つかの間




                   一


「十円」
「…………」
 手のひらに差し出されたそれを見て、蓮見黎人は、ただ無言で目をすがめた。
「交番のおっちゃん、十円っつったんだよ、頭だけじゃなくて、耳も悪いのかよ」
「……いや、だから、な」
 言いかけて止めた。
 どうせ説明するだけ無駄だ。どう言い繕っても、この目つきの悪い子供は、「それって警察の怠慢だろ」「要は面倒なだけなんだろ」と小馬鹿にしたような声で言い返してくるのである。
「……んじゃ、預かり書くから、場所言えよ」
 はぁっと溜息をつき、帽子を脱いで髪をかきあげる。
「ちょっとちょっとお兄さん、だから私の保険証はどうなるんですか」
 背後から、苛立ったような女の声がした。
 二十分前にここ―――島根県警瓦町交番を訪れ、延々、ずーっと話し続けていた中年女性である。
 要は保険証を無くしたらしいのだが、紛失したか、盗難されたか、それが判らないらしい。
「いやー、だからっすね、家の中でなくなったんなら、盗難っつーより、紛失じゃないかと思うんですが」
 蓮見が振り返ってそう言うと、
「まぁっ、家の中でも盗まれることはあるでしょう?どうして紛失って決め付けられるんです?」
 と、鼻息も荒く言い返される。
「……いや、だったら、盗難届にしときますか」
 どこの世界に、財布も通帳も素通りして、保険証だけ盗る泥棒がいるんだ?
 と、思ったが、それももう何度も説明している。
「施錠はちゃんとしていたはずなんです。ねぇどうしましょう、お巡りさん、保険証があれば、ほら、金融機関でお金なんかも借りられちゃうわけでしょう?やっぱり盗まれたんじゃないかしら……」
「じゃ……盗難届……」
「でも、施錠はちゃんとしていたはずなんですよ」
「………………」
「お巡りさん、本当にちゃんと、保険証を探してくださるんでしょうね!」
 ふいに女は、鬼気迫る形相で立ち上がった。
「家に来てくださいよ、で、指紋とか採取してくださいな、お願いしますよ」
「は、はぁ?」
「それが警察の仕事でしょう、私、ちゃんと税金払ってるんですよ」
 ぐっと腕をつかまれ、すがるような目で見られても、そこでどう答えていいか判らない。
「おい、おっさん、俺も暇じゃないんだよ、とっとと預かり書、書いてくれよ」
 背後で、立ったままの子供が、苛立った声を上げる。
「ぼうず、あのさ、今立て込んでんだ、十円のことなら」
「頭悪いと思ったけど、仕事も満足に回せないのかよ、そんなことだから、いい年して、ど田舎の交番なんかに飛ばされんだよ」
「…………」
「喉渇いた、おっさん、お茶でも出してくれよ」
「…………」
 もう限界だ。
 連日のように拾った五円、十円を持って、入れ替わり立ち替わり嫌がらせに来る近所のガキ。
 地元の子供だからと思って、下手に出ていた(つもり)だったのが間違いだった。
「十円が落ちていたが、」
 背後でまた声がした。
「うるせぇな、それがどうした、いい加減にしやがれ!」
 子供を叱り付ける寸前だった蓮見は、その勢いで振り返って怒声を発してしまっていた。
 そして――凍りついた。
「……う」
 そこに立っていたのは、近所のガキのような可愛らしいものではなく。
「……なんだ、それが警察官の市民対応か、驚くべき地方の実態だな」
 あきれたような顔でそこに――派出所の狭い入り口に立っていたのは、
「う……う、」
 右京奏である。
 蓮見は、ただ、口を無意味にぱくぱくさせた。
 すらりと痩せた女の長身は、ただ立っているだけで妙な迫力がある。
 襟元の開いた白いシャツに、初めて見るような黒のスーツ。
 がたっ、と背後の机に背が当たるまで後退しつつ、蓮見は思った。
 ああ、そうか――今週来るとは言っていたけど、でも――まさか、今日、いきなり職場にやってくるとは……。
 つかつかと歩み寄り、綺麗な指で、ぱちん、と十円玉を机の上に置く女。
「椅子の下に落ちていた。拾得物を管理する警察署内で、金銭を落としたままにしておくとは、言語同断もいい所だな」
 眼もあわせないまま、冷静な声で、皮肉を言う。
 元――上司だった女、右京奏。
「僕、拾ったお金を届けるのはとてもいいことだ。でもそれは持って帰っていいよ」
 そして右京は、別人のように優しい声になり、鼻水をすすっている少年の前にしゃがみこんだ。
「十円を落として、わざわざ警察に取りに来る人はいない、僕ならどうかな、十円を落として、交番に届けに来るかな?」
「……百円だったら、来るかもしんねーけど」
「だったら、百円を拾ったら、今度は届けにきてごらん、その時は、このお兄ちゃんが、ちゃんと届けを受けてくれるから」
「おっさんだろ、オヤジじゃねぇか」
 子供は、三白眼の目で蓮見を見上げる。
「じゃあ、私はおばさんか」
 先ほどまで蓮見をおっさん呼ばわりしていた少年は、少し照れたように頭を掻いた。
「お姉ちゃん……」
「ありがとう」
 右京は笑った。
―――いや、俺と年変わらねぇだろ、とつっこみかけた蓮見は、そのままもごもごと口をつぐんだ。
 短い髪に、化粧気のない澄んだ肌、凛とした黒い瞳。
 オデッセイにいた頃と比べたら、少し痩せた気もしたが、すっくと立ち上がる長身の女は、実際、子供でも照れるほど美しかった。
 それに――。
 少しどきまぎして、蓮見はそのまま後ずさった。
 いや、もう後ずさるスペースすらないのだが。
 よく見ればスーツは女性用のもので、同じラインでも男性用を身につけていた時とは、雰囲気がまるで違う。
 黒と白のコントラストが強烈で、地味なのに、首筋の白さや開いた襟元などが、目がくらむようだった。
「奥さん、とりあえず、紛失届けを書かれたらどうでしょう」
 立ち上がった右京は、柔らかな口調で、蓮見の背後に座る中年の女性に声を掛けた。
「紛失届けを出された上で、保険証の発行元に再発行の申請をなさってください、そうすれば、なくなった保険証が万一悪用されても、法的に保護されると思いますから」
「まぁ、ま、そうですわねぇ、最初からこの人がそう言ってくだされば……もうっ」
 と、ねめつけられる蓮見だったが、蓮見にしてみれば、最初から何度もそう説明していたつもりである。
―――なんなんだ……これは……。
 数分後、すっかり静かになった交番で、スイスで別れて以来、初めて再会する女と向き合いながら――、
「お……お茶か何か」
「いや、いい」
「…………」
 蓮見はまだ、釈然としないものが払拭できないままでいた。
「交番勤務に逆戻りか」
 右京は微かに笑い、そのまま、交番内を見回した。
 で、蓮見はそんな右京から目が離せないままだった。
 しみひとつない透き通った肌、長い睫、淡い色味を帯びた唇。
 眠っている間、代謝が止まっていたせいもあるのか、本当に――オデッセイ時代と寸分の変わりも無い美貌を保っているように見える。
「……幽霊じゃないぞ」
「し、知ってますよ」
「さっきから妙な目をしているが……」
「…………」
 幽霊でも見るような、そんなおびえ切った目をしてたんだろうか、俺。
 色んな思いが交錯して、正直、何を言っていいか判らない。
 黙ったままでいると、右京は、苦笑でもするような目になった。
「よく試験にパスしたな、今さら試験勉強なんて、お前にしてみれば、相当苦痛だったんじゃないか」
「そりゃ……まぁ」
 蓮見は、戸惑ったまま、こりこりと眉と頭を掻く。
 来週あたり、そちらに行く――と電話があって、その時は、再会の瞬間を思い描いて多少緊張していた蓮見だったが、まさか、こんなにあっけなくその瞬間が過ぎるなど思ってもみなかった。
 なんていうか――思い切り、平常モードというやつだ。少なくとも右京にとっては。
「あんな辞め方したし、年齢もぎりぎりだし、書類選考で落ちると思ってたんすけど……、ま、特例ってやつなんすかね、よく考えたら退職金ももらってなかったし」
 一時試験をパスした時点で、二次試験も警察学校も免除され、そのまま、七月には交番勤務を命じられた。多分、新規採用といいつつ、復職という意味合いが強かったのだろう。
 人事には、蓮見の元上司がいて、それで上手く便宜を図ってもらえたのかもしれないし、退職手続きが完全に終わっていなかったのかもしれない。
 思えば辞表ひとつだしたきり、逃げるように海外に出てそれきりだった。とんとん拍子に復職が決ったのは、多分、目に見えないところで、何かの力が動いてくれたせいなのだろう。
 勤務先は、蓮見の郷里でもある島根県警管轄の、さびれた港町にある小さな交番だった。
 蓮見と、先輩警察官の二人、その三人で、交代勤務という形態を取っている。
 今まで起きた一番大きな事件が、漁場争いで起きた暴行傷害くらいで、あとは、パトロール、ご近所の相談窓口、それと、近所の子供の遊び相手が主な仕事だった。
「そんなに警察が好きだとは知らなかった、もっと自由な仕事に就いていると思っていたが」
 テーブルの上に投げたままの、拾得物預かり書を見つめながら、右京は、どこか優しい声で呟く。
「……いや、好きっつーか、性にあってんすかね」
 実際、もっと条件のいい仕事ならいくらでもあった。
 元警察官で、警備課に所属していたという経歴があれば、警備会社などは、かなりの厚待遇で受け入れてくれる。
 警視庁を辞め、国連事務局に職を移した遥泉からも、こちらで仕事をしないかと誘いがあったし、ついでに言えば、何故かNAVIからも誘われた(これだけはいまだに理解できない)。
 それでも、結局は警察に戻る道を選んでしまった。
 一度任意退職した自分が、試験にパスできる保証は何もなかったが、それでも、受験という道を選んでしまった。
「給料、マジ安ですけど」
 蓮見は、はは、と笑って、時計を見上げる。あと一時間もすれば、交代の時間だった。
「似合ってるよ」
 右京がふいに顔を上げてそう言った。
 一瞬意味が判らず、蓮見はただ、瞬きをする。
「そういえば、制服姿なんて初めて見た」
「…………?」
 制服――?まさかこの、警察の制服のことだろうか。
「二割増くらい男前に見える」
「は……?」
 ド真面目な顔で言うことだろうか。こういうところがなんとも右京らしい。
 さすがに蓮見は失笑し、同時に肩の力が抜けていた。
「なんだ、何がおかしい」
「い、いや、別に」
 むっとした女の顔を見つつ、ようやく――恋人と再会できたのだと、その実感が押し寄せる。
「……もう、身体はいいんすか」
「すっかりな」
 また、二人の間には机がある。
 桜庭で再会した時と同じだな――、蓮見はそう思った。 
 が、あの時と違い、今は何故か、その距離を埋められないままでいる。
 躊躇ったように、右京が自分の手を机の上に置く。
 やはり躊躇いつつ、蓮見はその手の上に自分の手を重ねた。
「…………」
「…………」
 伝わる温もりは、確かな感情を意味しているような気がするのに、それでも右京の表情はどこか沈んで見えた。
「これから……どうするんすか」
「まずは就職しないとな」
「あんたが?――まさか職安にでも通うんすか」
 蓮見は苦笑して、そして、この女は、今夜は泊まらずに帰るつもりなのかな、と、ふと思った。
 右京が手にしているのは、小さなバッグだけで、とても一泊旅行にきたようには見えないからだ。
 蓮見の視線を感じたのか、右京は、どこか影のある横顔を見せてうつむいた。
「……色々……お前とも、話し合わなければいけないことがある」
「…………」
 それが何の話なのか、見当はついている。
 蓮見は黙って、右京の手から、自分の手を離した。
「今夜、時間が取れるか」
「……あと、一時間で、非番になるんで」
「私も、人と会う約束がある。……一時間後に、このあたりで待っている」
 そう言って、右京は机のペンを取り上げ、届出用紙をひっくり返し、そこにさらさらと番号を書いた。
「私の携帯だ、時間が空いたら、連絡してくれ」
 誰と会うんだ――?
 そう思ったが、それは口にはできなかった。
 右京には右京の生き方がある。
 自分の人生が、この先どう女に絡んでいくのか、それは――判らない。拒絶されることも有り得ると、それは最初から覚悟していた。
 そのまま、背を向けた女が出て行くのを、蓮見はただ、見守ることしかできなかった。
 

                    二


 賑やかな商店街だった。
 港町だけあって、道の左右に居並ぶ店は、全て魚屋である。海産物がところせましと並べられ、磯の香りが喧噪の中に溶け込んでいる。
「奥さん、奥さん、そこな背の高いええにゃぼさん」
 周辺を見回しながら、ゆっくりと歩いていた右京は、三度同じことを繰り返され、ようやくそれが、自分のことであると気がついた。
「どがなね、こん魚ぁ、今朝隠岐で獲れた、ピッチビチの新鮮な奴だで、安くしたぎょう、サービスしたぎょう」
 店頭で声を張り上げていたのは、50前くらいの、白いシャツに黒の防水エプロンを身につけた男だった。小柄だが、肌が露出している所は全て赤黒く日焼けして、海の男、という感じがする。
「奥さん、どがしょか」
「…………」
 しばらくその男を見つめていた右京は、少し驚きをこめて呟いていた。
「………私は、奥さんに見えるのか」
「へっ?」
 右京が思わずそう聞くと、今度は男が、驚いたように目を見開く。
「いや、買おう」
「へ……へぇへぇ」
 値段を聞き、財布からお金を取り出していると、
「いやぁ、こらえてごしなれ、こらぁ悪がった、奥さんって年じゃなぁか、姉ちゃんか」
 器用に魚をビニルで梱包しながら、魚屋の男が、すまなそうに言う。
「……いや」
 どっちも違うような気がする。
 どう受け答えしていいか判らないまま、商品の入った袋を受け取り、右京は嘆息して歩き出した。
「ネェちゃん、また来てぇや」
「ありがとうございましたぁ」
 男の声に、男の妻らしき女の声が被さる。
 見渡す限り、どの店も、夫婦連れが揃って店頭に立っているようだった。
―――夫婦、か……。
 右京は目をすがめ、今しがた別れたばかりの男のことを思い出していた。
 結婚。
 自分には、一生縁の無いものだと思っていた。
 が、少なくとも、今の右京は戸籍の上では婚姻している。
 すでに日本国籍上、右京の名前は、蓮見奏になっている。まったく馴染みのない名前だが、パスポートの名前もそうなっている。
 そして、その婚姻が、普通の形でなされたものではないことも――知っている。
―――………私は……、
 先月、東京の病院に極秘裏に面会に来てくれた男との会話を、右京は苦い気持ちで反芻していた。
(勇退された阿蘇さんの、強力な推薦があったのでね)
(来週にも退院されるそうだが、すぐに内々に打診があるだろう。私は、受けるべきだと思っている)
 まさか、と、その場で右京はすぐに切り替えした。
 阿蘇洋二郎。
 右京の元、直属の上司。
 あの男なら、死んでも私を推薦するはずがない。まるで、蛇蠍のように、いやそれ以上に強烈に嫌われていたのだから。
 そう言うと、男は形いい唇に苦い笑みを浮かべ、両手の指を組んだ。
(―――CIAを通じ、私はある犯罪現場を撮影したフィルムを手に入れてね、驚くじゃないか、何故かその現場に、「ミスター阿蘇」という声と、ご本人の肉声が収められていたのだから)
 右京は黙った。なるほどな、とすぐに男の言いたいことを理解した。
 つまりは、阿蘇は、元防衛庁長官との駆け引きに敗れたということなのだ
ろう。
(君も判っているはずだよ……右京君、君自身を護るためには、君が公の場に立つことが一番なのだ)
「…………!」
 耳鳴りのような喧噪で、右京ははっと我に返った。
 タイムサービスの時間なのか、市場が急に活気づきはじめた。いたる所から、威勢のいい掛け声が響いている。
「…………」
 手にしたビニール袋が、妙に重たかった。
 今夜、料理を……あの男の部屋で、するべきなのだろうか、今はそれさえ判らなかった。
「いずれにしても、決めるのは君自身だよ、右京君」
 男の声は柔らかかった。
「私の役目は終わった、けれど、君の役目はまだ終わってはいない……」
 子供時代、何かの折りに一度だけ父に紹介されたことがある。
 優しいおじさんだった――ということだけは、漠然と記憶しているし、彼が議員時代にも何度か職務で会っている。
 けれど、目の前に座する男と、一人の人間同士として向き合うのはこれが初めてのような気がした。
「君自身の戦いは、まだ終わっていないのではないかね、右京君、……これは、私の個人的な感慨ではあるが」
 それだけ言って、今は国連事務局参事に職を移した、元防衛庁長官は立ち上がる。
 右京奏は、何も答えられないまま、その背中を見送った。
 あまりにも思いがけない申し出に、ただ困惑したまま、無言で閉じられた病室の扉を見つめていた。
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