六
パイロット待機所に向かおうとして――思わず傍らの椅子に腰を下ろした鷹宮は、体に溜まった疲労が限界に近づいているのを感じていた。
現在、日本各地の警察、機動隊、及び自衛隊がはりめぐらした陸、海、空のレーダー網をフルに使って捜索しているにも係わらず、真宮楓の行方はようとして知れない。
阿蘇が自信を持って断言していたように、真宮楓が海外に出ようとしているのなら、当然現れるであろう場所にも姿を見せない。
高速道路で振り切られてから――、すでに10時間が経過しようとしている。
―――さすが、とでもいうべきかな。
鷹宮は苦笑を漏らしていた。
基地の通用門。今朝、事前に真宮楓を保護しようとする動きがあることを察し、それを妨害したのは、鷹宮自身の判断だった。
一瞬、このまま――気づかないふりで見過ごそうかとも思ったのは事実だ。
阿蘇の計画は楽観的すぎる。
真宮楓を使って、最後の完全体を釣り出すという計画は、―――敵の能力を考えた場合、あまりにも多くの危険を伴う。そして、その危険は、真宮楓に――取り返しのつかない罪を重ねさせる可能性が大きい。
けれど、今、真宮楓を保護したとしても、結果は何も変らないのだ。
日本政府が、その身柄をへ米国へ引き渡すと決めている以上、遅かれ早かれ残酷な結末が待っている。
だったら―――。
―――私は……鳥かごを開けてやりたかったのかもしれない……。
あの天使が、完全に翼をもぎとられる前に。
自分に、自由の翼があることを忘れてしまう前に。
それが、正しかったのか、間違っていたのか、今の鷹宮には判らない。
ただ、もう一度見てみたいと思った。そんなことは有り得ないと判っていて、もう一度奇跡が見たいと思っていた。
彼の――気高い翼が、もう一度天ではばたく姿を。
「…………」
苦く笑んで顔を上げる。喫煙の経験はないが、吸えるものなら、吸ってみたい気分だった。
真宮楓を捕らえなければならないという焦燥と、それと矛盾した――ある種の希望。
それが今も、自分の中で際限なく戦い続けている。
鷹宮は嘆息し、ソファに深く身体を預けた。
―――獅堂さん……。
ふと獅堂のことが気に掛かった。いや、実のところ考えないようにしていただけで、消えない頬の痛みと共に、ずっと気がかりに思っていた。
あれきり獅堂は与えられた部屋に閉じこもったままだ。
あの元気で、恐いくらい前向きな人が、うつむいた顔を上げようともしてくれない。
―――嫌われた……な。
それも、絶望的なまでに徹底的に。もう――何を言っても、二度と許してはもらえないだろう。
最初から、今日のことは覚悟していた。理解されようとは思っていない。仕方ないことだと思う。
獅堂でなくても、誰でも激怒するだろう。
殺してやりたいとさえ思うだろう。
誰かの足音が近づいている。こんな所で休憩を取っている場合ではない。判っていても、鷹宮はそのまま、動くことさえできなかった。
「鷹宮、」
けれど、聞こえたのは意外な声。
鷹宮は驚き、顔を上げ、――― そのまま言葉を失っていた。
「どうした、お前らしくもない、大分参っているようじゃないか」
目の前で足を止めた男、フライトスーツを身につけた椎名は、そう言うと、軽く笑った。
「……驚きました。まだ、休暇中だとばかり」
鷹宮も思わず立ち上がる。
椎名は苦笑して歩み寄ると、その肩をぽん、と叩いた。
「緊急召集だよ、つい先ほど大慌てで帰艦した。話しは聞いた、真宮を捕まえようとして失敗したって?」
「今、鬼ごっこの真っ最中ですよ」
「嫌な役目を、引き受けたもんだな。お前も」
言葉が……出てこない。
―――まいったな………。
自分が、こんなに脆い人間だとは思わなかった。
空学時代からの盟友――良きも悪きも、自分のことを、そしてそれ以上に獅堂のことを知り尽くしている椎名がこんな時に傍に来てくれたことに――情けないくらい、ほっとしている。
「上が決めたことか……俺も腹立たしいが、お前はもっとそうだろう」
立ったまま、椎名は沁み入るような声で、そう言った。
「私は別に、」
苦笑して両手を広げる。
「お前の立場にしか判らないことがある。ここからは俺の推測だ。否定も肯定もしなくていい」
「…………」
鷹宮は、何も言えない。
「……今回、獅堂をオデッセイに戻すよう、上の連中を説得したのは、お前だな」
「…………」
「本当は、あの二人を地上と空に離してから、……真宮楓を保護しようとしていたんだ、それが、嵐の誘拐騒ぎで前倒しになった」
「………」
「お前は……最初から最後まで、あの二人を守りたかったんじゃないのか」
鷹宮は顔を上げ、無言で椎名を見つめた。
電波部に移ってから、防衛庁のトップシークレットに係わるようになってから、沢山の友人が離れていった。離れざるを得なくなっていった。
オデッセイに結集した昔の仲間たちとも、むろん一線を引かなければならない。皆が、自然と自分を敬遠していたのも知っている。
椎名だけは特別だったが、だからといって、鷹宮が職務上知りえた機密を一欠片も漏らすわけにはいかない。―――自然、以前より話す回数は減ってきていた。
自分は変わった――変わらざるを得なかった。しかし、椎名は昔と少しも変わらない態度で、いつも暖かく接してくれる。そして、余計なことは一言も聞かない。
「私を信じても、ろくなことにはなりませんよ」
鷹宮は呟いた。信じられないくらい、素直な気持ちになっていた。
「何を今さら」
椎名は精悍な顔をほころばせて笑う。
「これだけ騙され続けてきたんだ、お前の行動パターンは読めてるよ」
「その自信が命取りなんです」
「あっちの方はとことん節操がないが、根は純粋な奴だからな」
「ひどいな、前半は当ってますけど、」
ようやく鷹宮も、苦笑する。
「でも、最近はあっちの方も……純粋なんですけどね」
「獅堂……か」
「………」
「変わらないな、お前も……。昔から、あいつだけか」
「私は……」
鷹宮は遠い目をする。
「私は、あの人を――」
空へ還してあげたいだけだ……。
―――羽根を無くした天使を追って、地上に降りた翼。
空自時代、誰よりも早く、力強く空を駆けていた少女。
史上最年少でウィングマークを取得し、ドッグファイトでは、誰も彼女の背後をとることができなかった。白の飛行服が似合いすぎて、眩しいくらいだった。
空が――あの人のいる場所だった。あの時も、今も。そしてこれから先も。
初めて獅堂を見た時、彼女の背中に幻のような翼が見えた事が、懐かしく思い出される。
―――ずっと……あの時の姿を追い求めて、ここまで来てしまったのかもしれない。
鷹宮は溜息をついた。
もう忘れよう、何度もそう思うのに、気がつくとまた、獅堂の背中を追っている。
「真宮の身柄を拘束しなきゃならんのは……なんなんだ、奴は本当にまだ、中国共和党の思想から抜け出せていないのか」
椎名が静かに聞いた。
鷹宮は黙って頷く。
無論、それは、大きな不安要素であり、拘束が決められた直接の理由でもある。
しかし、それに加えて、謎のウィルス、ベクターの由来、右京奏の周辺で起きた死亡事故、最後の一人の完全体――鷹宮でも、理解しがたい、様々な要素がそこには複雑に絡んでいる。
椎名にすら、言えないことがある。鷹宮は――ただ、微笑した。
真宮楓の身柄を防衛庁で拘束することは、確かに半年近く前に内々に決定されていたことだった。
今年の春、ある情報がペンタゴンからもたらされ、その時点で、真宮楓が大変危険な状態である――と、いうことに、誰も反論する者はいなくなった。
即時の拘束には、阿蘇が最後まで難色を示した。――結果、この時期まで引き延ばされたのは、真宮楓を「囮」として泳がせ、最後の大物を自らの手で確保したかったからだろう。
鷹宮が一番気がかりだったのは、獅堂藍の処遇のことだった。その時点で、獅堂はすでに、防衛庁の上層部から危険人物としてマークされていたからだ。
だから事前に、獅堂をまず、空へ送ることを――危険人物というレッテルを逆手に取って提案した。彼女を地上に残せば、真宮楓確保の障害になると主張した。
嵐の失踪というアクシデントさえなければ、こんなに性急に事を運ぶ必要はなかったのだ。獅堂に事情を説明し――できるかどうか判らなかったが、納得させた上で、楓を米国へ送る。
それが、一番いい方法だと思っていた。
日本と米国に離れても、会えなくなるわけではない。
時がたち――ウィルスの謎が解明され、希望的観測だが、右京が意識を取り戻せば――事態は、まだ、いくらでもいい方向に変っていく可能性がある。
しかし嵐が行方不明になり、――防衛庁の最優先事項は、楓の確保から、再び囮作戦へと移行した――そして、結果、真宮楓は逃走した。
審判の日から止まっていた時計は、こうして再び動き出してしまった。
七
「何をもたもたしているんだ、莫迦者が!」
阿蘇の怒声が響き渡る。
「いいか、探せ、徹底的に探し出すんだ、まだ国内に潜伏している以上、奴は必ず網に引っかかる」
各地から寄せられる報告書に目を通しながら、鷹宮は額を押さえ、目を閉じる。
蓄積された疲労が、瞼に、指先に澱んでいた。
腕からリズミカルな発信音がした。鷹宮はふと目を止める。
オデッセイの隊員に支給される通信機―――通信衛星と防衛庁のLANで繋がれ、全隊員の所在が、地上からも、オデッセイのオペレーションクルー室からも、同時に捕捉できるようになっている。最新機能が詰まった電子機器だが、予算が高額で、今だ、防衛庁が抱える全部隊に支給されるに至っていない。
起動した液晶画面に、発信元通信機の登録使用者の名前が、まず現れる。
「獅堂さん……?」
鷹宮は驚いた。相手は、直接対話モードに入っている。喧噪が煩く、獅堂の声が聞き取れない。慌てて耳元に腕を当てる。
小型スピーカーから、力ない声が響いた。
『……オデッセイの中で使ったの初めてです……そういえば、私用は禁止されてましたよね』
「……何か、思い出したことでもありましたか」
鷹宮は、胸によぎる思いを振りきるように、事務的に聞いた。
耳元で――獅堂がかすかに笑うのが判った。
『自分は、楓を探しに行きます』
「………獅堂さん?」
何を、言ってる――?
『心当たりがあるんです。でも、自分一人で行かせてください』
「ば、――何を言ってるんです。そんなこと許さない、駄目です、獅堂さん!」
『楓は、……多分、』
腕を背後から掴まれたのは、その時だった。
冷たい形相になった上司が、ぐっと通信機ごと腕を掴み上げている。
「…………」
鷹宮は――怒りを飲み込んだ眼で男を見上げ、その腕を振り解くと、交信の回線をオープンにした。
「獅堂の場所を捕捉しろ」
背後で、阿蘇がオペレーションクルーに命じている。
「獅堂さん、いけない。あなたは楓君のことをまるで判っていない!」
鷹宮は、声を張り上げた。その声は、もう自分の背後にある大型スクリーン、そのスピーカーからコンマ差遅れで響いている。
『楓は、やっぱり、マインドコントロールなどされていない。それは、自分だけには判ります』
―――獅堂さん……違うんだ……。
絶望的な思いにかられながら、鷹宮は目まぐるしく頭を働かす。
「――フューチャーの格納庫です」
オペレーターの声がした。
「カメラに切り替えます」
まさか、と思って振り返る。
画面に瞬く映像に眼を凝らす。閑散とした格納庫。動くものは何も見えない。
「どこだ」
阿蘇の声。
「どこにもいないぞ」
「おかしい、ちょっと待ってください、タワーに電力が……室長、フューチャーの発進準備が起動中です」
空自から派遣されたオペレーターの声。
「誰が獅堂にIDを渡した」
「いえ、それはまだ――」
「カメラを切り替えろ、駐機場と滑走路だ 急げ!」
「獅堂さん、いけない!」
鷹宮は叫んだ。誰かが――獅堂を行かそうとしている。協力者なしには、無理だ。一人でフャーチャーを動かすなんて出来やしない。
『すいません。ここから地上に降りる方法は、これしかなかった。……自分が全て命令し、協力するよう、部下に強要しました』
落ち着き払った獅堂の声が、スピーカーを通じてクルー室に響き渡る。
「フューチャー、みかづき、一号機、あと三十秒で発進します」
オペレーターの声が裏返っている。
―――相原か……。
鷹宮は拳を握り締めた。
獅堂さん、判ってるのか――あなたは今、最大級に愚かなことをしようとしているんだぞ。
『ハッチを空けてください、もう、停止不可能です。このままだと、オデッセイの壁面につっこみます』
「獅堂さん!」
『自分を信じてください、必ず――楓は、自分の手で保護しますから』
「駄目だ、獅堂さん、楓君は、」
「ハッチを空けてやれ」
阿蘇の声がした。
莫迦な、鷹宮は振り返っていた。
「あの女を行かせろ、女の行く先には必ず対象がいる。現在のみかづき一号機のポイントを、すぐに全哨戒機に連絡しろ」
了解、という、少しためらったようなオペレーターの声と共に、鷹宮の耳に――せりあがる機械の、空気がつんざくような音が響いた。
「獅堂さん、だめなんだ!」
鷹宮は叫んだ。間に合わない。わかっている、でも。
「これでいい、気に病むな、鷹宮。戦闘機で出た以上、獅堂の行き先は必ず判る」
「あなたに何が判るんだ!」
初めて声を荒げ、鷹宮は阿蘇を見下ろした。
「超低空飛行の戦闘機を100パーセント捕捉することは、今の早期警戒機では不可能だ。そんなもの新卒だって判る常識でしょう!」
「…………」
男の顔が、怒りのために赤く染まる。
鷹宮はひるまなかった。
「しかもパイロットを誰だと思ってるんです。獅堂藍だ、空自に、後にも先にも出ないと言われている天才だ」
「……鷹宮、貴様」
「あなたが憎むベクターが作ったフューチャーは、垂直着陸が可能だというのを忘れたか、ヘリコプターの着陸場所程度のスペースがあれば、フャーチャーは何処にだって着陸できるし、離陸できる!」
―――これだった。
鷹宮は……眩暈がするような思いで理解した。
真宮楓が待っていたのは、これだったんだ。
判った。唯一の、そして確実な国外脱出方法。
獅堂を――そして、フューチャーを利用すること。
阿蘇は轟然と、その指を、出入り口の方に指し示した。
「君を、たった今から、解雇する。荷物をまとめてとっととオデッセイを降りたまえ!」
鷹宮は返事もせずにきびすを返した。
もう、矢は放たれた。
何をしても手遅れだ。
「真宮楓の存在が、人類にとって、今、どれだけ重要な意味を持つか……」
喧噪を離れ、鷹宮は笑いたいような気持ちで呟いた。
――そして、真宮兄弟に対して、日本政府がどれだけ残酷なことをしてきたか。
「……あなたは……なにも、知らないんだ……」
その報いを、今から獅堂が一人で受けようとしている。
鷹宮は額を押さえ、そのまま壁に背を預けていた。