四


「……獅堂さん」
 何度目かの声に、獅堂はぼんやりと顔を上げた。
「なに……やってんすか、こんなとこで、あいさつ回りも何もかも、すっぽかして」
 すでに繋がらなくなった携帯電話を膝の上に置き、獅堂はただ、ああ、とだけ呟いた。
 オデッセイの居住スペースに与えられた部屋。
 まだ――梱包さえ解いていない荷に囲まれ、獅堂はぼんやりと、壁際の椅子に座っていた。
 鍵を掛けていない扉から、顔を覗かせたのは北條だった。
 まだ、地上勤務の隊服から着替えてさえいない獅堂だったが、北條は、すでにオデッセイの隊服を身につけている。
「……少し、体調悪くてさ、悪いな」
「まぁ、俺も大和さんも、結構暇なんで、いいっすけど」
 そう言いながら、男は、締め切ったカーテンを開けてくれる。
「今、なんか、オペレーションクルーがみんなどたばたしてて……何かあったんですかね、戦闘機チームも、全員待機についてますし」
「…………」
「獅堂さん?」
「あ、ああ」
 はっとして我に返る。
 窓辺に立つ大柄な男は、いぶかしげな目をしている。
 気持ちが――いつの間にか、拡散してしまっている。いけない、今は――勤務中で、今は――個人的なことを考えている時ではなくて。
 でも――。
「……何か、あったんすか」
「…………」
「鷹宮さん、顔にひどい痣つくってましたけど、……あの男と、何かあったんすか」
 北條は、ピースライナーで、鷹宮と言い争う場面を見ていたはずだ。
 獅堂は黙ってうつむいた。
「……お前さ、もし……もしだけどさ」
「え……?」
「仲間の……誰かの私生活をさ、盗聴しろって言われたら……どう思う」
「…………は?」
「例えば……自分のとか、さ」
 一瞬考え込むような顔になった北條は、すぐにとんでもない、とでも言うように両眉を上げた。
「な、何いってんすか、そんなの冗談じゃない、普通の神経してたらできませんよ!」
「…………だよな」
「吃驚させないでくださいよ、深刻な顔して、何を考えてるのかと思ったら……」
 はあっと溜息をついて、床面を塞いでいるダンボールを持ち上げ、隅の方に寄せてくれる。
 ふいに、そのごつい手が止まった。
「まさかと思うけど、……そんな命令、されたんすか」
 頭を上げた、北條の顔色が変わっている。
 本当はその逆だ――とは言えなかった。
「いや、ごめん、そんなんじゃないんだ」
 獅堂は、無理に笑顔をつくって立ち上がった。
 自分が想像すらしていなかったように、北條には想像できないだろう。実際――親しい人間が、同じ組織の者から盗聴されている可能性があるなんて。
「……悪い、なんか、色々想像していただけなんだ。夕食、大和誘って、一緒に行くか」
「獅堂さんが、しなきゃならないなら、自分が代わりにやりますよ」
 けれど、北條は、真面目な声でそう言った。
「そんな汚い仕事、あんたのするようなことじゃない、もしそんなことになれば、自分が上に言って、役目を代わってもらいますから」
「……北條、いや、」
 違うんだ。
 そう言おうとして、そのまま言葉を失っていた。
 鷹宮が、その役目を引き受けた理由を、―――獅堂は、初めて考えていた。
「……汚い、仕事だよな」
「……普通の神経してたら、務まりませんよ、……仲間を、盗聴するなんて」
「…………」
 そうだろう。
 自分でも、できない。
 例えば、命じられたのが自分だったらどうしただろう。
 それが必要だと言われたら。
 もし――鷹宮さんを、逆に盗聴しろと言われていたら。
「……もしかして」
 北條の声が、ふっと暗い翳りを帯びた。
「鷹宮さん、元々は電波部の人でしたよね、もしかして、今の話しは」
「それは違う」
 獅堂は即座に否定した。
「そんなことはない、悪い……本当に違うんだ。ただ、そういう可能性があったら、という意味で、いろいろ考えてしまっただけだ」
「…………」
「そんなこと、あるはずがないだろう」
 北條は黙る。
 自分の軽率さを、獅堂は舌打と共に後悔した。
 この――決して頭の悪くない男が、鷹宮の前職と、そして獅堂が暮らしている相手の前歴から、何かを察してしまったのは明らかなような気がしたからだ。
「あー、腹減ったよな、行こうか、大和の奴、一人で寂しがってんじゃないか」
「……例えば、それが、獅堂さんだったとしたら……ですけど」
「…………」
 扉に手を掛けていた獅堂は振り返った。
「俺には、できない。死んだ方がマシっす。……俺、あんたのことが好きだから」
「…………」
「……あんたが……誰かと幸せにしてるとこなんて、正直、想像したくもないっすから」


                    五


「いつから知ってたんですか」
 何枚かの書類を手にクルー室を飛び出してきた男は、そう声を掛けると、眉をひそめて足を止めた。
 整いすぎた端正な顔。その両頬に青痣が滲んでいる。
「……鷹宮さんは、いつから、自分が」
 床の一点を見つめたまま、獅堂は呟いた。
 鷹宮は…―――いつから、自分と楓の偽りを知っていたのだろう。
 薄く開いた扉。室内からは、阿蘇室長の苛立った声が聞こえる。ばたばたと慌しい足音。
「こちらへ」
 鷹宮は獅堂の腕を引き、そのまま廊下を早足で歩き出した。
「……楓は、どうなりました」
 その腕を振り払いながら、獅堂は聞いた。
「今の騒ぎで判りませんか」
 抑揚のない声が返ってくる。
「忙しいなら、いいです、質問にだけ答えてもらえれば」
「いえ、」
 廊下の隅――誰もいない休憩スペースで、鷹宮は足を止めた。
「……私の方も、あなたの所へ行くつもりでした」
 振り向く、向かい合う。先に目をそらしたのは獅堂の方だった。
「……楓の行き先を聞き出すためですか?悪いけど、心当たりは全然ないです、あいつの行きそうな所なら」
 こうして向き合えば、どうしても――冷たいものが喉元まで込み上げる。自分の感情が上手くコントロールできなくなる。
「それは、鷹宮さんの方が、よくご存知なんじゃないですか?」
「…………」
 自分でも嫌味な言い方になっているのが判った。
 鷹宮がかすかに嘆息するのが判る。
 けれど男は、次の瞬間静かな口調で唇を開いた。
「あなたが、ドイツに発った直後です。真宮楓君を追って」
「…………」
「それ以前から、阿蘇さんに……オデッセイでの真宮君の様子を聴取され、帰国する彼の身辺を監視することも、事前に聞かされてはいました」
「…………」
「でも、まさか、あなたが、そういったことに巻き込まれることになるなんて、……思ってもみなかった」
 自分の唇が震え出すのが、獅堂には判った。
 その時――鷹宮が感じたであろう気持ちが、驚愕が、まるで胸を貫かれたような痛みとともに、自分をきつく締め上げるようだった。
「………本当に……思ってもみなかった」
 鷹宮は呟く。
 その苦渋に満ちた声に堪りかねて、獅堂は顔を上げていた。
「自分を、」
 言いかけて口をつぐむ。言い訳はしたくない。でも、
 知られたくなかった。
 鷹宮には、この人だけには。
「自分を……」
 たまりかねて、目を逸らした。
「………自分を、軽蔑したでしょうね」
「いいえ」
「嘘をつかないでください」
「いいえ……私には」
「…………」
「あなたの優しい気持ちが、本当によくわかりましたから」

                ※

―――真宮楓を公私に渡って監視して欲しい。日本で生活するにあたって危険がないと判るまで、精神的な部分で彼をコントロールしてもらいたい。
 獅堂藍がその司令を、阿蘇室長から直に受けたのは、今から2年半程前のことだ。獅堂はその時初めて、楓の現在の住居地を知らされた。
 ドイツで居所を点々としていた楓。
 当時は、嵐ですら、正確な居所を知らなかった。
 楓のことは、獅堂は――時折、思い出していた。
 いや、忘れたことは一度もなかった。
 ただ、それを恋とか、そんな感情に置きなおして考えたことはない。
 鷹宮と、なりゆきとはいえ、ああいう関係を持ってしまって、自分には――もう、そういう資格はなくなったのだと思っていたし、楓には宇多田さんがいるのだと思っていた。
「……真宮楓は、現在一人で、しかも非常に不安体な精神状態にある。どうだろう、一度、様子を見に行ってみてはどうかね」
―――自分が?
―――何故……?
 隊の命令で行く――ということに、強烈な抵抗を覚える以上に、会いたい、会ってみたい、という感情の方が強かった。
「監視というのは、大げさだがね。彼の思想が中国共和党のそれを脱却し、真に民主主義の思想に戻っていることを、獅堂君、君が証明してくれればいいんだ」
 返事ができない獅堂に、阿蘇は柔らかな口調で続けた。
「彼には、いまだ戻らない過去の記憶がある。我々はね、それが戻った時、彼が――再び、元のベクター優位主義者にもどりやしないか、それを心から案じているのだ」
 何故自分なのか、と獅堂が問うと、君が真宮君と親しいからに決まっているじゃないか、と阿蘇は実に楽しそうに苦笑した。
「何も恋人になれとか、前時代の諜報員のような……そんな無茶なことを要求しているのではないよ。ただ、心を割って話せる友人として、彼の支えなってくれさえすればいいのだ」
 しばらく逡巡した上で、獅堂はようやく顔を上げた。
 楓には会いたい。しかし――どうしても、監視、という言葉がひっかかっていた。
「自分には……無理です。自分は、人に上手く嘘をつき通せる自信がない」
「それは知っているよ」
 阿蘇は何故か、なんでもないことのようにそう言った。そしてあっさりと立ち上がった。
「まぁ、残念だ。では他を探すとしよう。女性自衛官は他にもいる。公安からも、何人か候補者を立てていることだしな」
「…………」
 退室しようとしていた獅堂は、その言葉に足を止めていた。
「待ってください」
 咄嗟にそう言っていた。
「どうかしたかね、獅堂君」
「…………」
 引き受けます、そう言う以外に――他に、どういう選択肢があったのだろうか。
 楓を欺くのが、それが他の誰かであるくらいなら――まだ、自分であった方がいい。
 自分は、―――多分、あいつが好きで。
 そういう意味で、このミッションには最高に不適格な人間だとは思うけれど。
 それでも、他の誰かにその役目をゆだねるくらいなら、自分が全部引き受けよう。
 獅堂はそう決心した。
 そして行く以上、自分は――自衛官ではありたくない。あいつを好きな一人の女として会いに行こう、ずっと胸にくすんでいた言葉を、今度こそ打ち明けよう。
 そう決心して――そして、獅堂は、ドイツ行きの切符を手にした。

                  ※

「楓君の居所に…心当たりはないですか」
 鷹宮の声で、獅堂は回想から我に返った。
 苦い思い出。楓のことを好きになればなるほど、愛しいと思うようになればなるほど、悔恨で胸が軋むようだった。この感情とは無関係なところで、獅堂は常に――傍観者として楓を観察し、定期的に報告書を阿蘇宛におくらなければならなかったから。
「……楓君が消息をたってから、もう四時間近く経過しています。国内にいる間に、彼を確保しなければ、取り返しのつかないことになる」
 鷹宮の声。
 ああ、そうか。
 再び――冷たいものが、ゆっくりと身体に満ちてくる。
 この人は、味方ではない。鷹宮さんの立場は、自分とは違うのだ。
「取り調べって……訳ですか」
 獅堂は微かな皮肉を込めて言った。鷹宮の表情は動かない。怜悧な、そして、ゆるぎない決意に満ちた瞳。
 ふいに腹がたってきた。
「あなたは、自分の味方じゃない!」
 自分でも判る、子供じみた反感。
「では、どのような行動をとれば、味方だと言えますか?」
 それに反して、ひどく冷静な鷹宮の言葉。
「あなたの立場が悪くなり、空自から追放されてしまうのを、私に手伝えと?」
「自分のためだって言いたいんですか、そんなのは詭弁だ」
「私は、あなたも、そして真宮君も、助けたいと思っています」
「助ける……?」
 一瞬動揺して、けれどすぐに獅堂は笑った。
「楓を拘束して、国防総省に送ることが?」
 鷹宮を信じたいという気持ち、それを打ち消すために、わざと皮肉めいた口調で言った。
「今は、それが一番の方法です」
 鷹宮は怯まない。
 獅堂は――かっと、頭に血が上るのを感じた。
「一番?何が一番なんだ、楓がそれを、望んでいるとでも思ってんのか!」
「獅堂さん!」
 両腕を掴まれる。
 獅堂はそれを離そうと抗った。
「聞いてください、国防総省は、ベクターを襲うウィルスの元凶を、右京室長だけでなく、」
「離せっ、もう聞きたくない」
「嵐君と楓君の二人も、同様にそうであるとみなしている」
「…………」
―――嵐と……楓も?
「……どういうことです。意味がわからない、どうしてそんな」
「彼らの遺伝子に共通した因子がある……私が知っているのはそれだけです」
―――共通……因子……?
「それは……、以前、楓と嵐が、光の集合体に変化したことと……何か関係があるんですか」
 鷹宮は黙って頷いた。
「気休めかもしれない、でも、いずれ、ウィルスの全容が解明されれば、―――彼等の疑いが解けさえすれば、開放される可能性はある」
「…………」
「さらに、楓君に関しては、今、自分で自分をコントロールできない状況にある。本格的な精神分析治療を行い、彼を…かけられたマインドコントロールから解放してやりさえすれば」
「………」
「そうなれば、いずれ、国防総省も彼らを、楓君を解放する……。拘束する理由がなくなりさえすれば。今はそれを信じるしかない」
「楓が、何をしたっていうんだ……!」
 獅堂はうめいた。
 そんなことをしている間に――何年かかるか判らない治療を受けている間に――
 人生で一番充実した時間が、若さが、可能性が、全て失われてしまう。
 楓はもう、十分すぎるほど何もかも奪われた。築き上げてきた過去の生活、資格、特許、全てを無くし、ようやく手に入れた安住の場所。それを。
 そんなささやかな幸せを――なんの権利があって摘み取ろうというのか。
「今日、楓君は、……明らかに何者かと共謀の上、逃走しています」
 鷹宮は少し辛そうに続けた。
「不自然なくらいに彼の情報は、防衛庁と公安が共同で敷いた監視ネットワークから消えうせている」
「何が、言いたいんです」
「彼一人で起こした行動と見るには、無理があるということです」
「…………」
「用意周到に計画しなければ、ここまで我々の目を、くぐりぬけることは不可能だということです」
 獅堂は首を振る。
 有り得ない。有り得ない――誰も――楓を操ってなどいない。
「……獅堂さん、あなたには見えない、あなたには……見えていなかったはずだ」
 足元が――揺れている。
 肩を抱かれていることにも気がつかなかった。
 獅堂は呆然と男を見上げた。
「どうして、昨年の冬、楓君の傍に現れた不審人物を報告しませんでしたか。彼の異変は、そこから少しずつ始まっていたのに、どうして何も、気づいてあげられませんでしたか」
「…………」
「……上が……あなたを、楓君に逆にコントロールされている可能性がある、と疑いを持ったのはそのためです。でも私には判る、あなたは――楓君の異変に、無意識に目を逸らしていただけなんだ」
―――無意識……に?
「あなたは楓君を好きなんだ。好きになりすぎて……盲目的に信じたかった。もう――楓君には、なんの問題もないのだと」
「…………」
「言ってください、何でもいい、楓君は、あなたに、何かのメッセージを残したりしませんでしか?何か――行きそうな場所を漏らしたりはしていませんでしたか」
「…………」
「国内から出られない以上、彼はいずれ確保される。お願いだ、獅堂さん、楓君をこれ以上追い詰めては、大変なことになる」
「……鷹宮さん、しばらく自分を、一人にしてもらえませんか」
 獅堂はうなだれたまま、そう言った。
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