言っていたような気がする。
―――俺、あいつのこと……好きになって。
女として、というより、人間として――マジで、好きになっちまって。
妙なことに、多分そこらあたりから、頭が上がらなくなってしまった。
緊張するというか、目の前に立たれると――心拍数が無意識に上がっている。いつもの自分のペースが保てなくなる。
「はぁ……」
こんなんで、いいのかな、と思う。
NAVIの病院で別れた時、右京はまだ自力歩行も困難なほど衰弱していた。
それでも――その目に、かつての輝きを確認した蓮見は、すぐに帰国する道を選んだ。
ここに、もう自分の居場所はないと思ったし、レオナルド会長が庇護を確約してくれた以上、いる必要もないと思ったからだ。
「帰るよ」と言った時、病床の右京は「日本で会おう」それだけを言ってくれた。
他にも言いたいことは沢山あったが、桐谷の言い分ではないが、プー……無職の自分に、今、それを言う資格はないと思い直した。
―――もう、……あれから半年か……。
右京は、NAVIの病院に数ヶ月止まった後、春には帰国、東大附属病院に転院した。その頃にはウィルス騒動は完全に鎮静化し、右京の身体に発病の兆候がないことも証明されていたらしい。
が、それでも東大病院では、減圧された隔離病棟に入れられ、相当念入りに検査されていたらしく――ようやく退院を許されたのが、先月のことだと聞いている。
同じ国内で、会おうと思えば会えた。
でも――そうはしなかった。
あまりにも長い間離れていて――というより、特殊な状況下に置かれすぎて、蓮見の中で、がつがつと焦っていたものが、不思議なほど抜け落ちてしまった、というのもある。
また、「結婚」という形を継続することについて、多分、右京は快く思わないだろう、というのもあった。
何しろ、まともなプロポーズをしたかと言えばそうでもない。いや、したつもりではあるが、あれもあれで、相当頭に血が昇った状態で、勢い任せにしたことである。
そして、まともに返事をされたかと言えば、間違いなくそうでもない。
右京は、多分、絶対に出すつもりがないからこそ、あの婚姻届にサインしたのだろう。
仮に、普通に恋人になれていたとしても――あの女は、自分の人生に、「結婚」という選択使を持ち込むことを好まない。そんな気がする。
そして、それは蓮見にも理解できる。蓮見にしても、あんな切羽詰った状況でなければ、まだ独身でいただろうと思うからだ。
今、右京は自分を「配偶者」とは認めていないだろうし、蓮見も、女を「右京」と呼んでいる。で、緊張感丸出しの、敬語まで使っている。
そこのところを話し合わなければならないと――右京はそう言いたいのだろう。
「…………」
それは、蓮見にも判っていた。就職が決まって――次は、二人の関係をどうしていくか、それをはっきりさせないといけないことは判っていた。
無駄を承知で、再度プロポーズし、本当に結婚してくれと言って困らせるか、あるいはすっきりと、戸籍上だけ別れるか。
無論、右京と本当に別れるつもりは毛頭ない。向こうもそんなことは望んでいない。
互いに必要とされている。それだけは、揺ぎ無い自信がある。
が、それと――恋人でいることと、結婚というのはまた別の話なのだ。
「はぁ……」
―――どうすりゃいいんだよ、俺は。
のろのろとプルタブを切りながら、蓮見は再度、溜息をついた。
四
「なんか、魚臭くありません?」
真向かいに座った女は、即座にそう言って眉をしかめた。
「ああ……申し訳ない、市場で買い物をしたから」
右京は、少し戸惑って、傍らの買い物袋に視線を落とす。
「ふぅん、なんか意外ですね、そんな所帯じみたこと」
あ、私アイスコーヒーね、と傍らのウェイターににこやかに声を掛け、蓮見小雪は微笑した。
「絶対にしないタイプの人に見えましたけど、奏さんって」
「……料理は、好きではないが、苦手でもない」
いきなり名前を呼ばれ驚いたものの、それが当たり前か、と、右京は静かに思い直した。
もう、自分の名前は右京ではないのだから。
「その言い方、いかにもしつけの厳しい家で育ったお嬢様って感じ」
小雪は、ちょっといたずらっぽい目になって、くすっと笑った。
「黎君には似合わないなぁ、そんな育ちのいいお嬢様、彼なら一緒にいるだけで、肩こって死んじゃいそう」
「実際、いつも死にそうな顔をしている」
右京も思わず苦笑していた。
いつも、いっぱいいっぱいな顔をしている男が、ふいに愛しく思い出された。
「……育ちがいいと、嫌味も通じないのかなぁ」
小雪はうつむいて呟き、長い睫をしばたかせる。
「いや、通じているよ」
右京も呟き、先に運ばれていたコーヒーに唇を寄せた。
蓮見小雪。
桐谷から聞いてはいたが、蓮見に似ているな、と一目見てすぐに判った。
色白の面長顔で、目鼻立ちが整っている。肩甲骨まで伸びた長い髪が、窓から差し込む午後の陽射しに、きらきらと輝いて見えた。
女性らしい――柔らかで、可愛らしい美貌。
「で、何の用ですか、私に話って」
ようやく小雪の前にも、軽やかな氷の音と共にアイスコーヒーが運ばれてきた。
女は、長い髪を払いながら、真直ぐに右京に視線をぶつけてくる。
「電話もらった時は驚きました……丁度、会社、夏休で……でもわざわざ、こんなとこまで来て貰えるとは思わなかったけど」
そして、ふっと、挑発的な目の色になった。
「あ、そっかー、もちろん黎君に会うためですよね。心配です?なんたって、電車一駅のとこに、元婚約者が帰ってきてるんですもんね」
「…………いや」
「結婚してるんなら、とっとと一緒に住んじゃったらどうなんです?それとも、こんな田舎、元総理のお嬢様には我慢できないのかしら」
小雪は視線をそらしたまま、からからとストローでグラスをかき混ぜる。
「黎君の部屋、行った事あります?勿論ありますよね、公務員宿舎で、すっごくひどいとこだけど」
「…………」
「あんなところに、奏さん住めないでしょ、今さら、平警察官の奥さんなんてできるのかなぁ、東京でハイソな生活してた人が」
早口で言う小雪は、一度も右京を見ようとはしない。
「…………」
改めて右京は、自分が傷つけてしまった女の傷の深さを思い知らされていた。
そして、そう思った途端、どう切り出そうか、と迷っていたものが、すっと消えてしまっていた。
「……そのとおりだ」
「……は?」
「私は、東京を離れられない。仕事があって、こんな僻地に住むことはできない」
「…………」
小雪はストローの手遊びをやめ、唖然とした顔を上げた。
「縁あって元の仕事に戻ることになった、職を失った蓮見には悪いが……これも運というものだろう」
小雪の眉が歪む。
信じられない、と言った目になる。
「彼は私のために、何もかも棄てたということになるのかな、……が、私に、同じ真似はできそうもない」
「…………」
「今日は、それを、蓮見とあなたに伝えに来た。私は彼の妻ではないし、彼もそうとは思っていないだろう。あの婚姻届は」
ばしゃっ、と目の前で暗い液体が弾け、右京は無言で、髪から滴る雫を払った。
しん――と、静まり返った店内。客はまばらだが、全員が凍りついたように、窓際に座る女二人を注視している。
「……無効なものだ、裁判所に申し出てもいいし、離婚という形をとっても、どちらでも構わない」
白いブラウスに、褐色の液体がしみこんでいく。
右京はバックからハンカチを出し、それで、濡れた顔を拭った。
「今日は、このまま東京に帰る。あなたの口から、それをあの男に伝えて欲しい」
「ふざけないでよ」
空になったグラスをテーブルに置きなおし、小雪は、燃えるような目になった。
「……今さら、汚れ役、人に回さないでよ、そういうことなら、あんたの口から言いなさいよ」
「…………」
「私は、恋人より仕事を取りますって、私は、あなたが思うほど、あなたのことが好きでも大切でもありませんって、はっきり、あんたの口から言いなさいよ」
「…………」
「ばっかみたいなことで、仕事も人生もなくしちゃったわねって、どうせ言うなら、そこまで言ってよ、徹底的に黎君に嫌われてよ」
「…………」
右京は黙って立ち上がった。
膝の上に、一欠片だけ残っていた氷の粒が、床に落ちて音を立てる。
「……あなたの言う通りだ」
そのまま、静かに頭を下げた。
「私が間違っていた。確かに私が言うべきことだった」
小雪は答えない。目をあわそうともしない。
「……わざわざ、来てくれてありがとう。……色々不快な思いをさせて、申し分けなかった、許してもらえるとは思わないが、謝罪だけはさせてほしい」
返事はない。
右京は立ったまま、そのまま深く頭を下げた。
「失礼する」
レシートとバックを掴み、そのまま再度目礼してから、きびすを返した。
店員も、客も、大丈夫ですか、とでも言いたそうな目で見つめている。
白いブラウスには濃い沁みが滲み、前髪は、殆んど濡れたままになっている。なまじ背が高いだけに、右京の姿は必要以上に注目されているようだった。
支払いを済ませ、店を出たところで、バックの中の携帯電話が鳴った。
―――蓮見……。
少し躊躇して、電話を取ろうとした時、
「忘れ物よ、おばさん」
きつい声がして、振り返ると、店の前に小雪が立っていた。
小雪が腕を振りかぶり、胸元に、重たいビニール袋が飛んでくる。
―――ああ、魚……。
どこかで、氷を買って帰ろう。このままでは、東京まで持たないかもしれない。
袋を受け止めながら、右京はそんなことを考えていた。
蓮見に渡しても、迷惑がられるだけだろう。
携帯電話はまだ鳴っている。
けれど、仁王立ちになって動かない小雪を前にして、電話を取る事はできなかった。
「奏さん、もしかして、私に謝るために、わざわざ東京から出てきたんだ」
「…………」
「そういうのって、結構腹立つ。……っていうか、あなた、何か勘違いしてない?」
小雪はつかつかと歩み寄ってくる。
こうしてみると、相当上背のある女性である。
目線の同じ同姓というのが珍しくて、右京は少し、戸惑っていた。
「謝る相手、間違ってるから、奏さん」
怒ったような声で、小雪は言った。
「……間違う……?」
「ちょっと私につきあって、どうせ黎君と別れるなら、そんな電話、すっぽかしたって平気でしょ」
有無を言わさない手に腕をつかまれる。
電話の音が途切れたのはその時だった。
五
―――どうなってんだ……?
携帯電話を切って、蓮見はけげん気に首をひねった。
向こうからしてこいと言った癖に、一度目は出ず、二度目は圏外。三度目は電源が切れている。
まさか――右京の身に、何か起きたのか、と、ちらっと思ったものの、あれだけ強くて隙のない女が、そうやすやすと奇禍に合うとも考えにくい。
しかもこんな、平和そのもののド田舎で。
「…………」
もう、時刻は五時近かった。
二時に交番を出て、すでに三時間が経過している。
所在なく仰向けになった蓮見は、自分の部屋の天井を見上げた。
築50年以上立つ、ふるびた公務員住宅である。
以前東京で済んでいたマンションもひどかったが、ここはそれ以下――というか、比べ物にさえならない。
天井壁は、ぽろぽろと壁土が剥がれ、柱には沁みが浮いている。トイレはいくら掃除しても薄汚く、床面はタイルが剥げている。風呂は――とてもじゃないが、女性を招けるような上品なものではない。
―――こんなとこに、あいつ、死んだって住めないだろうな。
他の住居を探すような金もない、給料は安いし、貯金も底をついている。
もう……二、三年……待ってみるかな。
目を閉じ、蓮見はぼんやりとそう思った。
籍は、やはり抜いた方がいいだろう。
右京もいずれは就職する。
未婚の方が、就職に有利なのは無論のこと、年金や健康保険の手続きひとつにしても、婚姻している以上、二重三重に面倒なことになる。
いつまでも交番勤務が続くわけではない。いずれ――東京に戻れたら……。
玄関のチャイムが鳴ったのはその時だった。
―――右京?
がば、と起き上がって、玄関に走る。ここの住所は知っているはずだから、直接来てくれたのだろうか。
魚眼レンズで確かめる事もせず、いきなり扉を開けていた。
開けて――今日、二度目の衝撃を、嫌というほど味わった。
「よう〜、蓮見君、元気そうじゃねぇか」
煙草を口にくわえたまま、にやっと唇をゆがめる、身長がゴリラ並に高い男。
「き、き……」
なんだって、このタイミングで桐谷徹が現れるんだ?
蓮見は愕然としながら、ただ、ばくばくと口を動かした